靖国神社問題を考える

滋賀 秀三


 去年の八月十五日、中曽根首相は靖国神社に公式参拝と称する拝礼を行い、喧騒な世論の対立を惹起したことは記憶に新しい。これは信教の自由と深くかかわることであり、受身に信仰を守るだけでなく進んで社会の福音化に努めなければならないわれわれカトリック信者として、無関心であってはならない問題である。
 教会は、それに先立つ八月十二日、日本カトリック正義と平和協議会議長相馬信夫司教名で、中曽根首相にあてて要望書を提出し、伝えられる公式参拝は「信教の自由と政教分離の原則」という「日本国憲法の基本理念にそむくもの」であるが故に「これに反対する」旨を表明した。
 信教の自由と政教分離とは深くかかわるものではあるが、同じことではない。信教の自由は基本的人権であり、現在これを、少なくも建て前として認めない国はない。他面、政教分離の国は現在でも数多くはない。典型的にはアメリカの憲法がそれであり、日本国憲法もそれを範としている。政教分離は信教の自由を完璧に護ろうとする、いわばその堅固な外堀りである。いかなる宗教団体も国から特権を受けてはならないこと、国及ぴその機関は宗教的活動をしてはならないこと(憲法二〇条)、宗教上の組織・団体のために公金を支出してはならないこと(憲法八九条)が規定される。これによって信仰や宗教の問題を純粋に個人の内面の自由に委ね、諸宗教がいやしくも政治権力との結托に頼ることなく、純粋にその教義や祭儀や司牧布教の真実性・優秀性によって救霊の力を競い合うという、理想的な精神環境を確保しようとする。国家もまたこれによって、宗教の如何にかかわらずすべての国民から均しく支持を取りつけることができる。それは宗教にとってのみならず国家にとってもまた理想の制度である筈である。
 戦前の日本において、国家と神社は一体となっていた。明治の維新政府は神仏分離、廃仏毀釈という多分に暴力を伴った政策を遂行して、それまで体制的な宗教であった仏教を体制の外に追出し、代りに、神仏習合状態から引き剥されて純化はしたが他面に内容は却って空疎となった神社神道をもって国家の教養となし(いわゆる国体の本義)、これに独占的に国家の祭儀を託したのである。神祇の奉祀は国および地方公共団体そのものの営みであり、諸杜の神職がその機関としてこれを執り行うものであった。
 靖国神社は明治二年東京遷都と同時に、現在の九段の地に招魂杜が建てられたことに始まる。招魂とは幕末期に用いられ始めた言葉であり、元来は政争・戦闘における味方の犠牲者を紀念・追悼・崇敬する含意が濃かったが、西南戦争の後、明治十二年社号を改めて靖国神社となるに及んで、護国の英霊を祭神とする神社としての性格が確定し、神社神道の強力な二格をなすようになったものである。
 このような国家神道とくに靖国信仰が偏狭な国家主義さらには軍国主義の支柱となり、内には思想の統制と非同調者に対する迫害、外には隣国の侵略と支配下に奪取した地域の住民に対する傍若無人の振舞いを生み、終には破局に陥ったったことは周知の通りである。
 終戦後、昭和二十年十二月占領軍の発したいわゆる神道指令によって、国家と神社神道の徹底的な分離が斬行され、その原理はやがて日本国憲法のうちに政教分離の規定となって定着した。思えば何と大きな精神の解放であったことよ。その時、神社たることを止めて国家管理の記念堂として留る道もあり得たがそれを取らず、国家と手を切って一個の宗教法人として認可を受けたのか現在の靖国神社である。
 靖国神社が現在かなり広汎な人心吸引力を持っているのは、それが社殿の奥深く日々厳かに祭儀を執り行うまことの宗教なればこそである。既に宗教であるからには他の宗教と平等の立場で信奉者に霊的な恵みを与え続けるのか正道であるのに、それに甘んせず、国家の祭儀を独占する戦前の特権的地位への復帰を志向する政治絡みの底流が根強く存在する。かって国会に上提された国家護持を内容とする靖国神社法案が五度目の廃案によって挫折した後、当面の目標を近くに設定したのが、ここ十年来年ごとに激しさを増して来た公式参拝要請運動なのである。
 政府が依拠した通称靖国懇の報告書なるものも、よく読めば決してあのような「公式参拝」を一義に支持してはいない。世に反対の声が強いし、反対論の側にこそ説得力のある理性的な議論が多い(参照・「ジュリスト」八四八号「靖同神社公式参拝」有斐閣一九八五年十一月)。やがてめぐり来る今年の八月十五日を注目したい。
 言うまでもなく、公式参拝反対論は戦没者に対する冷淡から起るのではない。政教分離の新しい日本国家自体もその再生の礎石となった戦争の犠牲者に対して決して冷淡ではなかった。宗教へのこだわりなしに皆が気持よく参詣できる国家管理の施設として、千鳥ケ淵戦没者墓苑ができている。あの霊域の静かなたたずまいは人の心の奥底を揺り動かす。一度は参るべき処である。そこには御製の碑がある。
 国のため命ささげし人々の
  ことを思へば胸せまりくる

(『響──雪ノ下カトリック教会教会報』1986.7.31)


Back to HOMEPAGE