滋賀秀三先生遺稿
汪輝祖 『病榻夢痕録』 翻訳稿


  滋賀秀三先生(2008年2月逝去)は日頃から、清代の著名な幕友(後に自ら県知事となる)の汪輝祖(雍正八年:1731年~嘉慶十二年:1807年)の人となりをいたく敬愛しておられ、東大退職後の一時期、汪氏の自訂年譜『病榻夢痕録』(嘉慶元年:1796年序)の全体を翻訳出版する希望を漏らされていた。しかしその後、中国上代史の研究、民事訴訟の性格付けをめぐる論争、法典編纂史をめぐる考証的研究の完成といった作業に追われ、その計画は実現されないままに終わった。

  しかし没後に書斎を整理する中、2006年1月に学士院例会で報告を予定し、結局は健康悪化の為に前日になって取り止めとなった報告「汪輝祖──人とその時代」の完全原稿と、『病榻夢痕録』の巻頭から乾隆三十年(汪輝祖三十六歳)の条まで(これで該書全体の二割ほどに当たる)の翻訳原稿(註の在り方から見て明らかに未定稿と思われる)が見つかった。清代法制史研究のための一情報源という位置づけとは別の仕方で、汪輝祖の人生をそれ自体として取り上げて存分に論じたいというお気持ちを、先生は最後まで持っておられたのである。

  前者は、滋賀先生が汪輝祖に関して書かれた唯一のまとまった文章であり、それが未発表のままに埋もれることを惜しんだ学士院会員・星野英一先生のご尽力により、このたび『日本学士院紀要』(第64巻1号、2009年9月。CiNii:本文PDF)に掲載される運びとなった。また後者も未定稿とはいえ滋賀先生の翻訳計画の一端を示すものとして貴重であり、滋賀先生のテキストの読み方を学ぶ格好の素材である。そこでこちらについては、滋賀令夫人より寺田と共に著作権管理を委ねられた高見澤磨氏とご相談のうえ、WEB版の形でここに公開することとした。

  以下に掲げるものは、滋賀先生の翻訳稿(訳文と註とから成る)に、参考のために寺田が対応する原著原文を添え、また挟み込まれたメモを元に僅かな補記を加えたものである。原著原文は滋賀先生が翻訳の底本とされた『汪龍荘遺書』(光緒十五年江蘇書局刊本影印。華文書局印行。註の中に時々現れる洋頁数はこの華文書局の洋装本の頁数である)から取り、句読も1977年(滋賀先生五六歳)冬学期の東京大学大学院演習「『病榻夢痕録』講読」(参加者は、その年に助手に採用された寺田、当時就任直後の若き助教授であった日本政治思想史の渡辺浩先生と台湾からの留学生の陳さんの三名であった)において滋賀先生が示されたものに従った。闕字箇所は原文と同様に一字分の空格。また原著で細字になっている箇所は丸括弧で囲み、擡頭箇所は二字分の空格で代用した。

  テキストの校正に当たっては鈴木秀光氏・赤城美恵子氏のご助力を頂いた。記して感謝を示す。

(2009/09/17 寺田 浩明)



古人は老境に入っても反省自戒することを忘れず、自己の生涯の経験を書き留めて事の得失を考える鏡とした人も少なくない。これまた百里を行く者は九十里をもって半ばとする心掛けである。

古人晩節末路,不忘箴儆,往往自述生平,藉以考鏡得失。亦行百里者半九十意也。
余は幼少にして父を失い庇護者なく、父君の遺訓を胸にいだいて、身を持ち崩さぬよう心を引き締めてきた。幕友や知県を勤めること数十年のあいだに、境遇は穏やかなときも厳しいときもあったし、世の様も移り変わった。事に際してはそれなりの感動があったけれども、過ぎればすぐに忘れてしまった。職務怠慢を犯し、主上のお情けによって重い懲罰は受けることなく、職を解かれて郷里に引退する身となった。過失を反省することによってその過失の埋め合わせとするならば、他山の石として、わが友たちの戒めともなるであろう。いささか既往を言挙げして、将来を勉励するよすがとしたい。

余少孤露,承 先人遺訓,凛凛懼隕墜。佐治入官數十年閒,境遇夷險,風景變遷。情動於事,過輒忘之。奉職無状,邀荷聖恩,不加重譴,帰臥故廬。省諐補過,他山之錯,畏我友朋。多擧既往,以勖将来。
去年の冬、手足麻痺する病にかかり、さては重態となって、自分でももはや助からないものと思った。父君に地下にまみえる顔もないことを恐れ、つぎつぎに過ぎ去った事どもを思い起こし、とめどもなく思いつづけた。さきには忘れていたことが今は却って歴々とまぶたに浮かんで来る。おりもおり夢を見て感ずることもあり、冥界の実在はいよいよ確かなものと思われて来る。人の一言一行はみな上から臨み見られているのだ。

去冬嬰末疾,轉更沈劇。自分必死,恐無以見 先人地下,循省舊事,不已於懐。嚮之所忘,今迺厯厯在心目矣。會感夢中案冥事益信一言一行如有臨鑒。
春になってから病いもややおさまって来た。そこで継培・継壕二人のむすこに口授して、年譜の形式で回想を拾い書きし、今年の夏のことまで記して終りとした。六月に継坊が礼部の試験〔3年ごとに北京で行われる科挙最終段階の会読〕を終えて帰って来たので、これに命じてさらに編集の手を加え、分けて二巻とし、標題を『病榻無痕録』とした。

入春以来,病體稍閒,口授培壕兩兒,依年撮記,至夏而止。六月。坊兒試禮部還,命其重加排比,析為二巻。題曰病榻夢痕録。
蘇東坡の詩に「事は春夢の如く了として痕無し」とある。余は事を視ること夢の如くするだけの思い切りよさがなかった。それゆえ痕がのこることを免れない。しかしながら夢は虚であり痕は実である。実なれば誠であり、誠なれば自己を欺くことはできない。〔余が〕くそ真面目に守り通して来たものは実にここに在るのだ。ここに〈はしがき〉して子孫に告げておく。世渡りの難しさと保身の容易でないことを知らせておきたいのだ。

東坡詩云,事如春夢了無痕。余不敢視事如夢,故不免於痕。雖然夢虚也,痕實也。實則誠,誠則毋自欺。硜硜之守,實即在此。書其端以告子孫,裨知渉世之難,保身之不易也。
帰廬主人輝祖識るす。時は嘉慶元年七月一日。


註: 帰廬:晩年の号。乾隆60年の段。534頁。

歸廬主人輝祖識。旹嘉慶元年七月一日。


病榻夢痕録 巻上

雍正八年〔1730〕庚戌。十二月十四日寅の刻に余は大義邨中巷の尚友堂の東室で生まれた。汪氏は大倫公が始めて鄞から粛山に遷ってより、十六世を伝えて曾祖父孚夏公(諱は)必正となる。曽祖母は沈孺人。男子三人を生んだ。祖父贈文林郎朝宗公(諱は)之瀚はそのうちの末子である。祖母も贈孺人、そして曾祖母の姪〔つまりこれまた沈孺人〕である。男子二人を生んだ。長男が父君である。父君とは生前に河南省衛輝府淇県の典史、死後文林郎を贈られ位を進めて奉直大夫を贈られた南有公(諱は)楷である。(輝祖は)東山に遷った始祖から数えて十九世の孫となる。

雍正八年庚戌。十二月十四日寅時。余生於大義邨中巷尙友堂之東室。汪氏自大倫公始,由鄞遷蕭山,傳十六世爲 曾大父孚夏公(諱)必正。曾大母沈孺人,生子三。 先大父,贈文林郞朝宗公(諱)之瀚,季子也。 先大母贈孺人,卽 曾大母姪,生二子。長爲 先考,原任河南衛輝府淇縣 典史。贈文林郎晉贈奉直大夫南有公(諱)楷。(輝祖)遡遷蕭祖爲十九世孫。
その時〔父君〕奉直公は謁選〔仕官申請〕のために上京していた。嫡母のかた方太宜人は長患いが治癒しておらず、生母のかた徐太宜人は産後四日にはもう起き出して炊事水汲みをした。そのため下痢症の身となり、老年まで治癒しなかった。(輝祖)にとっては終身の極まりない痛みである。(以上、父祖の諱は同郷の王宗炎に頼んで筆を入れてもらった。)

時 奉直公以謁選入都。 先嫡母方太宜人,宿疾未瘳。 先生母徐太宜人免身,四日卽起治爨汲。因得脾泄病,至老不瘉。爲(輝祖)終身罔極之痛。(同里王宗炎塡諱。)

雍正九年〔1731〕辛亥。二歳。〔父君〕奉直公は北京に逗留。

九年辛亥。二歲。 奉直公畱京都。
以前から奉直公は山陰の王坦人先生(宗閔)と最も心を許しあう仲であった。庚戌〔去年〕の六月、〔王坦人先生にひとりの女子すなわち後に汪輝祖の妻となり宜人を贈られた〕王宜人が生まれると、すぐさま将来この子を汪家に嫁入らせる約束をした。やがて余が生まれたので、そこで婚約が結ばれた。媒酌はなかったのである。

先是 奉直公與山陰王坦人先生(宗閔)交最摯。庚戌六月。王宜人生,卽有婚姻之約。及余之生,遂訂姻焉。無媒妁也。

雍正十年〔1732〕壬子。三歳。〔父君〕奉直公は河南衛輝府淇県典史の官に任ぜられた。

十年壬子。三歲。 奉直公選河南衞輝府淇縣典史之官。

雍正十一年〔1733〕癸丑。四歳。

十一年癸丑。四歲。

雍正十二年〔1734〕甲寅。五歳。師のもとに通い始めた。五月二十九日、嫡母のかた方太宜人が亡くなった。

十二年甲寅。五歲。就外傅。五月二十九日。 先嫡母方太宜人卒。
〔生母〕徐太宜人はいつも(輝祖に)こう言い聞かせていた。「お前が生まれた時、わたしはまだ年が若く昼間は働きずくめだったので、あの母様はわたしが疲れて寝込んでしまいお前の哺乳を忘れることを心配して、夜になるとお前を抱いて寝て、お前が泣くとわたしに渡して乳を飲ませ、飲み終わるとまた抱いて行っておしめを取り替える。よく乾いているかどうか必ず自分の肌でさわってみる。それが何時ものことでした。臨終にもなおお前の手をとって、お前の二人の姉さんによく面倒を見ておくれよと頼んでいました。こんなにお前をいとおしく思って下さったのだから、お前は何時も覚えていなければいけませんよ」と。(輝祖)が四五十歳になっても、二人の姉とこのことを話し合うと、嫡母の慈愛が身にしみて、顔見合わせて涙をこぼしたものである。

 徐太宜人嘗語(輝祖),汝生時,吾方年少。晝勞苦。主母恐吾倦寐,失汝乳哺,夕抱汝寢。汝啼付吾乳。乳訖復抱去。易襁褓燥溼,必身親,以爲常。氣垂盡,尙執汝手。屬汝兩姊,好好照看。憐汝如此。汝當時時記念。(輝祖)年四五十。與兩姊言,感母慈恤,猶相向泣下也。
十一月、祖父は〔任地にある父〕奉直公のために後妻として王太宜人を娶り迎えた。

十一月 先大父,爲 奉直公聘繼室 王太宜人。

雍正十三年〔1735〕乙卯。六歳。王太宜人は徐太宜人と一緒に(輝祖)を連れて〔父の任地〕淇県に赴いた。家静山師(崇知)が招聘されて官舎に住み込み、授業を受けることになった。

十三年乙卯。六歲。 王太宜人偕 徐太宜人,挈(輝祖)之淇縣。延家靜山師(崇智),至署課學。

乾隆元年〔1736〕丙辰。七歳。祖父君が淇県の官舎に来られた。そして余に(輝祖)と命名された。(輝祖)の生まれたとき祖父君は齢すでに五十九、はじめて孫を抱いて大変に喜び、幼名を垃圾〔ごみ〕と呼ぶことにした。ごみが賤にして多くしかも農作に役立つことにあやかったものである。五歳のとき師に就くと、名をかえて鰲〔うみがめ〕と呼ばれた。今ここに至って、余がよく字義を理解し読書の素質があるのを見て、今の〔輝祖という〕名を決めてくれたのである。

乾隆元年丙辰。七歲。 先大父至淇署。命余曰(輝祖)。(輝祖)之生也, 先大父年已五十有九,甫抱孫甚喜。咳名曰垃圾。取其賤且多,而有資於農也。五歲就傅,更名曰鰲。至是見余能解字義可讀書,爲定今名。
余は酒を見るとすぐ喜んで飲んだ。ある日官舎で客を招いて宴会があり火酒が出た。それを盗み飲みして酔って意識を失った。髪を水中に浸し、一晩あけてようやく蘇生した。余はそれ以来酒は全く口に入れることができない。

余見酒,輒喜飮。一日署中讌客,有火酒盜飮醉死。浸髪水中,越夕乃甦。自是盃勺不能入口。

乾隆二年〔1737〕丁巳。八歳。官舎で読書。

二年丁巳。八歲。讀書官署。
二つの陶器が一緒に地べたに落ちて薄い方が壊れたことがあった。〔父君〕奉直公は壊れなかった方を取り上げて(輝祖)に見せながら言われるには、「このくらい厚ければ何だって壊れはしない」。そしてまた「人も緞子のように厚くならなければいけない。緞子なら何年でも使うことができる。まちがって紙となったとしても、繭紙とならなければいけない。繭紙なら何度でも削って使うことができる。もし竹紙となったら一度つついただけですぐ破れてしまうぞ」と言われた。

有兩陶器,俱墮地。薄者燬焉。 奉直公舉完者而示(輝祖)曰,能厚如此,則均完矣。因言做人,須厚如緞,可耐幾年。過卽爲紙,亦須爲繭紙,尙可剝幾層。若爲竹紙,則一觸便破矣。

乾隆三年〔1738〕戊午。九歳。官舎で読書。

三年戊午。九歲。讀書官署。

乾隆四年〔1739〕己未。十歳。正月、〔父君〕奉直公は、祖父君が年老いても家に弟があるため規則として終養〔親の晩年を見取るという理由で退官〕することができないので、病を理由にして退官した。

四年己未。十歲。正月 奉直公,以 先大父年老,家有弟,例不得終養,引疾去官。
三月、淇県を旅立ち、済寧経由の道をとった。王太宜人はちょうど妊娠中で、徐太宜人と一緒に幌つきの一輪車に乗りひどく苦労された。貧しくて大車を雇うことができなかったのである。五月、家に着いた。弟(栄祖)が生まれたが、七月に夭折した。

三月發淇縣,取道濟寕。 王太宜人方姙身,同 徐太宜人坐獨輪篷車甚苦,以貧不能雇大車也。五月抵家。弟榮祖生。七月殤。
祖父君は(輝祖)を宝のようにいたく可愛がられた。観劇のたびごとに必ずお供に連れて行き、帰ると劇中の人物の姓名と賢否を尋ね、(輝祖)が答えることができると喜ばれた。ある日〈繍襦記〉が演ぜられるのを観た。祖父君が言われるに「鄭元和はうまいこと状元〔進士第一位合格者〕になった。まともな人になったと言ってよいね」。(輝祖)は答えて「状元にはなったけれども、やっぱり出来そこないだ」と言った。祖父君はいつもこのことを親戚知人に話しては、「この子はなかなかどうして、〈まともな人になる〉という意味をよく心得ているわい」と言っておられた。(輝祖)は今に至るまでこれを心に留めて、一日も忘れたことがない

 先大父寶愛(輝祖)甚。每觀劇必令隨侍。歸則問所演劇姓名賢否。能對則喜。一日觀演繡襦記。 先大父曰,鄭元和賴得中狀元,可以做人。(輝祖)對曰,雖中狀元,畢竟不成人。 先大父嘗舉以吿親黨曰,此兒竟識得做人。(輝祖)至今,識之不敢忘一日。
近隣の生員で歳試〔生員に課される年に一度の学力試験〕に劣等の者があった。人々がその名を話のたねにする。(輝祖)もそれを笑った。祖父君は怒って輝祖を鞭打ち、「秀才〔生員〕になってはじめて優等や劣等があるのだ。お前はまだ〈等〉もないくせに軽薄に人を笑ったりしてよいものか」と言われた。(輝祖)が跪いて謝ると、また言われるには、「わしの望みはお前がいつの日か秀才となって、藍衫〔読書人の服〕を着てわしを墓で拝んでくれることなのだ」。

有隣生歲試劣等,眾斥其名。(輝祖)亦笑之。 先大父怒扑(輝祖)曰,是秀才纔有等。汝尙無等。安可輕薄笑人。(輝祖)跪謝。則又曰,吾望汝他日做秀才,著藍衫拜吾墓下耳。
十月、二番目の姉が孫氏に嫁入りした。余は抜け出して舟に登って花嫁の乗る紅いお輿を見物していた。足を滑らせて水に落ち、舟底に潜ってしまい、時を経てから見つかって救われた。祖父君からひどく鞭打たれた。

十月。仲姊歸孫氏。余濳岀登舟觀綵輿。失足墜水,沒入舟底,逾時獲救。 先大父痛撻之。
十一月二十日、祖父君が亡くなった。この年も引き続いて静山師について学んだ。

十一月二十日, 先大父卒。是歲仍從靜山師學。

乾隆五年〔1740〕庚申。十一歳。元日、蹴鞠あそびに夢中になっていると、〔父君〕奉直公は叱ってこれを止めさせ、『陳検討四六』という一冊の本を与えて毎日半篇ずつ読むことを命じ、〔読み終わるまでは〕二階から下りることを許されなかった。(輝祖)が後に幕友となってから、駢体の文が書けることで当局者の目に止まったのも、これが本なのである。〔乾隆20年の段参照〕

五年庚申。十一歲。元日,效蹴鞠戲。 奉直公訶止之,授陳檢討四六一冊,令每日讀半篇不得下樓。(輝祖)後佐幕以騈體文受知當事,本於是也。
この年、粛山の生員鄭又亭師(嘉礼)を招聘して家庭教室を開き(輝祖)をして業を受けしれめられた。

是年,延邑生鄭又亭師(嘉禮)主塾,令(輝祖)受業。
もともと、奉直公は商売〔恐らくは行商〕で家を起こし、田百餘畝を買い入れ、規定の金額を捐納〔つまりは買官〕して役人になった。叔父君〔すなわち奉直公の弟〕は郷里にいて、博徒に誘惑され、その田を売り飛ばして〔賭博に注ぎ込み〕殆ど売り尽くしてしまった。奉直公が退官して帰ると、訴訟を起こせば必ず認められ田を取り戻すことができるであろうと勧める者もあった。しかし奉直公は〔訴訟して〕叔父に罪を着せる気にはなれなかった。そして今、生活費は日毎に乏しくなるので、祖父君の墳墓の始末を済ませたところで、広東に出かけて稼ぐことになった。

初 奉直公,以賈起家,置田百餘畞。援例入官。先叔父里居爲博徒所蠱,斥賣幾盡。 奉直公旣歸。或謂訟必直,田可復也。 奉直公不忍辠叔父。至是資用日絀。經理 先大父墳墓,畢之廣東謀生。
八月十五日の夕、回り道して会稽の親戚に立ち寄った。(輝祖)もそこまでお供した。このとき舟で出かけたが、はじめは密雨が糸のように降っていた。(輝祖)は奉直公の左の股を枕にして寝た。二十餘里も行ったところで、奉虐公は(輝祖)を撫で起こし、幌を払って四方を眺め、さて(輝祖)にふり向いて言われるには、「お前はわしの今度の旅立ちが何のためであるかを知っているか」。(輝祖)が答えられないでいると、奉直公が言われるに、「老いの迫る身で〔広東などで〕人に頼るのはわしの望みではない。だが幸いに〔あそこには〕古くからの知人がなお健在でいる。この時期に稼ぐことを考えておかなければ、お前が生きてゆく工面がつかなくなるだろう」。(輝祖)は泣いた。奉直公も泣かれた。湿っぽい気持ちをどうしようもなくなった。

八月十五日夕,紆道過會稽外家。(輝祖)從初放舟。密雨如絲。(輝祖)枕 奉直公左股卧。行二十餘里,撫(輝祖)起,推篷四望,顧謂(輝祖)曰,兒知吾此行何爲者。(輝祖)未有以應也。 奉直公曰,垂老依人,非吾願也。幸老親尙健,不及此時圖生理,兒將無以爲活。(輝祖)泣。奉直公亦泣。瀏漓不自勝。
奉直公はつとめて気を持ちなおし、(輝祖)の涙を拭いてくれた。いろいろと経書を取り上げては(輝祖)に暗誦させる。そして問われるには、「お前が読書するのは何のためかね」。(輝祖)は答えて「役人になるためです」と言う。すると奉直公は「それは間違いだ。役人になるのは読書の中の一事でしかない。それを目的にすべきものではない。役人になることを目的とすれば、〈まともな人になる〉ことが出来ないかも知れない。〈まともな人になる〉ことを目的とすれば、たとえ役人にならないでも、好い人になることが出来る。巡り会わせで役人になった時には必ず好い役人になり、民衆の罵りを受けず、悪い因果を子孫にのこすこともないだろう。お前これをよく覚えておくように」と言われた。それからまた『論語』の〈学而〉〈孝弟〉など数章をいろいろと取り上げて講釈してくださり、夜半になって寝た。会稽に着いてからもまた『綱鑑正史約』一冊を手渡して、「後日成人してからこれをよく読むがよい」と言われた。

强爲(輝祖)收淚。雜舉經書,令(輝祖)背誦。因問曰,兒以讀書何所求。(輝祖)對曰,求做官。 奉直公曰,兒誤矣。此亦讀書中一事。非可求者。求做官,未必能做人。求做人,卽不做官,不失爲好人。逢運氣當做官,必且做好官,必不受百姓詬罵,不貽毒子孫。兒識之。後又雜舉論語學而孝弟數章,講說之。夜分乃寢。至會稽又手授綱鑑正史約一冊曰,日後長成當熟此。
会稽から(輝祖)を送り出して家に帰らせ、自身はそこから旅立たれた。思えばこれが父君から教訓を受ける最後の機会となったのだ。

遣(輝祖)歸家遂行。蓋自此不復奉庭訓矣。

乾隆六年〔1741〕辛酉。十二歳。鄭又事師について学ぶ。

六年辛酉。十二歳。從鄭又亭師學。
〔父君〕奉直公は去年の十二月十五日に南海県〔現在の広州市〕の旅宿で亡くなられ、四月に遺体が帰った。〔嫡母〕王太宜人、〔生母〕徐太宜人の二人は堅く節を守って貧に甘んじた。糸紡ぎに精出し、あいまに紙銭の糊はりなどもして自力で糧をえた。昼夜となく少しも休む暇がなかった。いつも泣いて(輝祖)に言い聞かせ、「お前勉強しないなら、とても身を立てられません。お前の父様の後が絶えてしまうなら、わたしたち二人は生きているよりも死んだ万がましよ」と言われた。(輝祖)を督励することいよいよ厳しいものがあった。

 奉直公,於前一年十二月十五日卒於南海旅邸。四月喪歸。 兩太宜人勵節食貧,紡績餘功、兼餬楮鏹自給。晝夜不少休息常泣而訓(輝祖)曰,兒不學必無以爲人。汝父無後。吾二人生不如死。督(輝祖)愈嚴。

乾隆七年〔1742〕壬戌。十三歳。鄭又亭師について学ぶ。

七年壬戌。十三歲。從鄭又亭師學。
そのころ汪一族は暮らし向きがとかく振るわず、身近な族人の中にも自活できない者が少なくなかった。博徒どもがまたこれを誘惑した。そこで皆、うちの二人の母は役人生活をしたのだから臍繰りがある筈だと見込んで、昼となく夜となく叔父をけしかけて両母に向かって銭をせびらせ、銭を出さないと(輝祖)を鞭打った。両母は方々から銭を借りてはこれに応じていた。ひどいときには徐太宜人の手から(輝祖)をもぎ取って連れ去ることさえあった。これを見て、遠くに引っ越して難を避けることを勧める人も多かった。しかし両母は先祖のみ霊はここに在るのだからと言って、どうしても聞き入れなかった。時には炊事もろくに出来ずひとえの着物で冬をしのぐ有り様であったが、祖母君の奉養と(輝祖)の養育にかけては衣食少しも缺けることがなかった。

時門緒中衰,近族多不自立。諸博徒復誘之。皆疑 兩母從宦有私蓄。日夜慫恿叔父,向 兩母索錢。不得錢則撻(輝祖)。 兩母百方貸錢應之。甚至從 徐太宜人手,篡(輝祖)去。多有勸徙居以避者。 兩母以宗祊在堅不聽。往往炊烟不繼,至衣單禦冬。奉先 大母及育(輝祖),則衣食無少缺也。

乾隆八年〔1743〕癸亥。十四歳。鄭又亭師について学ぶ。師は同学四人〔他の三人は汪家に通ってくる〕のうち(輝祖)だけを厳しく扱う。作文一つ書くごとに必ず三四回書き直させる。昼から晩まで一刻も休ませない。(輝祖)は苦しくてたまらず、内々に姉の夫〔姉は乾隆四年にここに嫁いだこと前出〕孫恵疇(世埰)に頼んでわけを聞いてもらった。師が言われるには、「この子は必ずものになる素質がある。惜しむらくは精神を集中しようとしない。わたくしが鞭をもって督励すれば或いは学問に向かうようになる望みがあるかも知れない。気儘にさせておけば一生を駄目にしてしまう」ということであった。(輝祖)は終生この師の言葉を肝に銘じて感じている。

八年癸亥。十四歲。從鄭又亭師學。同學四人。遇(輝祖)獨嚴。每作一藝,必令三四易稾。自晝逹昏,不使頃刻暇。(輝祖)甚苦,私屬姊壻孫惠疇(世埰)問之。師曰,此子必可成就。惜不肯潛心。吾鞭闢近裏,或可望其向學。縱之則終身誤矣。(輝祖)一生感師言入肺腑也。
両太宜人〔両母〕が十分な報酬を出す資力がなかったため、年末に師は他に家庭教師の口を求めて去って行かれた。

以 兩太宜人、力不能具脩脯,歲終師他就館。

乾隆九年〔1744〕甲子。十五歳。同族で遠い叔父にあたる〔汪〕奐若先生の家で上虞の徐冠周師(冕)を招碑して家庭教室を開いたので、(輝祖)はそこに通学した。朝夕の行き帰りに〔生母〕徐太宜人は付添い護って下さった。師は齢七十になろうとし子〔むすこ〕は幼かった。輝祖を見ると自分の子のように思われる。それゆえ大へん心をこめて輝祖を教えて下さり、煥曾という字〔あざな〕を下さった。いつも(輝祖)を督励して、「お前勉強しなければ身を立てることができないぞ。お前の母様もうだつの上がる日がないぞ」と言われた。輝祖の家庭に困難があることを知っておられたからである。輝祖の家は教室からは河の反対側にあった。教室を退出するとき師はいつも必ず立って見送り、輝祖が橋を渡ってから内に入られた。今でもこれを思い出すといつも涙が出る。

九年甲子。十五歲。族叔奂若先生家,延上虞徐冠周師(冕)主塾。(輝祖)附學焉。朝暮往來, 徐太宜人親翼護之。師年將七十子幼。視(輝祖)則念已子。故敎(輝祖)極摯,爲制字曰煥曾。嘗勖(輝祖)曰,若不勉學不能成立。若母無岀頭日矣。葢知(輝祖)之有家難也。(輝祖)家與塾隔河。每岀塾,師必目送(輝祖)過橋乃入。至今念之,猶常泫然。
〔去年までついた〕鄭師は生徒の作文の缺点を指摘すること最高に厳しかった。〔それにひきかえ〕師〔今度の徐師〕はおだて励ますのを事とし、褒め言葉が大変たくみであった。それゆえこの年の作文には伸びやかな調子が出ている。思うに鄭師でなければ学問の基礎を立てることができない。師〔徐師〕でなければ学問の興味を伸ばしてやることができない。二師の教えかたがこのようであったのは、いわゆる〈相得て益ます彰かなり〉と言うものなのであろう。

鄭師閱文最嚴。師以鼓勵爲事,奬許甚至。故是年行文調暢。葢非鄭師,無以立學之基。非師無以長學之趣。二師之敎如此所謂相得益彰者乎。
この年、外舅〔しうと。妻の父〕王坦人先生は准安府山陽県の典史に任官した。そこに余が叔父に従いさいころ博奕を打って素行が修まらないという噂を伝える者があった。それに迎合して、〔余との婚約は〕媒酌も結納もなかったのだから取り消せないことはないと進言する者があり、家の人達もほとんどその説に惑わされそうになった。〔婚約者〕王宜人はこれを聞いて日夜泣いていた。母なる人がその有り様を告げ外舅もこれに同情した。時に余はちょうど詩を作る稽古をしていた。〈即事〉の詩に「事は平らかにし難き処有り。心は用いざるの時無し」、〈牡丹の園に題す〉の詩に「図成りて訝る莫かれ開くこと早からざるを。開く時便わち花の王と称さるるを得ん」、〈長短句〉の詩に「腸は黄河に似て廻ること九折。一折ごとに一番の愁い。河は流れて尽きる頭(ところ)無し。愁いは幾(いつ)の時に到りてか休(や)まん」などの句があった。近所の人がこれらを山陽に持っていった。外舅はこれを見て、「この子は憂患に処するすべを知っている。いまは辛苦しているけれども、終にはものになるに違いない」と言った。あらぬ噂もだんだん収まった。

是歲,外舅王坦人先生,官淮安山陽縣典史。或傳余從叔父博簺無行。有獻諛者謂,無媒聘可悔,家人幾惑其說矣。王宜人聞之日夜泣。母氏以告外舅憐之。時余方學爲詩。卽事云,事有難平處,心無不用時。題牡丹圖云,圖成莫訝開不早,開時便得稱花王。長短句云,腸似黃河迴九折,一折一番愁,河流無盡頭,愁到幾時休。里人傳至山陽外舅。見曰,此子能處憂患,雖辛苦,終當有成。浮言漸息。

乾隆十年〔1745〕乙丑。十六歳。徐師は病気のため去って行かれた。(輝祖)はもはや他師につく資力がなかったので、両母と一緒に小さな二階屋に寝起きしていた。両母は勉強するように督励するので、半歩も戸の外に出る気になれなかった。

十年乙丑。十六歲。徐師以疾去。(輝祖)力不能更從他師。依 兩母起卧小樓。 兩母督之學,不敢跬步出門外也。
父君の遺した書類をしらべていると『太上感応篇注』が出てきた。読むほどに心が引き締まるという思いがする。それ以来、朝起きると必ずうやうやしく一遍朗読することにした。一生涯投げやり気儘ができなかったのは、実はここから力を得ていたのである。

檢先人遺篋,得太上感應篇註。覺讀之凛凜。自此晨起,必虔誦一過。終身不敢放縱,實得力於此。

乾隆十一年〔1746〕丙寅。十七歳。両母の膝下で独学する。

十一年丙寅。十七歲。依 兩母學。
県で童試〔科挙の第一段階、県学への入学試験〕がある。(輝祖)は受験したいと申し出た。両母は(輝祖)がまだ学力不足だと思い、かつは家も貧しいのですぐには許そうとしなかった。是非にもと言い張ると、両母は「お前自分で推量して合格できると思うのかね」と言う。(輝祖)は技能に十分の自信かあったので迷わず「出来ます」と答えた。両母が言われるに、「合格できるというからには、お前を行かせない訳はありません」。

縣試童子。(輝祖)請往。 兩母謂(輝祖),學未成且家貧。未之許也。固請。 兩母曰,若自揣可進學乎。(輝祖)自詡其技,輒應曰可。 兩母曰,旣可進學,豈有不令汝去者。
六月、県に出かけた。受験生の多くが紗〔きぬ〕の単杉〔ひとえの長袖の服〕を着ているのを見て羨ましくてならない。或る受験生が服を作れるだけの銭をやると言う。ままよと彼の答案を代作してやった。成績発表になって見ると、汪一族の十八人みな通過して第二次試験に進むのに(輝祖)だけは落ちてしまった。両母は悦ばない。やがて(輝祖)が銭をもらった事実を知ると大変に怒って、「お前は意気地なしだ。利のためには名を惜しまないのか」と叱り、鞭打って追い出して銭を返しに行かせた。(輝祖)は痛く後悔して、なお日夜勉学した。

六月至縣。見試人多著紗單衫,心羨之。或贈錢許製衣,輒代作文。比案發。族中十八人皆招覆。(輝祖)獨不與。 兩母不悅。旣知(輝祖)受錢,則大怒曰,兒無志氣,爲利不惜名。予扑而遣歸錢。(輝祖)痛自悔。晝夜學。
八月に府試があり、さきの十八人はみな落ちたが(輝祖)は最後まで残った。

八月府試。十八人者皆不招。(輝祖)終試。
九月、督学〔一省の文教を管轄する試験官「学政」〕江寧の陳秋厓師(其凝)の試験〔すなわち「院試」〕があり、成績第六位で合格し県学の生員となった。(第一問「盍(なんぞ)徹せざる乎。日く二にするも」〔『論語』顔淵〕、第二問「三里の城」〔『孟子』公孫丑下〕の両節、第二次試験の問題「鄒、魯と閧(せめ)ぐ」〔『孟子』梁恵王下〕であった。)


註: 県試には第四次試験、府議には第二次試験までがあり、第一次試験の合格者だけが第二次、第三次と進む。(宮崎市定『科挙』秋田屋1946、64頁、76頁)。汪輝祖が何故県試に落ちながら府試・院試を受けられたのか未詳。宮崎『科挙』を見ても分からない。


寺田補: 翻訳稿の入った封筒には、別に「科挙」と第一行目に書いたB5版のルーズリーフ1葉(滋賀先生は調べ物をして得るところがあると、こうしたルーズリーフに書き込んでファイルしておくのが常であった)が入っており、そこには以下のことが書いてある。


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県試、府試でいう「招覆」はイクオール合格、「不招覆」はそこで落第、ではないらしい。


高衍鎏『清代科挙考試述録』4頁。「(県試)第一場取録従寛,取者准考府試,以下各場続考与否,聴憑自願。 ……続考を受けることによって、県試第一たる「案首」(大体は院試で合格する)、優秀者たる「堂号」の資格をうることができる。つまり成績優秀を争って第二場以下を受ける…… 第五場終結拆大号,将由第一場起所有応試童生之名,全数排列用名発案,謂之長案」。


6頁「(府試)第一場為正場,取録者即可応考院試。第二場後不願考者聴」。その他、県試と同じ。


よって「招覆」はしないが、録取していた、ということがあるもののようである。


同書349頁。李申耆兆洛のエピソード。県官は「吾不招覆汝生」といいながら、院試第一等で合格している。


汪輝祖『病榻夢痕録』乾隆11年に見ゆる招覆せずして院試に合格した記事も不合理でない。


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つまり、このメモで上記の問題の答えは出ている。このメモの作成時期は不明だが、紙はひどく日焼けをしており、年代の古さを思わせる。翻訳稿の作成がそれよりも前だとすると、翻訳稿の作成時期も相当に古いことになる。

九月。督學江甯陳秋崖師(其凝)試。第六名入縣學。(首題盍徹乎曰二。次題三里之城兩節。覆試題鄒與魯閧。)
山陰の茅再鹿師(詒孫)について文章の指導を受けた。

從山陰茅再鹿師(詒孫)論文。

乾隆十二年〔1747〕丁卯。十八歳。王氏の母舅〔おじ。嫡母の兄か弟〕が家庭教師に招聘してくれ、七人の児童を教えることになった。住み込みで報酬〔恐らく年俸の意味〕は銭十二貫文。そのうちから三貫文を山陰の張百斯師(嗣益)に贈り、この師について文章の指導を受けた。

十二年丁卯。十八歲。王氏母舅延課諸子凡七人。館脩十二緡。以三緡餽山陰張百斯師(嗣益),從論文焉
郷試〔科挙第二段階、三年ごとに行われる各省の試験。合格すれば挙人となる。〕を受験した。第一試験日に同じ並びの席にいた受験生のうちに大声をあげて答案用紙の取替えを求める者があった。提調官〔試験官〕の塩駅道趙公(侗斆)が見ると、その答案は出来上がっているが、答案の前後の表紙両方にそれぞれ〈好〉という一字が杯ほどの大きさに書かれている。わけを問うとその受験生が言うには、「わたくし答案が完成して熟睡していました。すると夢に人が簾のなかまで手を伸ばしてきて、『お前さん今度の試験に必ず合格するよ』と言って、手のひらと手の甲にそれぞれ〈好〉の一字を書かせました。覚めて見ると驚いたことにそれが皆答案に書かれているのです」。趙公が言われるに、「〈好〉の字は分解すれば〈女〉〈子〉となる。お前自分に問うてみよ。平素なにか良からぬ行いがあったのでないか」。受験生は再三哀願して替えの用紙をもらって書きなおしていたが、その顔色はひどく恐れているようであった。試験場には怪異が現れる。畏れないでおられようか。

應鄕試。第一場有同號生呼求換卷。提調鹽驛道趙公(侗斆),見其七藝俱完,而卷前後各書一好字如盃大。問之。生曰,某卷完熟睡,夢人伸手入簾曰,汝今科必中,令於手心手背各書一好字。不料俱在卷上也。趙公曰,好字於文爲女子。汝自問平日有辠過否。生再三哀籲,換卷另書。貌若甚恐。場中有鬼神。可不懼歟。
浙江省の挙人に合格する定員は百四名であったかこのときの試験以降十名だけ減らされた。発表になってみると不合格であった。

浙江額中舉人一百四名。是科始減十名。榜發不售。

乾隆十三年〔1748〕戊辰。十九歳。二月、外舅〔山陽に赴任している、しうとの王坦人先生〕は(輝祖)が学問に専念できないのを見て、官舎に呼び寄せ、山陽の挙人許虚舟師(延秀)と交際して見聞を広めさせた。十一月になって帰った。

十三年戊辰。十九歲。二月。外舅以(輝祖)不能專學,招至官中,從山陽孝廉許虛舟師(廷秀)游。至十一月歸。
村の廟で演劇があるのを見に行こうと誘う者があったか、余は断って行かなかった。徐太宜人は「今日演劇場で喧嘩さわざがあったけれども、わたしはちっとも心配しなかった。前にはお前も行ったので、わたしは騒ぎの声を聞くと、もう肝を潰す思いでお前か揉みくちゃにされはせぬかと心配したものよ」と言った。余はこれを聞いて身の縮まる思いで冷汗が出た。これ以来演劇場に立ち入る気になれなくなった。
この年、叔父は家族を連れて遠くに引っ越した。祖母も一緒に行こうとしたが、両母が泣いて引き留めたので思い止まった。

有邀觀社劇者。余謝不往。 徐太宜人曰,今日戲場喧嚷,吾都無所恐。往時汝去,吾聞嘈雜聲,卽膽碎慮汝挨擠也。余聞之悚然汗下。從此不敢入戲場。是歲叔父挈眷他徙。 大母欲偕行。 兩母泣畱而止。

乾隆十四年〔1749〕己巳。二十歳。引き続いて王氏の舅〔おじ〕の家に〔家庭教師として〕住み込み、張百斯師について文章の指導を受けた。

十四年己巳。二十歲。仍館王氏舅家,從張百斯師論文。
十一月、王宜人〔妻〕が嫁いで来た。

十一月。王宜人來歸。

乾隆十五年〔1750〕庚午。二十一歳。山陰の馮思詠師が安昌〔新昌?〕の沈氏に〔家庭教師として〕住み込んでいた。(輝祖)はそこへ遊びに行った。


註: 清代に安昌という県はない。紹興府下に新昌県がある。このとき輝祖があまり遠くへ行った筈はないので、恐らくこれであろう。

十五年庚午。二十一歲。山陰馮思詠師,館安昌沈氏。(輝祖)從游焉。
五月一日、日没ごろ、知覚混迷する発作が起こり、〔沈家の〕奥庭の池の水際に転倒して、腰から下はすっかり水に漬かった。薄暗くなってから屋敷の下男が見つけて助け起こしたが、その時なお意識を失ったままであった。意識が戻ってみると病気であり、そのまま家に帰った。

五月。朔嚮晦,發頭眩病。仆跌後園池步,腰以下皆沒水。黃昏館僮覓獲救起。尙未甦也。甦而病,遂歸。
八月、郷試を受けたが不合格。

八月。應試不售。

乾隆十六年〔1751〕辛未。二十二歳。同族で遠い伯父にあたる〔汪〕表山先生(鑼)に家庭教師として招かれて子弟を教えた。

十六年辛未。二十二歲。族伯表山先生(鑼)延課子弟。
この年、〔表山〕先生の女婿である山陰の徐頤亭(〔諱は〕夢齢。頤亭は監生。篤学にして医術の達人であった〔乾隆24年を見よ〕。後に医者をしなから塞外で亡くなった。)と交りを結んだ。

是歲,訂交先生子壻山陰徐頤亭(夢齡。 頤亭上舍生。篤學。工醫術。後以醫。殁於塞外。)
模擬答案の文章を作文しては山陰の楊魯蕃師(際昌)に送って添削を受けた。

作應舉文,寄山陰楊魯審師(際昌)誨定。

乾隆十七年〔1752〕壬申。二十三歳。二月、恩科〔三年ごとの定例以外に臨時に施行される〕郷試を受験したが不合格。この試験は第三試験日に小学〔文字の形体、意義、音韻の学〕の問題が出るものであった。余は平素〔小学までは〕身を入れて勉強していなかった。仁和の厳古縁(果)は博学にして俗に流れず筋の通った見識の持ち主であって、余のために事細かに助言してくれた。そのお蔭で答案を書き上げることだけは出来た。それ以来この人と交わりを結び、またその弟〔厳〕鉄橋(誠)とも交際した。(古縁は人となり誠実で学問も行いも立派であった。何度か慶雲橋のその家に立ち寄ったが、親に孝行、兄弟仲も睦まじく家庭が平和であること、数十年一日の如くいつ行ってみても変わりがなかった。鉄橋はとくに作文が巧みで、乙酉〔乾隆31年〕の郷試で挙人となった。古縁は庚寅〔乾隆36年〕の郷試で挙人となった。)

十七年壬申。二十三歲。二月應  恩科鄕試,不售。是科三場。策問小學。余素未究心。仁和嚴古緣(果),淹雅貫通,爲余厯厯言之。始得完卷。自此訂交,并交其弟鐵橋(誠。 古緣爲人。慤信有學。行屢過其家慶雲橋。孝友離和數十年如一日。鐵橋尤工藝事。中乙酉舉人。古緣中庚寅舉人。)
外舅〔王坦人先生〕が松江府金山県知県事務取扱となり、三月十五日、金山に赴任した。これ以来〔余は〕幕友の道に入ることになったのだ。しかし余は幕友を業とするのは本望でなかった。それで〔外舅の幕友となったとはいっても〕書記〔書簡等雑文の起草〕を担当するほかは、今まで通り自由に読書させてもらった。報酬は月に銀三両だけであった。


註: 『佐治薬言』〈辦事勿分畛域〉に幕友の役割分担として〈刑名〉〈銭穀〉〈書記〉〈掛号〉〈徴比〉の五者を挙げる。『学治臆説』〈幕賓不可易視〉には〈書記〉の代わりに〈書啓〉を挙げ五者の最後におく。〈書記〉〈書啓〉いずれも手紙などの雑文書きをいうものであろう。なおこのほか──州県でなく道員の幕友においてであるが──〈条議〉というものもあったことが本書乾隆21年の段から知られる。

外舅署松江金山令。三月十五日,赴金山。自此入幕矣。然余頗不欲以幕爲業。掌書記外讀書如故。月脩三金而已。

乾隆十八年〔1753〕癸酉。二十四歳。金山〔の外舅のもと〕で幕友生活。三月、長女が生まれた。

十八年癸酉。二十四歲。館金山。三月長女生。
五月、外舅は常州府武進県知県事務取扱となったので、一緒に武進に赴いた。

五月。外舅署常州武進令。偕之武進。
七月、帰って郷試を受けた。祖母はすでに病床にあった。試験の後に(輝祖)も病気になった。外舅が幕友の仕事をせよとて呼びつけるので、行かないわけにはいかない。しかしまた祖母に別れて行くのは忍びない。祖母はこれを聞いて(輝祖)を呼んで言われるに、「お前こんど行ったら何時戻るのかね」。答えて「〔郷試に〕合格していれば九月二十二三日ごろに戻れます。合格していなければ年末になるでしょう」と言う。すると祖母は「お前は必ず合格する。しかし今度はまだ早い。わたしは生きてお前の合格を見届けることはできない。お前も生きているわたしに合格を知らせることはできない。お前行くがよい。わたしのことを気に掛けるでないよ」と言われた。王太宜人〔嫡母〕が泣いて「この子いま病気だというのに、どうしましょう」と言う。祖母が言われるに、「心配するでない。この子には将来福がある。長生きして子孫が沢山できるだろう。」

七月歸應鄕試。 大母已病。闈後(輝祖)疾作。外舅以館事招。不得不行。又不忍别 大母行。 大母聞之。呼(輝祖)曰,兒行幾時還。對曰,得中約九月二十二三日可還。不中當至臘底。 大母曰,兒必中。然尙早。我不及待。兒亦不及待。我兒行毋念我。王太宜人泣曰,兒今且病柰何。 大母曰,毋慮。兒有後福多壽多兒孫。
以前に徐太宜人〔生母〕は叔母〔賭博癖のあるかの叔父の妻〕と折り合いか悪く、そのためだんだん祖母の歓心を失っていた。(輝祖)もまた不行届きで、しばしば徐太宜人の立場を悪くしていた。祖母がすっかり年老いてからは、叔母は棄て去って顧みず、徐太宜人は心をこめて身辺に仕え、(輝祖)にも言い聞かせて祖母の気持ちに逆らわないようにさせたので、祖母は満足していた。そして今、徐太宜人を寝床の側に呼んで「お前はよくわたしに仕えてくれた。お前の子孫はみな(輝祖)のようであり、子孫が娶る婦(よめ)はみなお前のようであって欲しいものよのう」と言った。余はこうして家を出た。

先是 徐太宜人不得於叔母。因漸失 大母歡心。(輝祖)又不肖往往爲 徐太宜人累。比 大母篤老,叔母棄去不顧。 徐太宜人奉事惟謹,竝敎(輝祖)曲體 大母意。 大母安焉。至是呼 徐太宜人至榻前曰,若善事我。願若子孫皆如(輝祖)。子孫娶婦,皆如若也。余遂行。
十月二日、祖母が亡くなった。その時(輝祖)はまだ帰っておらず、遺体の装束も納棺もみな両母が主持された。

十月初二日 大母卒。時(輝祖)未歸。祔身祔椁,皆 兩母主之。
それから十五年後に挙人となり、さらにまた七年後に進士となり、今は年も六十餘となった。祖母の言葉を思い起こすと、あらかじめこれを知っていたかのようである。

後(輝祖)十五年,舉於鄕,又七年成進士。今年六十餘,囘思 大母言,若前知者。

乾隆十九年〔1754〕甲成。二十五歳。四月、外舅は母が死亡し喪に服するため現職を去ることになり、武進において後任者が来るのを待っていた。〔仕事のなくなる余のために配慮して〕余を揚州の塩商人程氏に〔客として〕推薦した。手紙書きを担当し、報酬は年に銀百六十両という条件であった。余は喜んでこれに応じた。しかし後で聞くと、その商人ははなはだ傲慢で、いつも寝台の上にあぐらをかき、小机に肘をついてあたりを見下ろし、客はみな臣下のように侍立して用向きを言上するのだという。余は考えてみると我慢ができそうにない。そこで外舅に告げてこれを辞退した。


註: 当時、官吏は親の喪にあたれば二年間現職を解かれて郷里に引き寵もる定めであった。

十九年甲戌。二十五歲。四月。外舅丁内艱,在武進候代。薦余揚州鹽商程氏,主管文翰,歲可得脩一百六十金。余欣然應之。旣聞商人倨甚,每坐榻牀,倚炕桌南面。客皆侍坐白事。余度不能耐,告外舅辭之。
それから二箇月たらずのうちに、常州府知府、海陽の胡偶韓先生(文伯)が招いて書記を担当させるという話があった。外舅が先生のもとの下僚〔知府とその管下の知県〕であった関係で正規の招聘文書はないけれども、年俸は銀二十四両という。余はこれに就職した。これを聞いて人は皆おかしなことをするものだと言った。余は「報酬は少なくても、かの知府はわたしを賓客として礼してくれるからだ」と言ってやった。外舅はうわべでは余を傲慢な奴だと言ったが、しかし実はふかく余の言を是(ぜ)としていた。

不二月,常州知府海陽胡偶韓先生(文伯),招掌書記。以外舅故屬吏,無關聘,歲脩二十四金。余就之。聞者俱以爲怪。余曰,脩雖少,太守當賓禮我也。外舅頗以余爲傲,然甚韙余言。

乾隆二十年〔1755〕乙亥。二十六歳。二月、常州に〔知府胡偶韓先生の〕幕友として住み込む。公務の暇に同僚幕友の諸暨の駱炳文先生(彪)について刑名の学に沈潜した。


註: 本年冒頭に二月とあるのは、正月休暇から二月に任に帰った意味であろう。昨年後半も常州にいたはずである。

二十年乙亥。二十六歲。二月。館常州。公事暇,從同事諸曁駱炳文先生(彪),究心刑名之學。
九月、胡公は汪蘇督糧道に栄転した。余は新任地への同行を辞退した。公は「我輩のような者では貴殿をいつまでも飼っておくことが出来ないということなのか」と言って、いよいよ強く引き留めようとする。報酬を毎月銀八両ずつ増額することを約束された。これでは年俸としては今までの五倍にもなることになる。結局〔新任地〕常熟に同行することとなった。

九月。胡公陞江蘇督糧道。予辭焉。公曰,吾遂不能久屈子乎。畱益堅許每月增脩八金。葢一歲不啻倍蓰矣。遂同之常熟。
胡公は端正な人であった。同僚幕友よりも一目おいて余を礼してくれた。大きな問題があるたびに必ず呼んで議に与からせ、建議したことは多くは採択された。いつもご子息たちに「汪先生は決していつまでも人の下にはいない。将来は国家有用の人材になる。お前たちこれに師事しなければいけない」と語っておられた。

胡公,端人也。禮余在諸賓之上。每遇大事,必招與議。所持論多見採納。嘗語諸子曰,汪君必不久於人下。異日 國家有用材也。兒輩當師事之。
公はつねづね「〈思う〉ことができれば事は成るものだ。〈思〉の字は〈田〉が〈心〉の上にある。〈田〉の中には一つの〈十〉の字があり四面にみな届いている。一面でも届かないならば、心に未だ至らざる所があるのだ」と言われた。それ故公は物事を思慮することこの上なく緻密であり、〈三世仏〉とあだ名された。過去、現在、未来、思慮の及ばないところがないという意味である。余に対しては非常に瑣末なことにあれこれと口を出される。人に語って言われるに、「汪君は大局がよく見える。わたしは細緻さを以てこれを仕上げようとしているのだ」ということであった。余が幕友を数十年勤めて粗忽な間違いを責められずにすんだのは、みな公の教えによるものなのだ。

公嘗言,能思則事成。思之爲字,田在心上。田中一十字,四面俱到。缺一面則心有未至。故公慮事最密。時號三世佛。謂過去現在未來無所不用其思也。待余極瑣碎。語人曰,汪君明爽,吾欲以細緻成之耳。余佐幕數十年,得免粗疎之咎,皆公之敎也。
代作する文章はといえば、多くは駢体を用いるものであった。ある日、陝西省布政使唐莪邨先生(綏祖)の祭文を作った。その中で、先生が湖北省巡撫であった時、弾劾されて〔官を去り後にまた〕起用された件を叙述した。胡公はこれを不満とされた。ひと月たって陽湖の楊編修(述曽)が揚州から帰還して、「〔唐先生の〕祭文八十餘編が〔各方面から出されたが〕常熟からのものが最高の出来ばえであった」と言った。公はこれを余に語り喜びが顔色に現れていた。その後なにか文章を作ると、公はみなそれを推称した。ああ、士がいまだ処を得ない境遇において、先輩のふとした言葉がなんと大きな頼りになることよ。

凡代譔文字,類用駢體。一日譔陜藩唐莪邨先生(綏祖)祭章。序其巡撫湖北時,被劾起用。胡公弗慊也。踰月陽湖楊編修(述曾),自揚州還言。祭章八十餘,無過常州者。公以語余,喜見顔色。後有所作,無不稱指。嗟乎士當未遇,豈不重賴先輩齒牙餘論哉。
その頃小銭の私鋳を取り締まったが、古くから伝わる小銭で寛永通宝というのか見つかった。巡撫からその年号と来歴を調査せよとの指令が来た。たまたま胡公に『曝書亭集』を贈る者があった。余は夜分灯下でこの書を見ていると、偶然その中の「吾妻鏡に跋す」という一文に「吾妻鏡は亦た東鑑と名づく。前に慶長十年の序有り。後に寛永三年国人林道春の後序有り。東鑑は日本国の書と為す。寛永三年とは明の天啓四年なり。」とあるのを見つけた。そこで公に申し上げ、公はそれに基づいて上申された。書物を見るのはこのように有益である。これ以来幕務がやや暇なおりにはいつも公から書物を借りて読み、無為に暇を過ごすことはなかった。


註 朱彜尊『曝書亭集』八十巻、康煕四十七年序刊〔東文研にあり〕

時禁私鑄小錢。舊傳寛永通寶。撫軍行查年號來厯。會有贈胡公曝書亭集者。余鐙下偶檢閱。其跋吾妻鏡云,吾妻鏡亦名東鑑。前行慶長十年序。後有寛永三年,國人林道春後序。東鑑爲日本國書。寛永三年者,明天啟四年也。遂白公,據申。開卷之有益如此。自此幕務稍閒,卽從公假書記誦。不敢自暇逸矣。
この年、第四妹を山陰の沈有高(仁埈)に嫁がせた。


註: 第四妹とは父奉直公の第四女で輝祖から見て妹にあたる人という意味。乾隆23年に見える第三妹の意味も同じ。輝祖には二人の姉と二人の妹があったことになるが、いままでの日常生活の叙述のなかで妹のことが何も出てこなかったのは不思議といえば不思議である。王太宜人の子であったか徐太宜人の子であったかも分からない。恐らくは前者の子、異腹の妹か。少なくも陳に嫁いだ第三妹は然り(乾隆60年5月死亡。536頁)

是年,歸第四妹於山陰沈有高(仁埈)。
紹興地方の秋の収穫はひどい不作であった。翌年春夏の頃、米価は一斗銭三百文にもなり、乞食と餓死者が道に溢れた。

紹興秋收大歉。次年春夏之交,米價斗三百錢。丐殍載道。

乾隆二十一年〔1756〕丙子。二十七歳。胡公は漕運監督のため〔山東省〕臨清に出向した。余は病身のため〔胡公について〕遠くに行くことができず、無錫〔の知県〕魏公(廷夔)のもとに幕友として住み込み、秦君の次席として刑名を担当することとなった。

二十一年丙子。二十七歲。胡公督運臨淸。余以病不能遠行,就無錫縣魏公廷夔館,副秦君治刑名。
秦君は法の専門家であり律令に精通していた。〔ある時〕浦四という県民の童養の妻王氏が四の叔父〔浦〕経と私通し発覚して事件となった。秦君は〔叔父の罪を〕服制に依って充軍と擬律した。余は「〔妻といっても〕童養なのだから凡人を以て論ずればよい」と言ったが、秦君は聞き入れない。魏公は余に本件を担当して起案するように言いつけた。余は凡人を以て論ずることにして事件を上司に上げた。〔上司たる〕常州府は服制を引いて駁して来た。


註: 童養とは幼年男女を婚約し同時にその幼女を男家に引き取って両者が適齢こ達するまで養女として育てるという変則的な婚姻方式。地方によってこの風習が非常に盛んなところがある。


服制を以て、すなわち叔父とおいの妻との和姦として論ずれば、『大清律例』刑律犯姦〈親属相姦〉条の「緦麻以上の親の妻を姦する者」として女は杖一百徒三年(ただし杖一百のほかは収贖)、男は同条条例2によって〈附近地方に発して充軍〉となる。凡人を以て論ずれば同上〈犯姦〉条によって男女とも杖八十。

秦君專法家熟律令。縣民浦四童養妻王氏,與四叔經私事發。秦依服制擬軍。余曰,童養也,可以凡論。秦不可。魏公屬余主稾。余以凡上。常州府引服制駮。
余は反論して、「〔妻の〕服制は夫から推して定めるものである。王氏は童養未婚であって未だ真正の夫婦とはなっていない。傍系である夫の叔父にまで推して〔服制を〕論ずることは出来ない」と述べた。〔次にはさらに上級の〕江蘇按察使が、「王氏は浦四の父を〈翁〉〔しうと〕と呼んでいる。〈翁〉の弟は〈叔翁〉〔夫の叔父〕に外ならない」と言って、また駁して来た。余は弁じて、「〈翁〉とは〈婦〉に対する称呼である。王氏は現在未だ〈婦〉となっていない。したがって浦四の父もまた未だ〈翁〉となっていない。それを翁と呼ぶのは、世間の俗語として世代も上で年もとっている人を一般にこう呼ぶからである。換言すれば、〈翁媼〉〔じいさん・ばあさん〕の翁であって、〈翁姑〉〔しうと・しうとめ〕の翁ではないのである」と論じた。江蘇巡撫も、「王氏は四の妻として浦家に童養された。もし凡人を以て論ずれば、四との間もあかの他人だということになってしまう」という見解であった。そこで余は、「童養の妻とは虚名である。王氏は日頃四を兄と呼び、四はこれを妹と呼んでいた。兄妹と呼びあう者を夫婦と見なして罪を定めることは出来ない。四を夫とすることはできないし、四の叔父を〈叔翁〉とすることはできない」と論じた。

余議曰,服制由夫而推。王氏童養未婚。夫婦之名未定。不能旁推夫叔也。臬司以王氏呼浦四之父爲翁,翁之弟是爲叔翁,又駮。余議曰,翁者對婦之稱。王氏尙未爲婦,則浦四之父亦未爲翁。其呼以翁者沿郷例分尊年長之通稱。乃翁媪之翁,非翁姑之翁也。撫軍,因王氏爲四妻而童養於浦,如以凡論,則於四無所聯屬。議曰,童養之妻虚名也。王習呼四爲兄,四呼爲妹稱以兄。妹則不得科以夫婦。四不得爲夫,則四叔不得爲叔翁。
巡撫は名分の関わるところであるからとて、また駁して来た。余は弁じて、「礼に〈未だ廟見せざるの婦にして死すれば、女氏の党に帰葬す。未だ婦と為さざるを以てなり〉〔『礼記』曽子問の節略〕とある。かつ記して「附すること軽きに従う」〔『礼記』王制〕とある。人の罪を類比によって定めるときにはなるべく軽いものに類比するという意味である。また『書経』〔大禹謨〕には「皐(つみ)の疑わしきは惟れ軽くす」とある。婦にして童養される者は婦に近似するという問題は確かにある。もし王氏がすでに浦家の門に入っており、凡人とは同じでないという理由で、凡人に比べていくらか重くするということならば、それまでいけないとは言えない。しかし服制を以て罪を定めるのでは、〈軽きに従う〉という原則に合わないことになる。かつまた将来姦よりも重い事件がおこったときに、やはり〔童養未婚の妻を〕成婚の妻と同等に論ずるとすれば、刑の軽重の差は重大な問題となろう。請うらくは、〔凡人にくらべて〕やや加重して、枷号三箇月とし、王氏は実家に帰らせ、〔浦〕経をして四の為めに別に妻を娶らせることとしたい。これで軽すぎて示しがつかないということはないであろう」と論じた。これでついに裁可され、余の名はいささか巡撫に認められることになった。この巡撫とは番禺の莊滋圃先生(有恭)である。

撫軍以名分有關,又駮。議曰,禮未廟見之婦而死,歸葬於女氏之黨。以未成婦也。今王未廟見,婦尙未成。且記曰,附從輕言。附人之辠,以輕爲比。書云,辠疑惟輕。婦而童養,疑於近婦。如以王已入浦門,與凡有閒,比凡稍重則可。科以服制,與從輕之義未符。况設有重於姦者,亦與成婚等論,則岀入大矣。請從重枷號三箇月,王歸母族,而令經爲四别娶。似非輕縱。遂蒙批允。余名頗爲撫軍所知。撫軍者番禺莊滋圃先生(有恭)也。
五月、魏公は母の喪に服するため現職を去ることになり、余は帰って郷試を受験した。この試験での挙人合格定員は例年より十名増しであった。

五月。魏公丁内艱。余歸應鄕試。是科舉人廣額十名。
九月、落第であった。胡公からまた書簡で招聘され、常熟に赴いた。やはり書記を担当した。

九月下第。胡公復以柬招之常熟。仍司書記。
十一月、胡公は銭穀幕友の朱君と一緒に淮安に赴いて漕運総督に拝謁した。余も同行した。往路の舟のなかで胡公は朱君としきりに論争してしっくりしない様子であった。まもなく淮安に着こうとするとき、余はその訳を尋ねた。すると、江淮衛の漕船は多く〔建造後〕満十年となり、糧儲道〔すなわち胡公〕はすでに建造費を支出して改造せしめた。ところがそのなかには或る年次には稼働しなかったことが二三回ある船もあった。戸部はそのような船は未だ満十運となっていないという理由でこれを駁し、費目を専断で支出した責任者の官職氏名の提出を求めて来た。朱君は先例を援用して抗議を申し立てたが、漕運総督はこれを却下した。そのため主人と幕友がしっくりしないのだ、ということであった。

十一月。胡公同錢穀友朱君赴淮安謁總漕。余偕行。舟次胡公與朱持論多齟齬。將至淮安。余詢其故。因江淮衞漕船多滿十年,糧道已發價改造。其閒有停運三次二次者。戸部以未滿十運駮。取擅動庫項職名。朱援例頂詳總漕不准。是以主賓迕。
朱君は例案をめくってこれを見よとばかりに余に突きつけて、「わたしは先例を遵守したのに何の落ち度があるのか」と言う。余は、「君は十年という先例を援用したのに、戸部は十運を基礎にしようとする。これは新説だ。その十運という説を論破しなければ駄目だ」と言った。胡公は大いに喜んで、「この説は今はじめて聞いた」と言われる。朱は、「わたしはもう力が尽きた。君にやってもらおうではないか」と言う。余は断るわけには行かず、かくてこの件の文案を起草した。日く、「〔臨時にその年次の〕漕運船〔の一部〕の解纜を停止して、〔北京に送るべき米を〕現地住民の食用にまわす措置は、破格の聖慮に出づるものであり、従来ごく稀れにしかなかったことである。したがって従来一貫して〔船の耐用年数を〕十年と計算し、〔稼働しなかった年分を〕控除して十運に満ちることを要件とすることはなかった。ところで船というものは運航するには都合よく停泊するには都合のわるいものである。何となれば一たび運航を休止して久しく河岸に停泊すると、上からは日に曝され雨に濡らされるため、菰で屋根をかける費用もかかり、時々点検もしなければならない。船底の木板に至っては、泥がこびりつき苔が生えて、日がたつほどに朽損してゆく。もし船身に異常がないからとて無理をおして運航をはじめ、米穀を満載して遠く南北の水路を引き回すならば、万一にも不慮の事故が起こらないとも限らず、そうなれば只事では済まなくなる。ゆえに、一般会計からの支出を引き締めるあまりに、皇上のお倉への運上を滞らせるようなことがあってはならない。すでに十年に満ちたものは〔廃船として〕新しく建造せざるを得ない」。

朱檢例案付余披覧曰,吾遵例。夫何尤。余曰,君援十年之例,而部以十運爲計。創也。非破其十運不可。胡公大喜曰,是說今始聞之。朱曰,吾力竭,請以累子。余辭不獲,遂爲之議曰,截畱漕船,以裕民食,破格之  恩,前所希有。是以向來止計十年,而不扣足十運。但船隻一項,利於行駛,不利停泊。葢一經停運久泊河干,上之日曬雨淋,猶有苫葢銀兩,時爲檢點。至船底版片,泥膠苔結,日漸朽損。若因船身無恙,勉强起運,重載米石,遠涉江黃。設有疎虞,所關匪細。故不敢因愼重錢糧,致悞  天庾正供。旣滿十年,不得不造。
朱はこれを見て、「なるほど自分はここまでは思いつかなかった」と言う。胡公はそこでこの草稿を清書させて提出した。漕運総督藴公(著)は大いに了承して、はやく帰って巡撫に連名行文を願っておくように、〔そうすれば〕万一戸部がまた駁しても〔巡撫と自分の連名の〕上奏によって免れることができるであろう、と言われた。後に文案を巡撫莊滋圃先生に提出すると、先生が言われるに、「論理が行き届き表現も達者である。まずまず部が駁することはあるまい」。そしてまた「この文案は〔以前のものとは〕別人の筆だ。幕友を替えたのだろうね」と言われた。胡公が余の名を挙げて答えると、発生は、「〔その者は〕以前に無錫において浦姓の一件を扱ったとき、大いに腹が座り見識があった。将来〈条議〉〔上申建議文の起草〕はこの人物に担当させるべきだね」と言われたという。余はこれ以来いっそう胡公に信頼され重んぜられるようになった。こうして常熟に留まり、〔〈書記〉とあわせて〕〈条議〉を兼担した。

朱覽之曰,吾實念不到此。胡公遂錄槀,呈總漕藴公(著)。大爲許可,令速歸請撫軍會行,萬一部駮可奏免也。後呈稾,撫軍莊滋圃先生曰,理足詞達,必可不致部駮。又曰,此稾另一手筆,得毋易友乎。胡公以余名對、先生曰,前在無錫辦浦姓案,甚有膽識,將來條議當令此君爲之。余自此更爲胡公契重,遂畱常熟兼司條議事。
翌年皇帝の南方巡視があることが決まり、胡公は船と先導隊の宿営とを準備する任務を割り当てられた。十月に余は同行して清江浦に赴いた。余は郷里を離れて転々するようになって以来、歳末には必ず帰省していたが、この年ばかりは外で年を越してしまった。

次年。  聖駕南巡。胡公派理船隻,并前營差務。十月。余同赴淸江浦。余自岀游。歲終必歸省。是歲卽於途次度歲。
「王事盬(もろ)きこと靡(な)し。母を将(やしな)うに遑(いとま)あらず」〔『詩経』小雅〈四牡〉〕とは、幕友たる者にもまた義として妥当することなのだ。

王事靡盬,不遑將母。佐幕者義分亦然。

乾隆二十二年〔1757〕丁丑。二十八歳。胡公のもとに幕友として留まった。

二十二年丁丑。二十八歲。畱胡公幕。
四月、〔皇帝南巡関係の〕割当てられた任務が完了し、一緒に江寧〔現在の南京〕に行き会計報告の事務処理をした。〔その間〕秦淮河房に宿泊し、金陵〔南京の古名〕の名勝を一通り見て廻ることができた。

四月。差竣。偕至江甯,辦報銷。寓秦淮河房,得以略游金陵名勝。
七月、常熟に帰った。また胡公に同行して海州に行き、いなご退治を指揮した。これに二十日餘り。それから安東に行き、そして〔常熟の〕役所に帰った。

七月。囘常熟。又同胡公赴海州督捕蝗蝻。兩旬餘又至安東囘署。
十二月初旬、同行して常州に行き漕運査察した。蘇州〈白糧幫〉千総の姚(起濬)なる者が胡公の意に逆らった。公はただちにこれを弾劾しようとした。余は、言葉が不遜だというだけのことなのだから弾劾するのはよくないと主張し、意見が対立してしまった。〔よって〕同月五日、辞職して帰った。

十二月初。同至常州查漕。蘇州白糧幫千總姚(起濬)忤胡公意。立欲劾參。余以口過不可議,相左。初五日辭歸。 

乾隆二十三年〔1758〕戊寅。二十九歳。正月八日、胡公は親戚の者に手紙をもたせて家まで寄越し、名代として〔昨年末意見対立の一件を〕謝罪させ、〔幕友として戻ることを〕再三ねぼり強く要請した。よってまた連れ立って常熟に行った。

二十三年戊寅。二十九歲。正月初八日。胡公遣戚持札到家,代爲謝辠。再三堅請。復同至常熟。
常熟に虞山という山があり、虞仲〔周文王の祖太王の次子。長子太伯とともに位を三子季歴に譲って南方に移ったと伝えられる〕と言子〔言偃。孔氏の弟子、子游〕の墓がここにある。虞の墓は上にあり、言の墓は下にある。虞の子孫はいまは仲氏となっているが、墓参のたびごとに必ず言氏の墓道を通る。言氏はそれを越界だと言う。毎年必ず紛争があり、訴訟は県から府へ、府から布政使・按察使へ、さらに巡撫へと上がって十餘年にもなりなお決着しない。巡撫は胡公に一件を廻付して審理立案を命じた。仲氏の言い分は、言氏の墓は虞仲の墓の付属地の内にあり、言氏はその墓道を不法占拠しているのだと言うにある。〔他面〕言氏の族譜によれば現在の地界は漢代から始まったことになっている。どちらも自説を譲らない。道の左十餘丈ほどのところに灌木が生えて人の通らぬ小道がある。言氏は仲氏がここに別に通路を開けばよいと言い、仲氏はそれは嫌だと言う。こうしてこの一件の裁きにあたった者は誰も決着をつけることができなかったのである。

常熟有虞山。虞仲言子之墓在焉。虞墓上,言墓下。虞之子姓爲仲氏。每展墓必經言之墓道。言以爲越界。歲必競。由縣而府而司而巡撫,訟十餘年未結。撫軍委胡公查議。仲以言墓在虞墓禁地之内,謂言氏占其墓道。言氏之譜牒,則界起於漢時。各不相下。道左十餘丈有荆榛僻徑。言欲仲另闢行路,而仲不願也。故斷斯獄者卒無成議。
余はこれは月並みの裁定で済むものではないと考えた。そこでこれがために立案して次のように論じた。「墓前に付属地があるとの説は後世に起こったものであり、仲氏の主張には説得力がない。言氏の族譜に墓道は漢代に起源するとされているのも、むやみに遠い昔のことであって証拠がない。虞仲は先輩、言子は後輩、相互に数百年を隔てている。虞仲は国を譲るために〔南方に〕逃れた。必ずやこの小さな付属地などに執着しないであろう。言氏は〔孔氏の〕道を南方にもたらした文章博学の人であり*、礼譲を第一とする。必ずや先賢と路を争う気持ちになれないであろう。仲・言両姓がそれぞれ主張して譲らないのは、どちらも祖宗の本意ではない。もし正規の通路をさしおいて別に灌木を払って小道を開くとすれば、それはただに不便のみならず非礼でもある。よって裁定して仲氏は毎年の墓参にすべて言氏の墓道を通って上らせることとせよ。ただし墓道の外で薪とりをしてはならないこととする。こうして墓に眠る霊を安んじ、健訟の風を絶つこととしたい」。一件はこれで決着した。


註: *原文「道南文学」。道南とは程顥が楊時の南に帰るのを送って「吾が道南す」 と言った故事をふまえた言葉であろう。子游は呉の人、南方人。『論語』先進篇に「文学は子游・子夏」とある。

余以爲,非可例定也。乃爲之議曰,墓前禁地之說,起於後世。仲說不足爲憑。言譜墓道起於漢時,亦荒遠無稽。虞先言後,相距數百年。虞以讓國而逃,必不愛此區區之地。言爲道南文學,禮讓爲先,必不忍與先賢爭路。兩姓互持,皆非祖宗本意。若舍正途而另闢荆榛,不推不便,亦屬非禮。應令仲氏每年展祭,俱由言氏墓道而上。墓道之外,不得樵採。庶奠幽魄而杜囂風。案遂定。
胡公は余を引き留めたまま年を越したいという意向で、十二月二十六日になってもなお帰ることを許さない。余は詩を作って壁に張り出した。
 帰するが如く豈に復た他郷を嘆かんや
 爆竹声中歳央ばならんと欲す
 八口自ら憐れむ窮骨肉
 一年幾ばくか得たる好時光
 殷勤として醴酒東閣に開き
 寂寞として班衣北堂に負く
 記し得たり分るるに臨みて曽って約ありしを
 椒盤鞠して霞觴を捧げんと
翌朝胡公はこれを見て、「これは済まないことをした」とて、すぐに足の速い船を手配して飛ぶように送り届けてくれた。ちょうど除夜に家に着いた。

胡公欲畱余度歲。至十二月二十六日,猶未許歸。余題詩於壁。(如歸豈復歎他鄕。爆竹聲中歲欲央。八口自憐窮骨肉。一年幾得好時光。殷勤醴酒開東閣。寂寞斑衣負北堂。記得臨分曾有約。椒盤鞠捧霞觴。)侵曉胡公見之曰,吾過矣。卽具快船飛送。於除夕到家。
この年、〔家〕静山師が京師〔北京〕で亡くなったと聞いて、同族の遠い兄にあたる〔汪〕鳳琳(綬)に頼んで遺柩を郷里に帰還させた。第三妹を同じ蕭山県の陳景声(之柔)に嫁がせた。初めて自ら号して龍荘ということにした。家が鎮龍荘にあったからである。〔後また帰廬と号したこと乾隆60年584頁に見える〕


註: 家静山は汪輝祖が六歳から十歳まで就いた家庭教師(雍正13~乾隆4参照)。恐らく同郷の人であったのであろう。

是年。聞靜山師卒於京師。屬族兄鳳琳(綬)歸其喪歸。第三妹,於同邑陳景聲(之柔)。初自號曰龍莊。以家居鎭龍莊也。

乾隆二十四年〔1759〕己卯。三十歳。正月、妻が輿入れのとき連れて来た下女楊氏を妾とした。胡公の幕下に赴いた。

二十四年己卯。二十歲。正月以媵婢楊氏爲妾。赴胡公幕。
三月、昌邑〔山東省莱州府昌邑県〕の孫景渓師(爾周)が山東から官舎に来た。胡公は余に〔いままでに作った〕文章を書き抜いて師に批評していただくように言いつけた。余は作文三十篇を清書して直接師の手にこれを差し出した。一月たっても師はそれについて一言もものを言われない。不思議だと思いながらも催促するわけにも行かず、それを胡公に告げた。翌日早朝、余がまだ起き出さないうちに師は正装して来て、謝って言われるには、「あなたの文章はとっくに見ています。いささか意に満たないものがあるのです。あなたは文才は十分ありますが文章は格に合っていません。でまかせに褒めたのでは心が安んじないし、直言すればかえって恨まれる心配もあり、おりを見てこのままお返ししようと考えて、それで批評の筆も取らずにおりました。昨日胡公はわたしのことを怠け者だと言い、加えてあなたの二人の節母が苦しいなかであなたを教育し、科挙に合格を志しておられる事情を話しました。この一月の間あなたを見ていると、人に対する作法がいかにも恭しく、冷静に見て感心させられます。これからわたしの意見によってあなたの為に批評して上げましょう。怪しんではいけませんよ」。こうしてこの日にすぐ文章を一つひとつ批評し添削して渡された。書き出しの頭からして棒を引かれているものもあり、一句一句みな棒を引かれているものもあり、一句おきに棒を引かれているものもあり、三十篇の中で丸を付けられたのは三句しかなかった。余はこれを読んで汗が出て背中が濡れた。多くは不可とされる意味が理解できない。そこでこの書き物を持って師に教えを求めた。師は一つ一つそのわけを解説して下さった。それはまことに今まで聞いたことのないことを聞くものであった。これ以来弟子の礼を執り、毎日公務が終わるとすぐ師のもとに赴いて作文の題をもらい、翌日早朝には出来た作文を提出するようにした。このようにして二箇月餘りするうちに、だんだん師からも宜しいと言われるようになった。

三月。昌邑孫景溪師(爾周)自山東至署。胡公屬余錄文字就正。余錄窗課三十篇面呈。閲一月師不置一詞。心疑之,而不敢請也。以告胡公。次早余未起,師衣冠來謝曰,子文久閱矣。頗不愜於心。子才可以入彀,而文不合格。妄爲譽則不安,直言之又恐見辠。當俟别時奉繳。故不動筆。昨胡公謂我嬾,且言子兩節母苦敎,志在科名。月來見子,執禮甚恭,虚心可敬。當以吾意爲子評之。毋訝也。是日卽將文一一評改。有從破題抹起者,有逐句抹者,有隔句抹者。三十篇中得連圈者三句耳。余讀之汙流浹背。多不能解。則執卷求敎。師一一申言其故。眞聞所未聞。遂執弟子禮,毎日官事畢,卽赴師請題。次早呈卷。如此者兩月餘。漸爲師許可。
七月、余は帰って郷試を受験する。師もまた山東に帰られる。同行して蘇州まで行ったところで、師は余の舟に来訪され、手を握って言われるに、「あなたは技能は出来上がっています。しかし試験の結果は予断できません。わたしはこれから行って喪があけた後の仕官を申請します。もしも南方に赴任して来ることになったら、そしてあなたがもしなお幕友をしているならば、きっと席を空けてあなたを待つことにしましょう」。余は謹んで答えて、「二人の母が病身であり、遠くに離れることはできません。もし先生が千里内外のところに赴任なさったならば、必ずそのご命令をお受けいたしましょう」と述べた。ともども涙を流して別れた。

七月。余歸應鄕試。師亦反山左。同至蘇州。過余舟,握手言曰,子技成矣。然得失不可知。吾此行服闋謁選,萬一南來,子尙佐幕,當虛席以待。余謹對曰,二母多病,不能遠離。若吾師官在千里左右,必當應命。各揮淚而别。
この年の試験は、第二試験日に従来あった〈表判〉を廃止し、第一試験日の〈経文〉四篇を移して第二試験日に入れ、第一試験日に〈論〉一篇を追加し、第二試験日に〈五言八韻排律〉一首を追加するものであった。八月八日が入場。入場後大雨が降り、水が溢れて座席の板にまで及び、試験場内はおお慌てで、答案も出来上がらなかったというに近く、大へん吾が師の教え喩しに背くことになってしまった。十二日が第二試験日。もはや病で飲食することができなかった。無理して第三試験日を了えてそそくさと郷里に帰った。そのまま病が重くなり、身を起こすことができず、寝返りにも人の手を借り、一日に生の粟を数個食べるだけで、何度か息絶えそうになる有り様であった。副葬品もすでに準備され医師は病名の診断もつかず、自分でも再起できないものと思い込んだ。

是科二場。刪表判。以第一場經文四篇,改入二場。增論一篇。二場增五言八韻排律一首。八月初八日入闈後大雨。水溢及坐版。闈中狼狽,幾不完卷。甚負吾師敎誨。十二日二場卽病,不能飮食。勉完三場。悤悤還里。遂病甚不能興,轉側需人。日惟啖生栗數枚,垂絕者屢矣。明器已具,醫師莫名其病,自信不起。
九月八日の夜、王太宜人は夢を見た。中堂に南面して着席している者が数人いる。東西に沢山の人が侍立している。吾が祖、吾が父がどちらも右隅に侍立している。南面する者が何かものを言うけれども何と言っているのか聞き取れない。ただ、東面して立っていた背が高く痩せて冬帽子をかぶり薄いあごひげのある男が上座に向かって一礼し、「垃圾を留めるべきでありましょう」と言った。すると数人の者が哭いて出て行ったが、吾が祖、吾が父は上座に向かって跪いて拝み喜ぶような顔つきであった、という夢である。朝起きて吾が母は余にこれを話して、「これは先祖の霊が護って下さるということ。きっと助かりますよ」と言った。この日の正午ごろ徐頤亭〔乾隆16年前出〕が来訪して余の為に脈を診てくれた。吾が母に告げて言うには、「舅〔おじさん。遠い親戚であるゆえ輝祖をさしてこう言う〕は別に病気があるわけではありません。試験場でうけた水気が上焦〔胃の上□〕までずっと上がって来たため、それで飲食ができないし、体が湿っているので運動ができないのです。」その治療のため人蔘、桂皮、附子を使った強い薬を処方してくれた。一回飲んだだけですぐに眠り込み、醒めると数升〔数リットル〕もの小水が下りた。そしてもう寝返りできるようになった。さらにもうひとっの薬で今度は起きて坐れるようになり、数日ならずして快癒した。十月一日、〔胡公の〕幕下に戻った。

九月初八日夜。 王太宜人夢。中堂有南面坐者數人。東西侍者甚眾。吾祖吾父皆右隅侍。南面者語嘈嘈,不可辨。惟東面立者,頎而癯煖帽微鬚,向上揖曰,該畱垃圾。有數人哭而岀。吾祖吾父向上拜跪,若有喜色。晨起吾母爲余言之曰,此有先人呵護,當無害也。是日亭午,徐頤亭來省,爲余診脈。吿吾母曰,舅無他病。因闈中水氣直達上焦,所以飮食不通,體溼故不能運動。用人葠桂附重劑治之。一飮卽睡醒下水數升。卽能轉身。又一劑卽能起坐。不數日而瘳。十月初一日赴館。
話をもどすが、わが曾祖父から下の同族は〔輝祖から見て〕伯叔父の世代の者が三人、兄弟の世代の者が九人ある。多くはみな強壮であり、余は一番ひ弱で病気勝ちであった。両母はいつもそれを心配していた。ところがこれから間もなく、十月から翌年の二月までのあいだにこれらの同族は前後して亡くなり、ただ叔父一家が郷里を離れているのが残るだけになってしまった。しかるに余はこれ以来強壮になり、二度と病気をしなくなった。両母の節孝の苦労が子供を庇う功徳となったに違いない。夢のなかの「垃圾を留めるべきでありましょう」という言葉は、まことに先霊の加護をいただいたものなのであろう。

先是,曾大父以下同堂伯叔三人,從昆弟九人,多强壯而余最孱弱善病。 兩母常憂。無年自十月至次年二月,伯叔昆弟先後殂謝。惟存叔父一家客游,而余則自此康强不復再病。殆 兩母節孝之苦,足以蔭芘後人。所謂該畱垃圾者,實邀先靈之呵護矣。
平素から負債がある上に重病のための借金が重なり、支えきれない情勢となった。胡公とは長い付き合いでこの上また報酬の増額を掛け合うわけにも行かない。年末にとうとう堅く胡公を辞去して、長洲県知県鄭君(毓賢)の招聘を受け、山陰の監生婁培安(基)の相棒として刑名を分担することとなった。

素有積負,重以危疾,稱貸勢不能支。胡公久交,又不可以計脩。歲終遂堅辭胡公。受長洲鄭君(毓賢)聘,與山陰婁上舍培安(基),分治刑名。
この年、同じ蕭山県の於体乾(士宏)と交わった。(体乾は篤行力学、親孝行と兄弟仲のよいことで有名であった。後に丙午〔乾隆51年〕の郷試に合格して挙人となった。)

是年交同邑於體乾(士宏。 體乾,篤行力學,以孝友著閒。後中丙午科舉人。)

乾隆二十五年〔1760〕庚辰。三十一歳。幕友として長洲県〔知県鄭君のもと〕に住み込む。


註: 現在の蘇州という都市に蘇州府と呉、長洲、元和の三県がおかれていた。長洲県とは地理的にいえば蘇州である。

二十五年庚辰。三十一歲。館長洲縣。
周張氏という婦人があり富家であった。年十九にして寡婦となり、そのとき胎児であった継郎という一人むすこを育て、十八歳となり、八月には妻を娶ることになっていた矢先に、七月にこれが病死してしまった。族人たちは継郎は未婚であったという理由で張氏の夫の為に後継ぎを立てようとする。他面、張氏は継郎の為に後継ぎを立てたいと言う。これが訴訟となって長びいていた。代々の前任知県はみな同族で公議して決めて来るように指示するだけで、十八年を経て未だに解決していない。

婦周張氏、富家也。年十九而孀,遺腹子繼郞,十八歲將以八月授室,七月病殤。族以繼郞未娶,欲爲張之夫繼子,而張欲爲繼郞立嗣,輾轉訐訟。前令皆批,房族公議。厯十八年未結。
二月に鄭君はまたこの一件をめぐる訴状を受け取った。張氏の訴状であり、「継郎死亡の後、苦しみは父亡きあの子を育てていた時にくらべて百倍にもなっております。寡婦たるわたくし幾度か死にそうにもなりました。死ぬのは一向に構いませんが、ただ後継ぎのことが定まらないでは死んでも瞑目できません。いま年は既に六十になろうとし、死期は日毎に近づいています。もはや目前に迫ったわたくしの死によって、夫と子は祭られない鬼となってしまうのでしょうか」と述べられている。その言葉は悲哀に満ちている。余は一件書類全部を取り寄せて調べた。その厚さは数尺を越えている。族人が後継ぎを決めようとすると張氏が訴える。張氏が後継ぎを決めようとすると族人が訴える。官は〔訴状に〕奥書きして同族に差し戻し、〔公議せよと言うだけで〕成見がない。乾隆十九年に、張氏が一人の名を挙げてこれを孫〔継郎の子つまり自分の孫〕として立てることができると主張したのに対して、族人たちは「彼はおしめがとれたばかりの幼児であって成人するかどうか分からない」と抗議し、後にまた別の議論が起こって、結局うやむやになってしまった〔という記録が残っている〕。

二月。鄭君受辭。張氏謂,繼郞物故後。苦百倍於撫孤。未亡人數瀕於死。死何足惜。但繼事未定,死不瞑目。今年已望六,死期日近。恐旦夕死而夫與子鬼餒。其語甚哀。余弔查全卷,厚逾數尺。族繼張辭,張繼族控。批歸房族,官無成見。乾隆十九年,張指一人可以立孫,而房族謂,其甫離襁褓,未必成人,後又另議,終至宕延。
余はよって次のような批〔今回の張氏の訴状への奥書き指示〕を起案した。「張氏は遺腹の継郎を育て上げ、その継郎が結婚を目前にして死亡してしまった。その悲しみと死んだ子を思う気持ちは、必ずや人一倍のものであろう。もし〔この子の為に〕後継ぎを立てないならば、継郎は永久に後が絶えることになる。後継ぎを立ててやりたいと思うのが、〈人情〉に近い〔世人普通の気持ち〕というべきである。族人たちは「継郎は未婚であった。嗣子を立ててもその嗣子には母がないことになる。『天下に無母の児なし』と言うではないか」と主張する。しかしそのような格言は経典には見えないものである。かえって、『殤の後と為る者、其の服を以てこれに服す』とは、礼に明文のある言葉である〔『礼記』喪服小記〕。〔この言糞は未成年死亡者の為にも後を立てることを暗黙の前提としている。〕もしも殤〔未成年死亡者〕には後継ぎはあり得ないものだとすれば、誰が『殤の後と為る』のか。律の規定が不備であるところは、礼によって融通するがよろしい。殤の後を絶って慈母の心を傷つけるよりは、殤の後継ぎを立てて貞婦の志を全うさせるほうがよいではないか。乾隆十九年に張氏が孫に立てたいと指名した者は、現在〔まで成長していれば〕すでに十六歳になり、昭穆も相当である。この者を立てることに一決すればよろしい。何で彼此互いに争って訴状を積み上げてゆく必要があるのか。」

余因擬批。張撫遺腹繼郞,至於垂婚而死。其傷心追痛,必倍尋常。如不爲立嗣,則繼郎終絕。十八年撫育苦衷,竟歸烏有。欲爲立嗣,實近人情。族謂繼郞未娶,嗣子無母,天下無無母之兒。此語未見經典。爲殤後者,以其服服之。禮有明文。殤果無繼,誰爲之後。律所未僃,可通於禮。與其絕殤而傷慈母之心,何如繼殤,以全貞婦之志。乾隆十九年張氏欲繼之孫,現在則年已十六。昭穆相當,卽可定議。何必彼此互爭,紛繁案牘。
同僚幕友はみな、「これは富裕な家の紛争〔それはとかく扱いにくいもの〕である。律を差し置いて礼を引用するのは、好んで奇抜な議論をしているように見える。まして今まで幾度も同族で公議せよと指示してきた案件に、にわかに官が臆断を下せば、必ずや物議をかもして面倒なことになるであろう」と言う。鄭君も批を見て大いに訝り、再三書き直すように求めた。余は、「同族に指示するのは難しいことではありませんが、民の父母となって節婦をして憾みを抱いたままで終わらせるのはいけません。それがし主人の為に代筆して主人に罪造りなことをさせたのでは、心が安んじません。わたくしは当事者が富裕であるか貧乏であるかなどは考慮せず、ただ事の道理を論ずるだけです。この批を書き換えることはできません。幕友を取替えなさるがよろしい」と言って辞職を申し出た。鄭君は折れて余の批を採用したが、不承ぶしょうであった。〔こうして手続きを進めて見ると〕張氏がかって孫に立てたいと言った者は果たしてすでに成人していた。そこで後継ぎ証文〔死亡せる継郎を父とする養子縁組証書〕を作成し各当事者から遵依〔裁定に服する旨の一札〕を取り揃えて、一件落着とした。後によからぬ族人からしつこく蒸し返しの訴状が出されたけれども、みな却下して取り合わなかった。


註: 中国の家族制度において、〈後継ぎ〉とは家の後継ぎでなくして人の後継ぎである。男は誰でも自己の後継ぎを持つべきである(女にとっては夫の後継ぎが同時に自己の後継ぎでもある)。後継ぎとは故人を祭り故人の財産を包括的に継承する(後継ぎが複数あれば共同して故人を祭り故人の財産を等しい持分の共有財産として継承する)者という意味である。後継ぎたる有資格者は第一次的にはむすこである。むすこは誰もみな当然自然に父の後継ぎである(複数のむすこがあれば複数の後継ぎがあることになる)。むすこがない時、後継ぎとなりうる第二次的有資格者は同族(父系血族)でかつ共同祖先を下る世代数が後を継がれる人物の子と同一世代に属する男性(これを「同宗昭穆相当の者」という)である。このうちから人を選んで養子縁組することによって後継が立てられる。これ以外には原理的にいえば後継ぎとなりうる者はいない。養子縁組によって後継ぎを立てることは、後を継がれる本人が生前に行うこともあればその死後に未亡人や同族たちの計らいによって行われることもある。本件はこの後者の場合である。継郎に後継ぎを立てるか継郎を無視して継郎の父に後継ぎを立てるかによって、有資格者の範囲が別になり、複雑な利害関係か絡まることになる。

同事諸友皆以爲,事關富室,舍律引禮,事近好奇。况以累批房族之案,官獨臆斷,必滋物議。鄭君見批大詫,再三屬改。余曰,批房族不難也。爲民父母,而令節婦抱憾以終不可。余爲主人代筆。令主人造孽,心不安。吾不顧其爲富爲貧,論事理耳。批不可易,請易友,遂辭鄭君。鄭君勉用余批,不慊也。張所欲繼者,果已成立。因立繼書遵依完案。後有不肖族人反覆翻吿。皆不准理。
五月五日になって〔節句の〕午餐会の最中に、巡撫が現れて手にする朱単〔長官親筆の朱書きの指令書〕を置いていった。見ると〈県に命ずる。この案件の一件書類全部を封印して送付せよ〉という指令であり、一座はどよめいた。余は「わたしには私心がない。天に見られてもやましくない。ましてや上官など恐れることはない」と言っておいた。四日後に鄭君は巡撫に拝謁し、帰って巡撫の言葉を伝えてくれた。巡撫は、この批は適切だと言って盛んに褒めていたという。それで始めて族中のある生員が〔巡撫に〕上訴していたことを知った。この上訴は蘇州府に下げ渡され、知府が自ら法廷を開いて審理し、その生員を重く懲らしめて劣蹟を履歴に記すという結末となった。鄭君は上官が有能さを認めてくれたので大いに満足顔であった。


註: 江蘇巡撫の役所は南京にあるが、この五月五日前後には一時蘇州に滞在しており、県庁に自ら足を運んだり知県を接見したりしたのだと思われる。

至五月初五日午讌,撫軍手朱單,飭縣封送是案全卷。座客震動。余曰,吾無私,天可見。况上官乎。閲四日,鄭君謁撫軍。歸述撫軍言,盛贊此批得體。始知有生員上控,批發蘇州府親提,重責註劣。鄭君以上官許其能大悅。
この巡撫とは桂林の陳榕門先生(宏謀)である。先生は事をみな自身で処理した。上訴の案件といえば、みな〔無造作に〕下げ渡して調査させることをせず、先ず朱単をやって〔下級審の〕一件書類を取り寄せた。そして何か意に満たない処理がなされていたのを発見すると、〔処理に当たった〕官員を戒告し併せて幕友にも注意を与えた。それ故その一時期は管下の地方官庁はどこもみな引き締まっていた。この一件もその一端だったのである。

撫軍桂林陳榕門先生(宏謀)。事皆親辦。凡上控之案,皆不批查。先以朱單弔卷,或有未愜,則戒官而兼訓幕。故一時吏治無不肅然。此其一也。
この頃、嘉興県に李髯という者があり、利をもって余の心を乱しにかかり、また余に賄賂をとる術の手引をしようとした。余は罪を恐れて応じようとはしなかった。七月になって、余は帰って郷試を受験した。その間余に代わった劉なにがしという者が誤って彼の誘惑に乗ってしまった。余が九月に役所に戻ってから、わずか三日のうちに事が発覚し、巡撫から捜査を命ずる指令が来た。二人〔李髯と劉某〕は慌てて姿をくらませた。余は胸をなでおろし、それからますます貧に安んずる志に励むようになった。

時有嘉興李髯者,蠱余以利,并導余以納賂之術。余懼辠不敢應。至七月,余歸應鄕試。代余者劉某,誤爲所惑。比余九月至館,甫三日而事敗。奉撫軍訪究。二人倉皇竄逸。余私自幸,益勵安貧之志。
窃盗の贓額を評価するには部価〔公定価格〕に照らして米一石を銀一両と見積もるのが例である。この頃米価が日増しに騰貴していた。巡撫は盗賊を懲らしめる意図から、時価に照らして贓額を評価するように督令した。こうすると米七八十右を盗むとみな最高額に達してしまう。余は思うに、「盗賊を取り締まるのに厳し過ぎていけないということはない。しかし贓額の評価はやはり手堅くなければならない。被害者にも悪者が多く、被害届けには水増しがあることを免れない。桝にも大小があって一律とは言いがたく、米の品質にも上下があって様々である。〔被害届けに添えられる〕贓物一覧表なる一枚の紙切れを基にしてすぐさま絞首刑に擬律するのでは、恐らくは日が経つうちに弊害を生じ、不当な扱いを恨む者が出てくるであろう」。これを鄭君のために通稟〔各級上司に同文で差し出す非公式上申書〕として起草し、「従前通り部価に照らして評価し報告することとせられたい」と申し立てた。巡撫は按察使に検討を命じ、〔余の建議を容れた〕その立案を裁可して省内通行の法として布告した。その後数年して、余が〔浙江省〕平湖県で幕友をしていたとき、〔或る案件において〕〔部価に照らす〕前例を援用して具稟〔正規に案件を上司に上げる前の予備的報告〕したところ、浙江按察使の批駁を受けた。このようなわけで江蘇省と浙江省は隣合わせでありながら、米の窃盗に対する刑罰は軽重が掛け離れていたのである。近頃はどう処理されているのか知らない。


註: 窃盗に対する量刑は贓額一百二十両で杖一百流三千里、それを超過するとすべて絞監候(絞首刑ただし改めて執行命令のあるまで監禁)となる。『大清律例』刑律賊盗〈窃盗〉条。

竊盜計贓,每米一石,例照部價作銀一兩。時米價日增,撫軍意在懲賊,飭照時價估贓。竊米七八十石,俱入滿貫。余以治賊不嫌過嚴,而計贓終須課實。事主類多惡賊,不免浮開。斛隻旣大小難齊,米色復髙下不一。憑一紙贓單,遽擬繯首,恐日久弊生,不無冤抑。爲鄭君通稟,請仍照部價估報。撫軍行臬司議准通行。後數年,余館平湖。援例具稟奉浙江臬司批駮,是以江浙連疆而竊米定辠輕重懸殊。不知近日作何辦法也。
十月、〔去年まで輝祖の主人であった〕胡公が〔江蘇〕按察使事務取扱となり、余を幕友として招いた〔現在の主人鄭知県から臨時に借り受けた形〕。たまたま崇明県で窃盗事件があった。犯人は右手が働かない不具者であり、左手で棺を開け〔てなかの物を取っ〕た。県は律によって充軍ただし〔廃疾のゆえに〕収贖と立案して一件を上げて来た。余は思うに、左手で物を盗むことができるからには、廃疾として罪を滅ずるわけにはいかない理屈である。しかし廃疾の者に収贖をゆるすのは法外の仁であり、にわかに自分の考えで成例を改める端緒を開くのも忍びない。かつまた〔県では〕此の者ならば律によって収贖となるので、それで此の者に主犯の罪を着せて上げてきたのかも知れない。〔それを察せず実刑に処しては此の者にとって冤罪となるかも知れない。〕そこで言い訳を作って〔胡公のもとから〕辞去した。後に果たして刑部から駁せられ、収贖を許されないこととなった。余はそれを見越していたのではあるが、やはり毅然としてそう申し立てる勇気はなかったのである。

十月。胡公署臬司篆,招余相佐。適崇明有盜,右手廢而以左手開棺。縣讞依律議軍收贖。余意左手旣能爲盜,自未便照廢疾減辠。苐廢疾收贖,法外之仁。又不忍遽以私意創改成例。且安知非以此人,律得收贖,因而坐以爲首。遂託故告辭。後果奉部駮,不准收贖。余雖見及之,而不敢毅然請也。
十月十七日〔胡公のもとに滞在中〕、家庭教師として住み込む江都の生員呉山濤(桂)が余の部屋に立ち寄って夜話をしているうちに、しきりに好い筆がないとぐちを言っていた。余はちょうど予備の筆があったので、翌朝持っていって呉に贈り、ついでにそこに留まって生徒の作文を見たりしていた。その暫くの間に余の部屋の建物が傾き崩れ、寝台も机もみな粉々になった。友人が現場を取り囲んで、余が押しつぶされたといって騒いでいるところへ、余はちょうど呉の部屋から戻ってきた。顔見合わせて無事を慶祝した。

十月十七日。西席江都諸生吳山濤(桂)過齋夜話。嫌筆不中用,余適有兼毫。次晨持以贈吳。因畱閱館課少閒。余所居齋屋傾頽,牀几皆爲齏粉。友人環視謂余被壓。而余方自吳館囘。交相慶也。
話を戻して四月に、〔昨年七月に別れた〕孫〔景渓〕師は浙江省内で任に就く辞令を受け、赴任の途中蘇州に立ち寄って余を幕友に招きたいと要請した。〔その後〕郷試は答案が同考官〔副試験官〕李師(成渠)の目にとまって推薦を受けたというけれども、合格には至らなかった。そこで〔前述のように〕胡公を辞去したときに、同時に長洲〔の鄭知県〕も辞去して郷里に帰った。
この年、〔妾〕楊氏が次女を生んだ。


註: 候補人員のこと。副考官のこと。

先是四月。孫師簡發浙江過吳門,約余相佐。郷試,荷同考官李師(成渠)閲薦未售。至是遂并辭長洲歸里。是年楊氏生次女。

乾隆二十六年〔1761〕辛巳。三十二歳。孫師は浙江省秀水県〔知県〕に補せられ余はその幕友として入ることになった。二月三日役所に着いた。

二十六年辛巳。三十二歲。孫師補浙江秀水縣。余遂入幕。二月初三日到館。
県民の許天若という者、正月五日の夕方に酔って帰り、隣の婦人蔣虞氏の家にやって来て、手では財布を叩き、口では酒を買って飲める銭があるよと言っ〔て言い寄っ〕た。虞氏は大声で罵りその場はそれまでとなった。翌日虞氏はこれを告訴し、訴えはこれを取り上げるという扱いになったけれども審理は未だ始まらなかった。二月一日になって、虞氏は県に出かけて審理を促す訴状を提出した。その帰り道に天若と出くわした。天若は彼女を恥知らずだと罵った。家に戻ってから後もまた言い争いをした。二日の夜、虞氏は首を吊って自殺した。孫師は就任するとすぐに出向いて検屍した。当時、松江の張圯逢と余が地域を分けて事務を分担していた。虞氏の住所は張幕友の分担地域内にある。張は、一件は内結〔北京の刑部の議にかかる〕とならざるを得ないから、天若を収禁させた上で上司に報告すると言う。余の考えでは、自殺の原因は〈羞忿〉ではないのだから外結〔各省巡撫の裁決〕で済む。張は盛んにそんな筈はないと言う。孫師は余にこの一件を代わって担当するように言いつけた。余は杖と枷号の併科に擬律して各級上司に報告した。


註: 『大清律例』刑律人命〈威逼人致死〉条例13「如強姦未成、或但経調戯、其夫与父母親属及本婦羞忿白尽者、倶擬絞監候」。同上条例11「凡村野愚民、本無図姦之心、……不過出語褻押、本婦一聞穢語、即便軽生、照強姦未成本婦羞念自尽例減一等、杖一百流三千里」。


〈気憤〉で自殺したのならば特別な規定はなく、〈威逼人致死〉律条によって杖一百となるだけ。汪輝祖はこれを軽罪として問わず刑律犯姦〈犯姦〉条例13「凡調姦図姦未成者、……如果有拠、即酌其情罪之重軽、分別枷号杖責、報明上司存案」によって擬律したのであろう。 


〈酒を買って飲む〉原文「沽飲」、「飲」は〈飲物、酒〉という名詞なのかも知れない。ならば「沽酒」と同じ。「沽飲」「沽酒」それ自体俗に卑猥な意味の隠語として通用していたのかも知れない。〈金があるよ。これで一晩どうだい〉と言うほどの意味。参考:『雅俗漢語訳解』〈沽沽鳥〉「ばい女。笑府云。沽沽鳥呉俗売嫖之名」。

縣民許天若、正月初五日黃昏,醉歸過隣婦蔣虞氏家,手拍鈔袋,口稱有錢可以沽飲。虞氏詈罵而散。次日虞氏控准未審。至二月初一日虞氏赴縣呈催。歸途與天若相値。天若詬其無恥。還家後復相口角。初二夜,虞氏投繯自盡。孫師受篆,卽赴相驗。時松江張圯逢與余,分里辦事。虞居張友所分里内。張以案須内結,令將天若收禁通報。余以爲死非羞忿,可以外結。張大以爲不然。孫師屬余代辦。余擬杖枷通詳。
巡撫から、天若を収禁せよ、かつ先ず律例をしらべて理由を具して上申せよ、と命じて来た。余はこれを受けて次のように論じた。「『婦女に言い寄る行為があって、本婦が〈羞忿〉して自殺したとき』律例はこれを絞首刑とする。『もともと姦淫を誘う意図はなくして、ただ猥褻なことを口にしただけであるのに、本婦がひとたび下品な言葉を聞いてすぐさま自殺したとき』律例はこれを流罪とする。そもそも〈羞忿〉の心は時がたつにつれて漸次解消するものである。それ故律例に『行為があって』と言い、『すぐさま』と言う。その意味は、自殺が言い寄りや猥褻な言葉があったその日に起こった場合を言うのである。本件の虞氏の自殺は天若が酒を買って飲もうと声をかけた時からすでに二十八日を経過している。もしも〈羞忿〉であるのならばこれ程の日時をあいだに挟む筈がない。事実また正月六日から二月一日まで、両者は隣同士の付き合いをして、以前の言糞のやりとりは殆ど忘れていた。それが死ぬまでになった原因は、虞氏が審理促進の訴状をだし、天若がそれを侮辱して罵ったことにある。これは〈気憤〉で死んだのであって、〈羞忿〉で死んだのではない。杖と枷号の併科に擬律して軽すぎることはないと思われる」。府と按察使はこれを認めてその通りに上級へ上げたのであるが、巡撫がまた駁した。よって〔結局は前述律例の〕流罪の規定から〔情状酌量して〕一等を減じて杖一百徒三年となった。

撫軍飭將天若收禁,幷先查例議詳。余爲之議曰,但經調戲,本婦羞忿自盡,例應擬絞。本無調姦之心,不過岀語褻狎,本婦一聞穢語,卽便輕生,例應擬流。夫羞忿之心,厯時漸解,故曰但經,曰卽便。是捐軀之時,卽在調戲褻語之日也。今虞氏捐生,距天若聲稱沽飮,巳閱二十八日。果係羞忿,不應延隔許時。且自正月初六日以至二月初一日,比隣相安,幾忘前語。其致死之因,則以虞氏催審,天若又向辱罵。是死於氣憤,非死於羞忿也。擬以杖枷,似非輕縱。府司照轉,撫軍又駮,因照流辠例減一等,杖一百徒三年。
この一件をめぐっては、丙辰〔嘉慶元年〕正月に病床で夢を見たときに、虞氏が現れて余を名指しで告訴した。冥界の役人は余がしたことは間違いでないと言ってくれた〔同年の段参照〕。これで分かるのだが、許天若は確かに死罪に当てるべきではないが、他面〔余の擬律によると〕虞氏は旌表を申請される資格が得られず、貞節の気概が鎮静しない。冥界においてもやはりこの一件は疑案として留保されていたものらしい。〈刑名〉〔司法事務〕を担当する者は慎重にならずにおられようか。

此事,至丙辰正月,病中夢虞氏指名告理。冥司謂,余不差。是知許天若雖非應抵,而虞氏不得請旌,正氣未消。在冥中亦似懸爲疑案也。治刑名者,柰何不愼。
四月、孫師は知府の任に相応しい人材であるとの保証推薦を受け、吏部に出頭し皇帝に拝謁することになった。その留守中余には家に帰って待つようにさせた。


註: 上京のため任地を離れる間、恐らく臨時の知県事務代理が任命されたのであろう。孫師と個人的に結ばれる幕友は用がなくなることになる。

四月。孫師保舉堪勝知府,赴部引  見。畱余家居相待。
九月三日、孫師は任に復し、余もまた役所に戻った。孫師の子息〔孫〕西林(含中)と交わりを結ぶことができた。(西林は癸酉〔乾隆18年〕の挙人、本年〔乾隆26年〕の会試に合格し、癸未〔乾隆28年〕の殿試において翰林の選に入った。その人となりは、軽率にものを言ったり顔色を変えたりすることなく、やましきなく正道を歩み、実体的徳性と応用能力を兼ね備えていた。浙江省布政使まで昇進し現職で逝去した。)


註: 乾隆26年は確かに会試の年にあたる。なぜ殿試がその二年後になったのかは不明。「館選」を翰林と訳してよいか調べる要あり。

九月初三日。孫師囘任。余亦至館。獲交師子西林(含中)。(西林,癸酉舉人。是歲會試中式。癸未殿試館選。爲人無疾言遽色,公明正直,體用兼該。厯官浙江布政使,卒於位。)
この年の十二月は非常に寒かった。大河も凍り、小河は堅く結氷した。十餘日間それが続いてようやく解けた。舟中の人で凍死する者があった。紹興でもそうであった。

是年十二月大寒。官河皆凍。小河冰堅。至十餘日始解。舟中人有凍斃者。紹興亦然。
歳貢生の某という者が任期満了し、〔昇進のための〕保証推薦を〔孫師に〕求めてきた。余は「この人物はものに興奮し過ぎます。生涯間違いなく行くものか信用し難いのでありませんか」と言った。孫師が言われるに、「人材は大事な点だけを見て取るよりほかはない。細大漏らさず心配し過ぎるまでにするものならば、高位の方たちが何で我輩を保証してくれたのだろうか」。まことにおおらかな長者の言である。


註: 「広文」=歳貢生、『宦郷要則』に見える。「俸満」生員出身で何かの官職に就いていたものなのか、制度を調べる要あり。

有廣文某,俸滿求保舉。余曰,此君太熱,恐難信其終身。孫師曰,人材止可節取。必事事過慮,大憲何以保我耶。眞藹然長者之言。

乾隆二十七年〔1762〕壬午。三十三歳。〔孫師の幕友として〕秀水の官舎に住み込んだ。

二十七年壬午。三十三歲。館秀水。
 三月十七日、生母のかた徐太宜人が亡くなった。話はもどるが、余が郷試を受けるたびに吾が母は、「わが家はもともと代々科挙とは縁がなかった。それに〔お前は〕すでに幕友で暮らしを立てている。受験勉強のために幕友の仕事を疎かにしては罪造りな事だし、幕友に精出しながらその上また勉強するのでは、身体がもたないだろうよ」と言われた。己卯〔乾隆20年〕に大病をした後はまた再三口を酸っぱくして、もう試験を受けることは止めておくれと言っておられた。そして今、〔三月〕十四日に急な知らせが官舎に届き、すぐに家に帰った。吾が母はすでに重体であった。それが十七日の早朝ふっと口をひらいて、「万一わたしが九月までもたなかったら、お前の受験を邪魔することになるね」と言われた。それで始めて、吾が母は科挙合格を心の底で強く待望しておられたのであり、さきの言葉はこれまたいたわりの餘りのことであったのだと分かった。その日からまた受験用の文章を習作する志をたてなおし、怠ってはならぬと心に決めた。


註: 親の喪に服する間は科挙を受験できない定めであったことが知られる。事実この年には郷試があった筈であるが、輝祖は受験していない。なお幕友稼業は喪中でも差し支えなかったことも併せて知られる。

三月十七日。先生母 徐太宜人卒。先是余每省試,吾母謂,家世素無科目,且旣以游幕爲養。學而荒幕則造孼,佐幕復學則精力不繼。己卯大病後,復再三諄屬戒勿應試。至是十四日,急足至館歸家。吾母已病劇。十七日早忽曰,萬一不能至九月,則誤汝試事。乃知吾母望捷甚殷。向者特慈之至耳。始立志作舉業文宇,不敢懈。
以前に、曾祖父から伝わる子孫共有の菜園が屋敷の北にあり、二人の伯祖〔祖父の兄〕と伯祖母〔その妻〕の遺柩はみなここに仮に安置されていた。先考〔輝祖の父奉直公〕先妣〔嫡母方太宜人)の遺柩もまたその右に仮安置されている。余が十五歳のとき〔乾隆九年〕に伯叔〔父の兄弟従兄弟たち〕の意向に従ってこの菜園を同族〔遠い同族の誰か〕に売却した。余としては〔すでに人手に渡った土地に仮安置のままでは〕亡くなった方たちが落ち着かないことが心配である。それ故、別に苧園〔麻畑〕を借地して徐太宜人の遺柩を仮安置したが、同時に二人の伯祖に、「将来父母を合葬しますときに、きっと地を求めて伯祖の諸柩も安葬いたします」と念禱した。


註: 「菜園」とは仮訳、原語「園」とは野菜に限らず果樹・花卉・竹木などを栽培する、通常居屋近くに位置する比較的小さな地段を一般的にいう言葉。


お墓を作る輝祖の願は乾隆36年に果たされた(同年の段参照)。

初曾大父有公園在舍北。兩伯祖伯祖母,皆殯焉。先考先妣,亦殯於其右。余年十五歲時,從伯叔鬻於同族。余懼先人不安。故别租苧園殯 徐太宜人,而禱於兩伯祖曰,俟考妣合竁,當求地以葬伯祖諸匶。
四月十九日、長男継坊が生まれた。

四月十九日長子繼坊生
〔秀水〕県に貢生で陶世侃というものがあり、巨富をもって名を知られていた。その父の恵先は長房の独子でありながら叔父〔次房〕に出継し、世侃たち兄弟五人を生んだものである。いまその五人のうちの長男が、死亡して後が絶えた。通例としては次男の子の璋をもってその長男の後継ぎとすべきである。世侃は兄弟順第三でありながら自分の子をもって長兄の後継ぎにしようと謀り、父〔恵先〕が死亡したのに乗じて、偽って父の遺命であるという口実を設けて、璋の父〔すなわち次房〕をして帰って〔亡父恵先の〕実父を継がせようとする。〔そうすれば長房の後継ぎは三房たる白分のところに回って来るという論理である。〕次房に味方する者たちは、「〔世侃が言うようにしては〕孫の身でありながら祖父を父として祭ることになる。定めとして〔次房が〕帰って〔一代前の〕祖先を継ぐことはできない」と言い、三房に味方する者たちは、「〔恵先の〕実父は子がありながら後が絶えたことになるのは情において順当でない。帰ってこれを継がせるという説も不可とは言い切れない」と言う。訴訟は布政使・按察使から巡撫にまで至り、銭文端公(陳羣)、諸宮詹(錦)、その他の高官諸先生かこの一件をめぐって意見を述べあったが、紛々として決しなかった。


註: 銭・諸ら諸先生はどういう地位にあったのか、搢紳全書で調べること。「布政使・按察使」と訳するのは「布政使and/or接察使」の意味。この一件は『佐治薬言』〈読書〉にも見える。『夢痕録餘』嘉慶10年の段にその回想の言葉あり。 

縣有貢生陶世侃。以巨富聞。其父惠先,以長房獨子,岀繼叔父,生世侃兄弟五人。而長子故絕,例得以次子之子璋爲後。世侃行第三,謀以已子後其伯兄,乘父故僞託遺命,令璋父歸嗣本生。袒次房者謂,以孫禰祖,例難歸繼。袒三房者謂,本生有子而無後,於情不順。歸繼之說,未爲不可。訟至司院,錢文端公(陳羣)、諸宫詹(錦及)搢紳先生,聚議此事,紛紛不決。
その時孫師はすでに河南省開封府同知に昇任の辞令を受けていたが、巡撫荘公は、富裕な家に関わる一件であるがために、県に指令を寄越して、この一件について県としての断案を定めた後に事務引継ぎをするように命じて来た。余もまたよい解決を見出すことかできず、夜通し考え続けた。その時ふと礼経〔『礼記』喪服小記〕に「殤と後無さ者とは祖に袝食す」という文があることを思い出した。そこで孫師をたすけて断案を立てて次のように論じた。「祖父を父として祭らせようという説は何としても不合理である。陶恵先は叔父の後継ぎとして出たのであるから、断じて己の次男を帰して本宗〔恵先の実父〕を継がせることはできない。〔しかし実父が〕子がありながら〔祭りが〕絶えるのは情として安んじ難いものがある。請うらくは、実父の位牌をその父〔恵先から見れば祖父〕愛泉という一支のところに袝食して恵先の子孫をして奉祀させることとしたい。遺命の真偽は問題とする必要がない」。これが大いに荘公の賞するところとなり、下問して余の名を知り、「この人物は余が江南に在任して久しくこれを知っている。まことに学識のある者だ」と言い、余を招いて会見した。その一時期、余のあだし名がにわかに喧伝され、嘉興、海塩、平湖の諸県から争って招聘の書簡が来た。劉君(国煊)が志行高尚であると聞いて、結局平湖からの招聘を受け入れた。八月に孫師が解任したのですぐに平湖に行った。

時孫師已陞河南開封府同知。撫軍莊公,以案關富室,飭縣定議後卸事。余亦無能折衷,長夜求索,忽憶禮經殤與無後者祔食於祖之文。爰佐孫師持議謂,禰祖之說必不可行。陶惠先岀繼叔後,斷難以已之次子歸繼。本宗有子而絕,情有難安。請以其主祔食於伊父愛泉支下,聽惠先子孫奉祀。遺命之眞僞可無置議。大爲莊公所賞。詢知余名曰,此君余在江南久知之眞有學識,招余相見。一時虛譽頓起。錢塘嘉興海鹽平湖,爭致關聘。聞劉君(國煊)賢,遂就平湖。八月孫師解任,卽至平湖。
十月、乍浦の巡検が徐姓の者等九人が家において仏を拝んでいたとてこれを捕らえ、経巻一箱を押収し、邪教を検挙したと報告して来た。余がその箱の内容を検査すると、『無為教経』一帙があったが、虫が食ってぼろぼろに崩れており、後に「万暦十七年歴城の并の妻王氏」という書き込みがあり、途切れとぎれで揃っていない。その他はみな『金剛』『楞厳』『観音』『阿弥陀』『心経』の額である。余は、「〈無為〉は確かに邪教の名であるけれども、その経文はすでに久しい以前からぼろぼろになっている。徐姓の者等は恐らく教党ではあるまい」と言った。〔知県〕劉君は自身で各家に出向いて捜索したが禁制の器物は何も挙がらなかった。余は、「聞くところによればこの教えに帰依する者はみな無期限に肉食を絶つという。豚や羊の肉でこれを試して見れば、もし果たして教党であれば食べようとしない筈だ」と言って、法廷で〔肉料理を〕支給して見ると、食べない者はいなかった。経文の由来を訊問すると、どの経もみな乞食していた住所不定の僧から買ったのだと言う。そこで、「私家で北斗星を拝む者」という律例に照らして、人ごとに〔軽重〕それぞれに懲罰し、『無為経』を焼却し、『金剛経』等は徳蔵寺に引き渡して読経の用に供することと〔して一件落着と〕した。 


註: 邪教取締りの条文としては『大清律例』礼律祭祀〈禁止師巫邪術〉律および諸 条例がある。主犯死刑、従犯流刑等すこぶる罪が重い。汪輝祖はそれを冤として同上〈褻瀆神明〉律「凡私家告天拝斗、焚焼夜香、燃点天灯七灯、褻瀆神明者、杖八十」に擬律した。 

十月。乍浦巡司獲徐姓等九人,在家拜佛,起經卷一篋,稟爲拏獲邪敎。余檢其篋內有無爲敎經一帙,蠧蝕零碎。後有萬厯十七年厯城并妻王氏字,斷續不完。餘皆金剛楞嚴觀音阿彌陀心經之類。余曰,雖無爲係邪敎名,然經已厯久殘蝕。徐姓等恐非敎黨。劉君親赴各家檢摉,竝無違禁器物。余曰,聞歸敎者皆長齋。以猪羊肉試之。果敎當不肯啖。當堂給食,無不啖者。訊經由來,則并諸經皆鬻自乞食游僧之手。遂照私家拜斗例,分别責處。焚無爲經而金剛經等發德藏寺供奉。
後年、同族で遠いおいに当たる〔汪〕在心が乍浦に行商に行き、帰って余に語っていうには、「彼処の或る民家で菜園内の書斎風の建物の中に──本人まだ生きているのに──叔父さんの肖像を祭っているところがありました。そのわけは、『ある時誤って重大な犯罪嫌疑を受けたが、叔父さんのお蔭で事無きを得た。それでこうして恩に報いているのだ』ということでした」と言う。余は何の事やら分からなかったが、或いはそれが即ちあの一件で挙げられた者であったのかも知れない。

後族子在心,商於乍浦。歸語余曰,彼有民家,於圃內書室中奉叔生像。謂,當日誤犯巨案,賴叔保全。所以報也。余不知何事。或者其卽此案中人乎。
この年、新しい条例ができて、「人命案件の第一次報告は刑部に取次ぎ、その時点から〔結審までの〕期限を起算する」こととなった。幕友が案件を処理するとき、第一次報告〔「初詳」〕は多くはよい加減にしておき、そのため訊問を繰り返して自供を固める段になって、往々にして手詰まりになる。余は劉君のために巡撫と按察使両大官に上申書〔「稟」〕を書き、「凡そ第一次報告の時に、時を移さず供述の概要を記し、罪名を擬定して『禀』を添えて上申する」〔ことを建議した〕。これが採納されて省内に通達され、大いに弊風を正すことができた。しかし幕友はこれを都合よくは思わなかった。かの新しい条例もやがて廃止され、「稟」もだんだん行われなくなった。もしあれが永く確立した方式となっていれば、司法の質の向上と幕友の研鑽にとって必ず稗益すところ多かったのであろうに。


註: この一段ほとほと分からぬ。仮に訳しておくのみ。条例(?)原文東文研で調べること。

是年新例,命案初報,咨部起限。幕友辨理初詳,每多草率。覆審承招,往往棘手。余爲劉君禀撫臬二憲,凡初報時卽摘敍供情,擬定辠名,加稟附申,奉批准通行。大有匡正。然幕友不以爲便也。後例停。稟亦漸止。如永爲成規,於獄情幕學必多裨益矣。

乾隆二十八年〔1763〕癸未。三十四歳。平湖で幕友勤め。

二十八年癸未三十四歲館平湖
これより前、孝豊県民で蒋という者が舟で航行中に強盗の被害を受けた。〔被害届けを受けた県から〕各級上司に報告し、〔上司から〕逮捕を命ずる手配が出ていた。去年御用納めの後、余は郷里に帰って年を越した。その間に、郷里に逃げ帰っていた充軍犯人で盛大という者が匪徒を集めて搶奪したという嫌疑で〔平湖県に〕逮捕された。訊問するとまさしくかの強盗案件の犯人である。劉君から迎えの使者が来て余はすぐに役所に戻った。中間的供述書を調べてみると、発意して仲間を集めて盗みを実行し、被害者を傷つけ、盗んだ贓物を山分けしたなど、凡そ〔犯罪認定に必要な〕各項目が缺けることなく備わっている。まごうかたなく強盗である。しかもすでに藍布の綿布団が贓物として押収され、被害者もそれ〔が盗まれた自己の物であること〕を確認している。その晩劉君に頼んで再訊問をしてもらい、余は物陰からそれを聴いた。一つひとつ自白して恐れる様子がない。だが自白する犯人の口ぶりは、如何にも慣れて滑らかで書物を暗唱しているかのようである。しかも主犯と仲間と合計八人が一語として食い違ったことを言わない。余は内心これを疑った。

先是孝豐縣民蔣氏,行舟被刧,通詳緝捕。封篆後余旋里度歲。有囘籍逃軍曰盛大者,以糾匪搶奪被獲,訉爲刧案正盜。劉君迓余至館,檢閲草供。凡起意糾夥上盜傷主劫贓俵分各條,無不畢具。居然盜也。且已起有藍布綿被,經事主認確矣。當晩屬劉君覆勘。余從堂後聽之。一一輸供,無懼色,顧供岀犯口,熟滑如背誦書。且首夥八人,無一語參差者。竊疑之。
次の晩にまた劉君に頼んで、故意に認定事実を増減して、一人づつ引き離して個別に訊問してもらった。すると或る者は認め或る者は認めず、八人の者がそれぞれ食い違ったことを言い、中には大声をあげて事実誤認を訴える者が出て来た。そこで訊問は止めにして、県の胥吏に命じて、被害者が自己の物だと認めた布の布団の色にあわせて新旧とりまぜて二十餘枚の布団を借りたり買ったりして来させ、余はこっそり目印を着けた上で、被害者が認めた布団をそれとまぜこぜにした。劉君が法廷で被害者にそれを見せて再度確認させると、終始不確かで結局見分けることができなかった。こうなると各犯人はみな先の自白を取り消して承服しなくなった。子細にそのわけを問いただすと、およその次第は、盛大は官に挙げられた最初から自分は充軍の流謫地から逃げ帰って搶奪を犯したのであるから、もはや死刑を免れないものと思い込んで、それ故かの強盗事件について訊問されると口から出まかせに身に覚えのないことを自白承服してしまい、彼の仲間もまたみなそれに口をあわせてしまったのであった。実は布団は自己の物であり、誰が縫って作ったかという裏付けまで取ることのできる物であった。その本来の〔搶奪の〕罪にしても、これまた死刑になるものではない。そこでこれを〔強盗の〕嫌疑なしと定めた。

次晚復屬劉君,故爲增減案情,隔别硏鞫,則或認或不認,八人者各各歧異。至有號呼愬枉者。遂止不訊,而令縣書依事主所認布被,顏色新舊,借購二十餘條。余私爲記别,雜以事主原認之被。劉君當堂再給覆認。竟懵無辨識。於是各犯僉不招承。細詰其故。葢盛大到官之初,自意逃軍犯搶,更無生理。故訉及劫案信口誣服,而其徒皆附和之。實則被爲已物,裁製者有人。卽其本案辠亦不至於死也。遂脫之。
二年後に、劉君は知府に昇進の保証推薦を受けて皇帝に拝謁〔のため上京〕した。そしてこの強盗事件の真犯人が元和県で検挙され、被害者を召喚して贓物の確認も取れた。劉君は〔北京から〕任地に戻ると、蘇州に赴いてこの強盗事件の審理に立会い、一件は落着した。

越二年,劉君保舉知府引  見。而此案正盗,由元和發覺,傳主認贓。劉君囘任,赴蘇會審定案。
はじめ余が盛大の嫌疑を晴らそうとした時、役所中の者ががやがやと余のことを法を枉げて不当に犯罪を見逃すものだと噂した。余はこれを聞いて劉君に辞職を申し出た。劉君は聴き入れない。余は、「どうしても拙者を引き留めようとのお考えならば、盛大の嫌疑を晴らすのでなければなりません。そもそも盗まれた品目は非常に多いのにただ一つの疑わしい布団を証拠として数人の者を列ねて死刑に処することは、私にとっては子孫への悪しき応報と引換えに幕友の職にしがみつくことであって、為すに忍びないことでありますし、のみならず主人たる貴下のために考えても、また恐らくは将来面倒を引き起こすことになりましょう」と申し述べた。それでもなお余のことを悪しざまに言う者は、ひそひそと私議して止まなかった。幸いにして劉君はそれに動かされなかった。真犯人が捕まってから、劉君が余に言うには、「さきに盛大の嫌疑を晴らすことに尽力してくれた〔お蔭だ〕。貴公はなんと不思議にもものを見通すことよ」。余は、「貴下を罪に陥れたくない。私は子孫断絶になりたくない。ただそれだけのことです」と言った。余はこれ以来ますます中間的供述書を信用しなくなった。徒罪以上に当たる犯人については、訊問の模様を自分の耳で聴かずにはおかないことにした。


註: 「法を枉げて」(枉法)とは律の術語としては賄賂を受けて不正(とくに不正 な裁判)を行うことを言う。ここも「賄賂を受けて不当に犯罪を見逃す」と訳した方がよいのかも知れない。


官・幕となって不正を行えば悪い因果を子孫に残す(その極として子孫断絶する)という思想が汪輝祖の人生観の根底にある。いままでにもよく出て来た「造孽」(罪造り)という言糞もその意味である。


清律は盗みを強盗・搶奪・窃盗の三種に分ける。強盗は日本現行刑法の強盗と同じ。人を抗拒不能の状態に置いて物を盗むこと。その刑罰は極端に重く未遂でも杖一百流三千里、既遂は贓額を問わずかつ主犯・従犯を分かたずすべて斬首刑となる。搶奪とは人に気付かれても構わずに強引に奪って逃げること。ひったくり、火事場泥棒の類。窃盗とは人に気付かれないように盗むこと。日本刑法ではどちらも窃盗とされるが清律では両者を区別する。搶奪は贓額によって罪を計り窃盗に比べて二等加重、かつ最低杖一百徒三年。


この一件は『続佐治薬言』〈草供未可全信〉にも言及されている。

初余欲脫盛大時,闔署譁然,謂余枉法曲縱。余聞之辭劉君。劉君弗聽。余曰,必余畱止者,非脫盛大不可。且失贓甚多,而以一疑似之被,駢戮數人。非惟吾不忍以子孫易一館,爲君計亦恐有他日累也。然短余者,猶竊竊然私議不止。幸劉君不爲動。至獲正犯,劉君謂余曰,曩力脫盛大君,何神耶。余曰,君不當抵辠,吾不當絕嗣耳。余自此益不敢以草供爲信。犯應徒辠以上,無不親聽鞫問。
また民間の婦人で愈張氏という者が、むすめが姦通を犯すのを黙認していた。壻がそれを察知して妻を殴ると、張氏はそれを止めにはいり、壻に殴られて歯を一本折られた〔という事件があった〕。律によれば徒罪となる。余は思うに、「婦人が姦通を犯せば、その罪によって離別されるべきものである。母がむすめの姦通を黙認すれば、それによって壻と義絶になる。よって本件は凡人をもって論ずべきである」。〔この起案は〕按察使と府から二度にわたって駁を受け、〔結局〕杖一百枷号一月に擬律して落着した。


註: 「人の一歯を折る」罪は凡人ならば杖一百(刑律闘殴〈闘殴〉条)。妻の母として論ずれば緦麻尊属として二等加重(同上〈殴大功以下尊長〉条)して、杖一百徒一年半となる。

又民婦兪張氏,縱女犯姦。壻覺毆其妻。張氏赴勸被壻毆折一齒。案待應徒。余以爲,婦人犯姦,辠應離異。母縱女姦,卽與壻義絶。應同凡論。奉司府再駮,擬杖一百枷號一月完結。
この年、両母の為に願書を提出して双節〔一家二人の節婦。王太宜人と徐太宜人〕を旌表せられんことを申請した。十二月、巡撫からの〔旌表を請う〕彙題〔一括奏請〕のうちに加えられた。

是年爲 兩母具呈請旌雙節。十二月奉巡撫彙題。

乾隆二十九年〔1764〕甲申。三十五歳。平湖で幕友勤め。この年十二月、礼部から両母について双節を旌表すべきとの具題〔皇帝への上申〕がなされ、「議に依れ」〔裁可〕との勅旨があった。

二十九年甲申。三十五歲。館平湖。是年十二月,奉禮部具題 兩母旌表雙節。奉  旨依議。

乾隆三十年〔1765〕乙酉。三十六歳。正月、礼部の公文を戴いた。「両母の双節を旌表する。坊〔門の形をした旌表の建築物〕を建てること例の如くせよ。事実を記録に留めるため文章を学識者に依頼せよ」というものであった。


註: ここは仮訳。旌表の制度を調べてみないとよく分からない。

三十年乙酉。三十六歲。正月。奉禮部咨旌 兩母雙節,建坊如例,錄事實,乞言藝林。
二月、〔幕友として〕平湖に住み込む。嘉興府〔平湖県はその管轄に属する〕の知府金匱の鄒公(応元)はつねづね余を重んじておられた。ある時劉君に「貴下の幕友汪某は処理する案件において必ず犯人のために餘地を残しておく。そして議論は純正である。きっと将来福があるだろう」と語ったという。その頃同僚幕友はみな余を排斥していた。余もまた仲良くすることができず、孤立の情勢であった。幸いに劉君の信任だけはきわだって深かったし、鄒公の言葉もあったので、人々の気持ちもいくらかほぐれていった。 
五月、鄒公は乍浦を巡視し、〔平湖県の〕役所にも立ち寄って交わりを下さった。

二月。館平湖。嘉興知府金匱鄒公(應元),雅重余。甞語劉君,君幕汪某,所辦案必爲犯人畱餘地。議論純正,當有後祿。時幕中人,無不排擠余者。余復不能和通。勢孤立。幸劉君信任獨深。得鄒公言,人情稍定。五月。鄒公巡視乍浦,至署下交。
六月、乍浦同知陳(虞盛)が乍浦営の参将湯(雲龍)と会同して漁匪(海賊)楊極を逮捕した。芋蔓式に仲間の盗賊を逮捕すること三十餘人、贓物を預かったり買ったりしたという罪名で挙げられた者また四十人を下らない。これら盗賊の自供を記録して上申し、同時に劉君に指令して取調べのうえ正規に上申するように促して来た。法廷で訊問して見ると、各犯人はみな棒で叩くなどの拷問を受けており、身体中かさぶたが盛り上がり、膝や踝がくずれただれている。繰り返し問い質すと、ただ福建人の林好という者が曽って人の財物を搶奪した事実、その他十六人があるいは魚を窃取しあるいは網を窃取した事実があるだけで、その他の者はみな拷問におびえて身に覚えのない罪を承服してしまったものであり、強盗でないしかつまた窃盗でもない〔ことが判明した〕。そこで劉君は陳同知に同調せず、搶奪犯一人、窃盗犯十六人だけを報告し、獄に繋いで再度の取調べを持つこととし、その他の者は全部釈放した。

六月。乍浦同知陳(虞盛)會同乍浦營參將湯(雲龍)獲漁匪楊極。輾轉株連獲盜三十餘人。以寄贓買贓諸名牽致者,又不下四十人。錄盜供上申,仍檄劉君勘詳庭鞫,則各犯皆受搒掠,徧身血痂墳起,膝踝潰爛。鞫反覆,惟閩人林好曾搶奪人財物。其十六人或竊魚或竊網。餘人皆畏刑誣服。非劫且非竊也。劉君不敢附會陳丞,止報搶奪一人,竊賊十六人,繫獄待覆勘,而盡釋餘人。
余はこの件の文案を書き上げてから、省都に出て郷試を受験した。試験がおわって役所に帰った頃、〔乍浦営の〕参将は転任含みの考査を受けるため総督に福建で拝謁した。彼は〔その折りに〕この一件を誇張して総督の耳に入れたので、総督は文書を下して劉君を詰問した。劉君は自己の初説の正しいことを力説して止まず、大いに同知等と対立することになった。〔役所の中では〕余のことを〈故意に人の罪を見逃す〉ものだと言って讒言する者があった。余は劉君に辞任を申し出たが劉君は聞き入れなかった。間もなく参将は疽〔できもの〕を病んで死亡し、同知は父が死亡して喪に服するため現職を去った。

余削牘竟,晉省鄕試。比試竣至館,則參將以調考謁總督於福建,侈張其事。總督下檄,詰劉君。劉君持初說甚力,大與丞等忤,或以故岀鑱余。余辭劉君,劉君不可。未幾參將病疽死,丞丁父憂去。
話は戻って、〔劉君と同知が対立した時〕巡撫熊公(学鵬)は同知の報告に基づいて中央に報告しようとしたが、按察使李公(治運)は、「同知は信ずるに足らない。県からの上申どうりに取調べの上で落着さすべきである」と主張していた。 

先是撫軍熊公(學鵬)欲據丞申入  吿。臬司李公(治運)謂,丞不足信。應如縣申勘結。
しかるに参将が総督に口説いたことから、総督楊公(延璋)はかえって同知と参将が洋匪〔海賊〕を逮捕した始末を書き列ねて上奏し、「浙江・江蘇両巡撫に命じて会同して評議せしむ」という勅旨があった。按察使は囚人の身柄を杭州〔省都〕に送致させ、鄒公〔嘉興府知府〕に委嘱して〔杭州に出張して〕じきじきに訊問を行わせた。囚人の供述するところは県からの上申のとおりであった。ただ慈範県〔寧波府下〕の沈氏被害の一件だけは被害者の届けの言葉と〔犯人の自供が〕食い違った。鄒公はそれを疑って強盗と認定しようとした。劉君はそうでないことを力説したが聞き入れられない。余は鄒公の〔心を開く〕ために建言して、「内河で河幅五六丈のものであっても、数隻の船を東岸に繋いでおいたところ、風に遇ってとも綱が切れて西岸に吹き流されれば、数船が東岸でのように〔西岸で〕また尺寸の先後もなくマストを連ねて並ぶことは決してあり得ません。況んや黄盤は外洋であって対岸がありません。いま被害者の申立てに、『三船が同時に一処で漁をしていたところ、風に吹き流されて黄盤に着き、そこで一緒に停泊していたところ三隻の賊船に同時に強盗されました』と言うけれども、そのような道理はあり得ません」と述べた。

至是總督楊公(廷璋)竟具丞參將獲洋匪狀,上  聞。奉  旨,命浙江江蘇兩巡撫會讞。臬司提囚至杭州,屬鄒公親鞫,囚供如縣申。惟慈谿沈氏一案,與事主報辭異。鄒公疑爲劫。劉君力言未允。余爲鄒公言,內河寛五六丈者,纜數船東岸,遇風纜斷而飄西岸,則數船必不能連檣如東岸無尺寸後先。況黃盤爲外洋,無津涯。今事主之辭,以爲三船同漁一處,被風飄至黃盤,又同泊,爲三盜船同時强劫。當無是理。
鄒公はすっきりと理解し、今度は厳しい顔つきで被害者を詰問した。すると〔判明したのは〕、兄弟三人は始めは一緒に漁をしていたが、風に遇って吹き流されてからは相互に連絡を取りあう状況ではなかった。林好等十五人はばらばらに各自の狙った船から物を窃取したのであって、もともと共謀したのでもなければ共同して実行したのでもなかった。こうして一件〔の事実調べ〕は落着した。ところが両巡撫の意向は、「洋匪は厳重に懲罰するがよい。搶奪であっても強盗の律を援用して処罰するべきだ」というにあった。〔両巡撫の〕幕友たちは〔困って〕みな言い訳を作って去ってしまった。両巡撫は鄒公一人をつかまえてこれに案件処理の任務を負わせた。鄒公は余に判決案文の起草を任せた。〔余は〕四昼夜かかりきりで十数回も草稿を書きなおした。〔結局〕林好を絞首刑、他の十六人および後から捕まった七人を流・徒・杖・笞など各人それぞれの刑に擬律し、牽連して挙げられた者は誰一人処罰の対象としなかった。〔これが上奏され〕勅命によって刑部に下して議せしめ、原案どおりに裁可された。

鄒公爽然改容,詰事主,則兄弟三人始雖同漁,旣遇風飄失,各不相顧。林好等十五人,各竊各船,初非同謀,亦非同行。案遂定。顧兩撫軍謂,洋匪宜重創。雖搶奪,亦當援强盜律治之。幕中賓皆託故去。兩撫軍專令鄒公承辦。鄒公聽余定爰書。盡四晝夜草凡十數易,擬林好絞餘十六人,及續獲七人流徒杖笞,各有差。牽致者一無與焉。  命下部議報可。
この一件の仕事たるや、県の上申から両巡撫の連名上奏にいたるまで、みな余が議論を立て文案を起草したのである。鄒公は当初余を知らなかった。〔後に〕過分の褒め言葉を戴くようになったのは、この一件が縁となったためだと言ってよいのである。鄒公がいなかったならば、わたしはどうしてわたしの志を行うことができただろうか。


註: 二月段階で「鄒公はつねづね余を重んじておられた」(鄒公雅重余)といい五月にも「役所にも立ち寄って交わりを下さった」(至署下交)ということと、ここで「鄒公は当初余を知らなかった」(鄒公初不知余)ということとの関係はよく分からない。

是役也,自縣稟至兩撫軍會奏,皆余持議創稾。鄒公初不知余,過蒙相賞,殆爲是案作緣也。微鄒公,吾其能行吾志哉。
この年、桐郷の沈青斎(啓震)が家庭教師として〔劉君の〕官舎に住み込み、これと交わりを結んだ。(青斎は人となり闊達、事理に通徹し、交游・気誼を重んじた。庚辰〔乾隆25〕の挙人。後に己丑〔乾隆34〕の会試によって中書〔大学士の秘書?〕となり、山東運河道の官となり、総河を署し、病をもって退職した。)


註: ……このところ仮訳。調べを要す。

是年,桐郷沈靑齋(啓震),館西席,訂交焉。(靑齋。爲人豁達,通徹事理,重交游氣誼。庚辰舉人。後由己丑科中書,官山東運河道,署總河,引疾歸。)
十月、妾楊氏が次男(継墉)を生んだ。

十月。妾楊氏生次男(繼墉)。


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