『東洋法制史研究会通信』第15号(2006年8月21日)

《記事》

比附と類推

滋賀 秀三


 帝制中国法の比附は、現代日本語で言えば類推のようなものだと、ひとまず言っておくことは正しい。比附と現代日本の法律学で言う類推(以下もっぱらこの意味で、類推の語を使うことにする。)とは、どちらも“類似性”という観念を機軸として、法律条文の適用上において用いられる手法であるという一点においては、確かに同じ性格のものだからである。英語ではどちらもanalogyと言う外ない。しかしまた、比附と類推とはかなり違ったものであって無造作に同視してはならないことは、主として比附の持つ機能の側面からすでに何度も指摘されているところであり、否定することのできない事実である。ではその機能の違いはどこから出て来るのであろうか。両者において論理構造が違うのではないか、すなわち同じ“類似性”という機軸観念の働き方が違うのでないかという、根本問題にまで遡って考えて見ようとするのが本稿の意図である。

 類推の実例としては、刑法(刑法は最近口語体に改正されたが、改正前の明治41年施行の刑法)第125条に「鉄道又ハ其標識ヲ損壊シ又ハ其他ノ方法ヲ以テ汽車又ハ電車ノ往来ノ危険ヲ生セシメタル者ハ二年以上ノ有期懲役ニ処ス」(以下、第129条まで各条に「汽車又ハ電車」という表現が繰り返される。)とあるところの、「汽車又ハ電車」のうちにガソリンカーも含まれるとする解釈が成立していることが挙げられる。「汽車又ハ電車」という文言自体に捕らわれず、立法趣旨に鑑みてこれらと本質的に同視してよいガソリンカーにまで適用を及ぼすのはまさしく類推であり、いわゆる論理解釈しかも拡張解釈の一種としてそれは位置づけられる。よってまた類推解釈とも呼ばれる。

 思うに、刑法が「汽車又ハ電車」と特定したについては、その頃新橋と上野の間を走っていた鉄道馬車などは除くという立法者意思があったのであろう。しかし世が進んで、石油を用いる内燃機関を動力源とする違いがあるだけで、スピードや搭載人員の数において汽車・電車と大差なく、したがって往来を妨害されて事故を起こしたときの災禍の大きさもまた同等と見られるガソリンカーが現れてみると、これを除外するのは理に合わないことになる。よってこの解釈が成立した。それは健全なことであるが、一般に罪刑法定主義を厳守すべき刑法において、類推解釈は極力避けるべきものだとされる。

 このような条文解釈の上での類推は、帝制中国法においても勿論行われていた。一例として、律は闘殴において手足を以て殴撃するのと他物を以て殴撃するのとで罪を異にする(傷を負わせなかった場合、唐律:手足笞四十/他物杖六十。明清律:手足笞二十/他物笞三十)。他物とは棒切れや石ころなど何にせよ攻撃力を増すために臨時に手に取る物品(ただし刃物は別条があって本条の他物からは除かれる)を言い、手袋や足袋などは着衣の一部であって他物ではない。しかしもし先の尖った堅い靴で蹴上げたりしたならば、やはりこれを他物とせざるを得ない。『大清律例増修統纂集成』巻27闘殴条上欄に「箋釈曰、若用靴踢人、止是足殴。若靴尖堅、理仍作他物」とあり、唐律をめぐっても同じ問題が宋代の『申明刑統』の中で扱われていた(拙著『論集』108頁、146頁註36)。これを誰も表立って類推とか解釈とか言わないかも知れないが、よく考えて見れば、「汽車又ハ電車」のうちに馬車は含まれないがガソリンカーは含まれるのと、「他物」のうちに布製の履物は含まれないが尖った堅い靴は含まれるのと、全く同じ論理であることに気がつくであろう。

 帝制中国法の仕組みでは解釈を容れる余地がなかったというような議論が近頃あるやに聞くけれども、飛んでもない話であり、凡そ成文法のあるところ必ず条文の解釈作業がある(解釈必要性の例示として拙著『論集』246-7頁参照)。解釈なくして成文法は働かない。解釈があれば類推解釈があり得ることも自然である。そしてこれは比附ではない。(ただし「比照」という言葉があり、これは比附の意味にも解釈適用の意味にも、どちらにでも用いられ得るので注意を要する。)

 帝制中国法には上述のような類推とは別に比附があった。比附が類推と異なるのは、第一に、比附は条文解釈上の操作ではないことである。解釈をしようにも該当する条文それ自体が存在しないときに比附が発動する。それは解釈の次元を超えた事柄なのである。

 その帰結として、第二に、類推において“類似性”は、汽車・電車とガソリンカー、「他物」と尖った堅い靴など、法の適用の対象となる事物相互間の類似性として観念され機能するに対して、比附において“類似性”は、犯罪構成要件相互間の類似性として観念され機能する。処理すべき目前の案件の犯罪事実を微細な側面まで正確に構成要件化した条文が存在しないときに、この存在しない幻のA条と類似した構成要件を立てて刑罰を規定している別条Bを探出して、これを量刑の基準として――B条の刑罰そのまま若しくはそれに一等加重または軽減して――適正な刑罰を定めるのが、比附という手法である。

 比附と類推では論理構造が違うこと自体は以上で明らかになったが、その比附の論理を若干なりとも立ち入って分析・解明しようとすると、たちまち一つの重大な問題に気がつく。それは、比附は帝制中国法にだけ存在し、外では知られていなかった手法であるという事実である。経験のないところに理論が育つ筈もないのであって、外の世界から何か既成の理論を借りて来て、それで比附を説明しようとしても歯がたたない。だからとてそこには論理など存在せず、犯罪と刑罰の間の均衡を追求する直観的判断だけが主導して、融通無碍に比附は操られ得たのだと、かりそめにも考えるならば、それは最も心ない業となってしまう。比附の論理に迫るには、帝制中国法の実務を担った人々の実践的な営みから学ぶ――それを記録に留めた史料に馴れ親しんで会得する――外はないのである。

 筆者自身史料からの会得が不足であるけれども、ごく初歩的に次のことが言えるのでないかと考える。すなわち、類似性とは本質的な点で同じ性格を共有することの別名に外ならない。類推においては、汽車・電車とガソリンカーなり、「他物」と尖った堅い靴なりの、危険性なり加害力なりが同一と認められて類推が成立する。これに対して、比附においては、幻のA条と現実のB条とが罪質を同じくする――同じ犯罪類型に属する――ことが比附の基礎となる。例えば、子が父の画像を毀ったとて親族から告発された一件の処理を思案している兄を見て、利潑な弟が「道・憎が天尊・仏像を毀つ罪(唐律賊盗第29条)に比附したらよい」と言ったという故事(『折獄亀鑑』巻4議罪<杜鎬>)においては、広く見て瀆聖罪という同一犯罪類型に属することが比附を成り立たしめており、蛇に指を噛みつかれて泣き叫ぶ児童を助けようとして、手にする草刈り刀をもって蛇を切ろうとしたが誤って児童を傷つけて死に致した者を、庸医殺傷人条に照らして過失殺収贖とした一件(中村著167頁)においては、人を助けようとした行為である点で医療事故との同質性が認められたのであり、清律・夜無故入人家条に附する乾隆年間の条例に「凡黒夜偸竊、或白日入人家内偸竊財物、被事主殴打致死、比照夜無故入人家已就拘執而擅殺至死律、杖一百徒三年(下略)」(寺田論文276頁。『光緒会典事例』巻798)においては、過剰防衛という一つの犯罪類型の中で比附が成り立っていると言うことができる。同じ犯罪類型の中でもさまざまな罪情に対応してさまざまな条文が立てられているから、その中で一番近似した条文を選んで比附するが、場合によってはさらにそれを一等加重または軽減するという調整を加えることにもなる。

 これ以上は、もう少し学んだ上でないと何も言えない。それにしても、比附というような手法を生み出していたのは、世界史上において帝制中国法だけであったこと――どうもこれが事実であるらしいが――の持つ意味、その射程は、かなり大きいように思われる。考えて見たい問題である。

 あとがき 筆者はいままで何度か比附に言及したが、それが有罪・無罪の判定よりも、どれ程の刑罰が適正であるかの量定をめぐって働く手法であるという側面を説くに止まって、類推とは論理が違うのだと気づきながら、その違いに明快な説明を与えられずに年を過ごしてしまった。(拙著『清代中国の法と裁判』74頁以下、同『中国法制史論集』352頁、364頁以下)。

 中村茂夫氏は、もっぱら比附をそして比附のすべてを対象とする一篇の論文をものされた(同氏『清代刑法研究』所収「比附の作用」)。その中で「比附と類推」と題する一節を立てて両者の論理の違いが追及される。非常に地道な作業ではあるが、詰まるところ、「〔類推と比べた場合〕……比附は、事案に共通な本質的部分を、いわばより大きな角度で捉えて類似性を求めたものといえるであろう。」(同上177-8頁)という、本質的には程度の違いであるかのような立言で終わっていることが物足りなく感ぜられる。

 最近、寺田浩明「清代刑事裁判における律例の役割・再考」(大島立子編『宋-清代の法と地域社会』東洋文庫2006年、非売品)の中でも比附が扱われている。同論文には物申したい点が少なくないので、かなり精魂込めた批判の私信(前半だけで力尽きて未完成)を送ったのであるが、この私信の文案を練っている過程で、自分なりに多年心に掛けていた問題の解決が閃いた。その着想を展開したのが本稿である。

 齢85にして開眼した新見解を、私信で消費してしまうわけには行かない。さりとて本格的論文に仕立てて正規の学術誌に寄稿しようとしても、体力がもつかどうか不安であり、そもそもその気力が湧かない。よってこの『通信』の紙面を借りることにした。気心の知れた仲間うちでの発言ならば、短刀直入に肝心なことだけを書いて済ますことができるのが魅力なのである。もし価値がないものならば忘れられてそれでよし。もし価値があるものならば口コミやインターネットででも広まるであろう。そうして学界の共有財となれば幸いこれに過ぎるものはない。いずれにせよすべてを読者の評価に委ねたい。

 余白に 前から疑問とし今回再確認したことであるが、中村著167頁に「明らかに律の明文があってそれに依らず……」別条への比附が行われている例があるとするのは、弘法にも筆の誤りというものである。「殴大功以下尊長」条の本文には、過失殺傷の規定がない。規定がないのは凡人の例に依る意味だと解釈することはできるかも知れないが、それを指して「明文があって」と言われたのでは実態とイメージが齟齬してしまう。同じことが172頁13行、177頁9行にも再出するので読者の注意を促しておきたい。  
 

( All rights reserved by the author )

back to INDEX