東京大学東洋文化研究所漢籍分類目録の刊行に接して
──史部政書類についての所感──

滋賀 秀三


 久しく待望されていた東洋文化研究所漢籍分類目録(以下,本目録と称する)がこのたび公刊の運びとなったことは,学界のために真に慶賀に耐えない。われわれ中国法制史を研究する者にとっては,従来,同研究所の大木文庫分類目録の恩恵を蒙ること測り知れないものがあったが,同研究所の一般書のうちに存する重要資料については,たまたま目にとまって記憶するもの以外に網羅的に探す術がなく,とかく注意を怠りがちにならざるを得なかった。研究所のすべての蔵書を一貫した分類のもとに収める本目録の公刊は,まさしくこの渇をいやしてくれるものであり,利用者の立場にある者として,目録編纂という苦労の多い大事業に献身せられた関係諸賢に対して,感謝の気持を何と表現してよいかその言葉を知らない。
 新刊のずっしりと重い目録を手にして,目はおのずから史部:職官類,政書類あたりに注がれる。ここには当然,大木文庫の「大」の字が頻出する。そしてここかしこに仁井田文庫の「仁」の字が新鮮な光を放つ。何も表示のない一般書のうちに,かような書物がと今更のように目を開かれ,飛んでいって実物を確かめたい衝動にかられるものが少なくない。つくづくとこの目録を手にできた仕合わせを感ずる。
 しかしまた,分類項目の立てかたおよび或る書物の分類上の帰属について,若干の望蜀的な所感もないではない。
 本目録には,京都大学人文科学研究所漢籍分類目録(以下,京都目録と称する)を範とするという方針が厳しく貫かれている。両研究所の蔵書の間の有無を対照する上には頗る便利であり,このこと自体は賞賛に価する英断と言うべきである。しかしながら,分類項目の立て方は,基本は歴史的に定まっているにしても,細目に至っては,対象たる蔵書の構成によって左右されることを免れない。或る種の図書が多数集められたコレクションにおいては,その分野についての細かな分類が必要かつ適切となるに反して,その種の図書を僅かしか持たないコレクションの分類においては,その部分をむしろ大まかな項目だけにしておいた方が便利でもある。このような意味での偏向を,かの京都目録といえどもやはり免れていないと見なければならない。法制書(大清会典のような高いレベルの書でなく,実証的研究に不可欠な現場レベルの書)は,京都の蔵書のうちにおいて比較的手薄な分野と言わなければならない。とくに京都目録の前身たる東方文化研究所漢籍分類目録の時代において然りであった。そこで立てられた分類項目が,金科玉条となって,中国本土以外では世界にその比を見ない法制書の大コレクションたる大木文庫をも呑みこんだところの本目録に,殆んど機械的に適用されたところから,或る種の不都合が生じているという感を否むことができない。
 たとえば律に関する書を,大木文庫は,明代以前,清代律例正文,清代輯註・按語,清代釈義・摘録・図表の4部に分って著録排架しており,頗る便利なのであるが,本目録ではすべてがごたまぜにただ一つの「律学」なる項目に入れられ,7ページ19段にわたる大項目となっている。これが進歩であるとは夢にも言えないであろう。ここなどは大木文庫の分類をそのまま生かしても,東西両研究所対照の便という本目録の貫くべき目的を,それほど妨げることにはならなかったのでないかと考えられる。
 小さいところでは,大木文庫の「提牢」なる一項目 これはかって監獄について若干調べる必要のあった折に大いに恩恵を蒙ったのであるが,本目録では当然消えている。そこに著録されていた書物を探すと,「平獄」のうちに二,三が見出されるが,その他はどこへ行ったか分らない。
 また,公牘という言葉は,人口にも膾炙し,分類学上確立した項目とのみ思っていたのであるが,京都目録に存在せず,したがって本目録にも立てられていない。大木文庫の「公牘」に属する書の多くは政書類十三雑録之属に入れられている。京都目録を範とする以上やむを得ないにしても,雑録之属の中の小項目として「公牘」を立てることは可能であったのではなかろうか。邦計之属の中には「会館」という京都目録にない新項目が立てられているのを見るにつけても,その感を深うする。
 公牘のうちの特殊な部類と言うべき「判牘」については,京都以来,法令之属の中に一項が立てられている。ところで,何をとくに判牘に入れ,何を公牘一般に入れるべきかは,程度の問題であって判定がむづかしい。本目録の「判牘」のうちに,董柿の「汝東判語」を著録して,同人の「呉平贅言」「晦闇斎筆語」を落す(雑録之属にまわす)のは,一書中に占める判の分量を見て50パーセント以上のものを取るとすれば確かにそうなるのであって,その意味では妥当なのであるが,同一人が前後三箇処の知県として書き与えた判その他の文章をそれぞれ集めた三部作を,離ればなれにするのは惜しいような気もする。徐士林撰「徐雨峰中丞勘語」が古今典礼之属(361頁上段)に入れられているのは何とも解しかねる。ケアレス・ミステークによるものであろうか。これこそ百パーセント訴訟事案について判じた公文の集成である。李之芳撰「棘聴草」も同様であり,これが「律学」(380頁上段)に入れられていることに対しては,首をかしげざるを得ない。これらをみな,大木文庫は「公牘」一本に集めることによって,無理なく処理している。
 省例の類については,どの目録も特別な項目を立てていない。本目録では各代旧制之属の末尾の方に集まっている(359頁上・中段)。しかるにただ一つ,江西省の省例と目すべき「西江政要」は雑録之属(402頁中段)にまわされている。京都目録の同処に見える「西江政略」(この書筆者未見)に引きづられたものであろうか。大木文庫目録が総類:章則のうちに他の省例と並べて著録するのが正しいとしなければならない。
 さりとて大木文庫目録も,もとより完壁なものとは言えないであろう。たとえば「京控承当各案看語」なる抄本に同文庫目録が「清官撰」と註記していることについて,筆者は大いに疑問を感じていたのであるが,果たせるかな本目録では「清闕名輯」と改められた(386頁上段)。書物を一つ一つ手に取って検討した厳しい作業過程がこの一事のうちにも想見される思いがして,襟を正さずにはおられない。他面,本目録380頁中段中央部に見える「大清律集解附例」(清沈之奇注)の康煕刊と乾隆刊の二本は,大木文庫目録の記載を襲ったものであるが,実は,沈之奇撰「大清律輯註」と称すべき書である。表紙・版心のみならず整理用に挟まれた小紙片にまで「大清律輯註」とあるにかかわらず,何故に目録には異った書名で著録されたのか不思議でならないのであるが,この点は本目録でも改められなかった。沈氏の「輯註」は有名な書であり,このままでは研究所に同書を蔵していないような錯覚を起さしめる恐れがあるので,特に記しておきたい。
 さて,立帰って考えるに,どのような分類方式も唯一絶対というものではない。異った視点から編まれた各種の目録は相互に補いあって利用者を助ける。本目録と大木文庫目録との関係はまさに然りである。後者の分類方式とその方式のもとでの書物の配属とには,なみなみならぬ“確かさ”があり,慣れれば慣れるほどその独特の味が体得される。そこで一つのお願として,もしも可能なれば,後日刊行される本目録の索引の末尾にでも,大木文庫目録のせめて内編だけを附載していただけないであろうか。それが不可能なれば同文庫目録を本目録が出たからとて絶版にはしないことをお願したい。
 本目録の刊行に次いで,研究所では,図書の排架自体を目録に合わせて組替える計画があると仄聞する。これまた大事業であって,その熱意には敬服のほかはない。ただそれは,ひとまず新学の部について施すのが効果的なのではあるまいか。漢籍の再排架については余程慎重な配慮が必要であろうし,とくに大木文庫までを崩すような再排架計画への着手は慎重の上にも慎重であっていただきたいと念ぜずにはおられない。むしろ,はっきり申せば,大木文庫だけは永久に現状を維持していただきたいというのが,日頃恩恵を蒙る利用者としてのいつわらざる願である。
 最後に改めて,目録編纂の成就を慶祝し,文中不行届の点についてはひたすらに海容を乞いたい。

(東京大学東洋文化研究所東洋学文献センター『センター通信』10号、1974年)


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