『東洋法制史研究会通信』第12号(1998年9月21日)

《記事》

『金山県保甲章程』「罪名図説」箚記

川村 康


1 はじめに

 東京大学東洋文化研究所仁井田文庫所蔵『金山県保甲章程 附勧戒条款・罪名図説』は清代「咸豊、同治、光緒あたり(1) 」に編纂刊行された、江蘇省松江府金山県(現在の上海市金山県)における保甲章程と勧戒条款あわせて26箇条を記したものである。本文11丁、保甲章程には保甲の組織だけでなく、賭博や阿片、近隣間の闘殴、邪教などに対する戒めのほか、親孝行を勧める条項までが含まれ、なかなかに興味深い。けれども、この書物を有名にしているのは、その巻末に附せられた「罪名図説」4葉である。それぞれ「凌遅罪名」「斬決梟示罪名」「斬立決罪名」「絞犯罪名」が附せられるが、とくに有名なのは、仁井田陞氏自身によってその一部が紹介された「凌遅罪名」と「絞犯罪名」である(2) 。この「罪名図説」が刑罰史料としての高い価値を有することは言を俟たないが、またこの絵図にはいくつかの謎が存在する。本誌がきちんとした論文の掲載を目的としないことに乗じて、思い付くままを書き連ねた駄文が本稿である。

2 「罪名図説」は『金山県保甲章程』の一部を構成するのか

 最大の疑問は、『金山県保甲章程』の本文に「罪名図説」のことが触れられていないことである。「罪名図説」がこの書物の一部分として作成されたならば、序か跋にこれについての意図が記されていてもよい。しかし、たとえば跋は保甲章程については「合行出示暁諭為此、仰合邑諸色人等知悉、其各凛遵毋違、切切特示」と述べてはいるが、「罪名図説」については沈黙したままである。しかも、「罪名図説」の紙質は本文とはまったく異る。書誌学を修めたわけではない筆者は紙質の違いから史料批判を行う術を知らないが、本文には漢籍一般に見られる唐紙が使われているのに「罪名図説」には胡粉紙が使われている。これはもちろん、絵図の印刷を前提として上質の紙を使用したからである。けれども、挿絵入りの話本などでは挿絵も本文も同じ紙質で印刷されているのを思うと、そこには何か別の理由が想像できる。つまり、誰かが勝手に『金山県保甲章程』に「罪名図説」4葉を綴込んでしまったのではないか、という想像である。もちろん、この想像自体が疑わしいことも確かである。たとえば外題の題箋は木版印刷されているのだから。

3 死刑の執行場所

 伝統中国の死刑は「市」で公開執行される、というのが通り相場であった。「棄市」という呼称がそこから生じていることは指摘するまでもない。けれども、この「罪名図説」では死刑はそんな場所では執行されていない。「凌遅罪名」と「絞犯罪名」ではおそらく衙門の内庭が執行場所であり、「斬決梟示罪名」ではどうやら町外れに臨時に設営された幕営の前であり、「斬立決罪名」に至っては峠のような風情――まてよ、金山県は上海の近く、海辺ではなかったか。それはともかく、「見物人大勢の前で」という古典的な印象とはおよそ掛け離れた印象を与えられるのは、肝腎の見物人の姿がほとんど見られないからである。前二者では衙門の内庭という場所柄、警護の兵士や胥吏、官人の姿は見られても、一般の見物人の姿はまったく描かれていない。後二者でも見物人は遠景として描かれているにすぎない。腕を振り上げて、何事か――たぶん「好! 好!」などと――絶叫している様子は古典的な死刑見物人の印象に近いのであるが、いかんせん数が少なすぎる。「斬決梟示罪名」「斬立決罪名」ともに5人づつ。

4 斬決梟示と斬立決の執行方法

 「凌遅罪名」は広く知られた絵図であり、その全体も発表されている(3) ので、語られるべきことは語り尽くされている。しかし、筆者の管見の及ぶところ「斬決梟示罪名」と「斬立決罪名」は公刊の印刷物に発表されたことはない。

 今まさに首を刎ねられんとしている受刑者とその周辺に注目すると、斬刑の執行には最低3名の執行吏が必要であったことが解る。第一に劊子手すなわち首斬役。第二、第三は受刑者が抵抗できないように押さえている役、後ろは受刑者の手首を縛った縄を引く者、前は辮髪を引く者。さて、清代ではこれでいいとして、辮髪の風習がなかった明代以前ではどうしていたのだろう。もうひとつ気になるのは、劊子手が背中の帯の間に挟んだ旗印のようなものである。次に控えた受刑者たち――「斬決梟示罪名」では2名、「斬立決罪名」では1名――も同じものを背中に立てている。想像してみるに、これは受刑者の姓名と罪状を記したものだろう。しかし解らないのは、「凌遅罪名」と「絞犯罪名」ではこれが見られないことである。単なる描き落としなのか、それともこれを差すのは斬刑の受刑者だけであったのか。

 「斬決梟示罪名」の左下に目を移すと、胴体が3体、生首が2級転がっている。首が1級足りないのは、左上に控えた官僚の首実検に供されているからである。さて、そんな首実検などが果して行われていたのか、という疑問も湧くが、もっと気にかかるのは生首と胴体の傍らに置かれた3箇の篭である。なぜ、こんな場所に篭が放置されているのか。そこで右上に目を転じると、太鼓橋の中央に柱が立てられ、その天辺近くにわたされた横棒に同様の篭が吊され、さらに横棒の先端には細長い布切れが揺れている。これも想像ではあるが、布切れは受刑者が背中に立て、劊子手が帯の間に挟んだ旗印、それが結局ここに翻っているのである。何のためにかと言えば、篭の中にあるものがいかなるものであるかを示すためにである。となれば、篭の中に納められたものは、受刑者の生首以外にはありえまい。そこではたと困じてしまうのは、中国の梟首はこんな形式なのか、ということである。梟首といえば日本式の梟首台に生首を差し並べて、とばかり思っていた身には、篭に納めて、などというのは余りにも欧州式に思われてしまう。そういえば、梟示の場所も余りにも欧州式である。

5 絞刑の執行方法、その他

 「絞犯罪名」は、左下の女性の受刑者と2名の刑吏の姿が仁井田氏の著書に紹介されているが、全体は明かにされていなかったと思う。この絵図の絞刑は、首を挟んで輪にした縄を両端から締め上げて行うものであるが、これとは別に、受刑者の手足を縛りつける柱と首の間に縄を輪にして掛け、隙間に棒を挟んで締め上げる方式もあった(4) 。右下に控えた男性の受刑者は目前で女性が絞刑を執行される様子を見せられている。男女一組ということは、罪名は「妻妾溌悍逼迫其夫致死者」あたりか。さらにその後ろに控えている2名の人物が男性の絞刑執行を担当するのであろう。女性を指さしている右側の人物は新米で、腰に手を当て胸を張っている左側の人物が先輩格といったところか。

 ここで目につくのは受刑者の服装の差、すなわち、男性は上半身裸であるのに対して、女性は着衣を認められていることである。「凌遅罪名」の女性受刑者が上半身裸体とされているのは、刑の性格上已むを得ないのであって、斬刑でも女性は着衣が認められたと思われる。受刑者の身なりに気をつけてみると、「凌遅罪名」の女性受刑者を除いて、4葉の受刑者すべてが肩、肘、手首、足首に何かを巻きつけているのがわかる。足首につけられたものは「斬立決罪名」を見れば明かに足枷である。しかし手首に巻きつけられたものが、単なる縄なのか、枷であるのかは判然としない。そのあたりが一番明確に描かれている筈の「斬立決罪名」では、ちょうどその部分は折り目に当たってしまっているのだ。肩と肘に巻かれたものに至っては、ちょっと見当がつかない。絵図を見る限りでは、それらが結びつけられているようでもない。「斬決梟示罪名」の左下の胴体を見ても、刺青でもないだろうし枷でも襷でもなさそうだ。これだけ描き込まれているからには、単なる絵師の気まぐれということはないだろうが……。

6 おわりに

 2に掲げた疑問に対する、もうひとつの推測を提示して、この駄文の結びとしたい。

 「罪名図説」と似たような絵をどこかで見ている。そう、『点石斎画報』である。『点石斎画報』が発行されたのは上海である。金山県も上海の近くである。年代もほぼ同じである。『点石斎画報』の絵師と同じように西欧流絵画術を学んだ絵師が「罪名図説」4葉を仕上げていた。保甲章程刊行の際に、内容とは無関係と知りつつ、刊行者がこれを付録として綴込んだ。保甲章程本文と直接無関係でも、絵図のもつ説得力を確信して。そしておそらく、上海周辺の他の県の保甲章程の刊行に際しても――。

(1)仁井田陞「凌遅処死について」(『中国法制史研究 刑法』東京大学出版会、1959年8月)171頁註(42)。
(2)『中国法制史』(岩波書店、1952年6月)口絵4、5、『中国法制史研究 刑法』図版第2。
(3)海老名俊樹「宋代の凌遅処死について」(宋代史研究会編『宋代史研究会研究報告第2集 宋代の社会と宗教』汲古書院、1985年10月)160頁、相田洋「市と処刑」(『異人と市――境界の中国古代史――』研文出版、1997年5月)103頁。
(4)仁井田陞「中国における刑罰体系の変遷――とくに「自由刑」の発達――」(『中国法制史研究 刑法』)120頁、同頁挿図第1。

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編集部注記: 著者と相談の上、WEB版では、原載時に付されていた「罪名図説」の図版の掲載は見合わせることとした。

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