随筆──元号のこと

滋賀 秀三


 日本学術会議の総会に初めて出た頃の出来ごとを今でも忘れられない。第11期が1年程も経過した頃、私は補欠繰上げで会員となった。右も左も分からぬその時に大きな問題となっていたのは、元号法制定の動きに対して、学術会議はこれを牽制する何らかの発言をすべきでないかという一件であった。
 周知のように、学術会議は発足間もない頃に、新憲法によって法的根拠のなくなった昭和という元号を慣性的に用いることを止めて、過去は問わず将来に向かって紀年法を西暦に一元化することを、政府に対する要望という形で提案している。かつ学術会議関係の文書にはすべて西暦を用いることを申し合わせ、実行してきた(この申し合わせは今期の初仕事、「日本学術会議の運営の細則に関する内規」制定の際に、他のあまたの申し合わせ等と一括して廃止されてしまったが)。これと逆行する立法の動きが出て来たことに対して黙してはおられないという気持ちが、相当数の会員の間に起こっていたのは無理からぬことである。他面、元号法の立法に当たるのは外ならぬ総理府であり、そのお膝下の学術会議から異論が出ては具合が悪いという事情のあったことも想像がつく。
 私は元来、元号を用いることに何か後ろめたさを感じる癖がついている。それは旧制私立7年制高校において終始お世話になった校長先生から受けた感化である。元号で生活しているゆえに日本人は自国の歴史を絶対年代にのせて某事件は今から何年前と理解する知識が身につかない。幸いに紀元というものがあるのだからこれを常用しようというのが先生の持論であり、生徒も例えば欠席届には、紀元2589年などと記して提出していた。
 そのようなこともあって、学問・思想の自由委員会の肝煎で全会員に配布された、初期の大先輩達が物した元号御廃止の議の簡潔な文章を見て、私は得も言えぬ感動を覚えた。それは一点の曇りなき合理性の主張である。このように清冽な言葉が(しかも殆んど全会一致であったという)語られ得た時代があったのかという新鮮な驚きを感じた。
 それに引換えて当面の議論は頗る煮え切らないものになり勝ちであった。正規の委員会等からは終に何らの提案も出ず、耐えかねた有志会員が声明文案を作成して提案し、総会の議題となった。かなり白熱した討論のさ中に、財務委員長を兼ねる副会長が、「この提案が可決されては財務委員長として困ります」と声高に訴えられる一幕もあった。投票の結果、大方予想されたとおり有志提案は日の目を見ずに終わった。
 それにつけてもかの副会長の一言は、複雑な憂鬱となって忘れられない。その後文化勲章まで受けられたかの敬愛すべき碩学をとやかく言う気持ちは当時も今もさらさらないのであるけれども、そこに端無くも現われたのは、国費によって賄われながら政府から「独立して職務を行う」(日本学術会議法第3条)ことが如何に厳しいことか、またしばしば脆いかという、どうしようもない事実なのであり、以来この憂愁から免れたことがない。
 紀年法については、元号法の制定によって既に問題は決着したかに見える。しかし果たしてそれでよいのだろうか。元号で生活していたのでは歴史年代の正確な感覚が身につかないだけでなく、世界の動きの中に己を位置付けて見る眼、己もまた世界の中の普通の一員なのだという感覚が知らず知らずのうちに鈍磨してしまうのでなかろうか。そもそも現代世界において誰も西暦とのかかわりなしに生きることができない。一億以上の人間が絶えず頭の中に換算する手間を積算すれば膨大な思考力の浪費と言うべきであろう。
 既に制定された元号法を必ずしも廃しする必要はない。国家の体面にかかわる重要な儀式や文書に元号を用いるのはよい。市民も年賀状などに書いて楽しむのは良いであろう。しかし官公庁の文書一切をこれで統一し市民の日常生活もこれに倣わせようとするのは、極言すれば精神的鎖国政策ではないだろうか。
 中国では西暦と言わず公暦と言う。メートルを公尺、キログラムを公斤と言うのと同類の表現であり、言い得て妙である。日本でもこの言葉を輸入するとよい。尺貫法からメートル法への切り替えを敢行した功罪は、功の方が遙かに大きかった筈である。同様にいつの日か元号から公暦への切り替えが行われなければならないと思う。
 たった今それを言っても空しいことは承知の上であるが、詩人も謳ったように言葉とは、放たれた矢のように視界から消え失せても、思わぬ時に思わぬ処に反響を見出すものである。日本学術会議の元号御廃止の議も何時かまた省みられる日が来ると信じたい。

(『日本学術会議月報』第27巻第12号)

(寺田補)【参考】日本学術会議ホームページ
日本学術会議第6回総会決議「元号廃止・西暦採用について(申入)」(総発第183号の1 1950年5月6日)


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