『東洋法制史研究会通信』第17号(2009年8月18日)

《記事》

姜曄編著『旅順日俄監獄掲秘――近代遠東歴史沉重的一頁――』
(大連出版社、帝国主義侵略大連史叢書、2004年4月)
及び旅順日俄監獄について

高見澤  磨



 上記書は2009年6月17日に書名にもある旅順日俄監獄の売店で購入したものである。6月16日に大連着、17日に旅順見学、18日に大連市内の穀物会社工場を見学し、19日に帰国するという調査旅行を行った。主たる目的は工場見学であった。
 同書前言3頁によれば1902年にロシアによって建設され、日露戦争後日本の管理下に置かれ、1907年に拡張され、1945年まで日本のもとで用いられたものである。従って書名や叢書名からもうかがい知ることができるように、「中国人のみならず日本の侵略戦争に反対し、世界平和をまもろうとした外国人をも収監し、その中には日本人、朝鮮人、トルコ人、ロシア人、エジプト人及びユダヤ人などが含まれ、国際的な監獄であった」(序4頁)という指摘がひとつの基調となっている。また、同監獄は観光地でもあり、愛国主義教育基地ともなっている。しかし、他面では、前言において参考文献として薛梅卿主編『中国監獄史』(群衆出版社、1986年)を引き、158頁以下では98頁にわたって(全体で前言4頁、目録3頁、本文276頁の計283頁であるので、全体の三分の一程度)附録として日本及び関東州の法令類その他の資料部分にあてており、その点ではしっかりした書物といえる。後記によれば、1998年に大連市政治協商会議が『帝国主義侵略大連史叢書』の編集を組織し、編著者は当時同監獄旧跡陳列館副館長であって、資料収集に着手し、1999年に草稿を完成し、その後2002年にこれを改め完成したとある。また井上晴樹(『旅順虐殺事件』筑摩書房の作者)が日本の「国立図書館」(国立国会図書館と思われる)での資料収集につき協力したとある。資料の多くは同監獄所蔵のものと国立国会図書館所蔵のものとからなると思われる。いわば外国の租借下にあった特殊な時代の地方誌編纂の事業であり、その点ではまじめな作業の成果とも言える。

  本書の構成
  前言
  目録
  第一章 旅順日俄監獄産生的時代背景
  第二章 沙俄統治旅大七年、設置旅順監獄
  第三章 日本侵占旅大時期的旅順監獄
  第四章 日本統治時期的旅順監獄
  第五章 旅順監獄的管理制度
  第六章 反日怒火在旅順監獄燃焼
  第七章 国際反法西斯戦士在旅順監獄
  尾声
  附録一~附録二十四
  後記

 第四章、第五章は同監獄の詳細につき資料を示しながら説明されている。第一章から第三章は時代背景や経過などが主な内容となっている。第六章、第七章は悲惨ではあるが、英雄の物語ともなっている。その中には安重根も含まれている(第七章第三節、第四節。彼は1920年3月26日にここで絞首刑に処せられた)。尾声では日本敗戦後の1946年5月頃までのことも紹介されている。
 特殊な歴史を持つ監獄であり、そのために一方では上述の基調を有するものの、同監獄の歴史を描くという点では歴史書としての任務を果たしている。こうした施設の見学は観光地とは言え、心の重いものである。ソウルの西大門刑務所歴史館も同様な施設である。しかしこうしたこともまた近代法史の勉強のうちなので、機会があれば見学を勧めたい。

附記 (旅順のこと、工場のこと、大連のこと)

 旅順の地元の人は203高地や水師営のことはあまり知らないようである。日本人やロシア人相手に観光業に従事している人にしか知られていないのかも知れない。それに比して上記監獄やそのそばにある東鶏冠山要塞跡は建物が残っていることもあるのか地図にもあり、知られている。
 大連において見学したのは万有穀物公司という会社で雑穀類(玄蕎麦や豆類)の精選や製粉を行っている。中国糧油総公司の子会社である河南糧油公司(これらの会社は会社法以前から公司を名乗っていた老舗の国策会社である)の大連分社という位置づけであるが、独立した会社として登記されている。蕎麦の製粉ラインも見せてもらったが、当日作業していたのは緑豆の精選作業であった。緑豆もやしは日本で人気があり、精度の高い精選作業を行うことで発芽率が高まり、日本への輸出商品となる。精選作業は近隣住民と思われる女性労働者による手作業であった。作業及びライン(夾雑物をなくし、精選度を高める)は日本側業者の要望による水準を維持するためのものである。これは契約紛争防止としての最良の策であると認識していた。食品業界全体としては餃子事件直後は売り上げが減少したが、その後回復したとのことである。この事件自体は政治的な展開を見せた事件であり、他の食品業界には迷惑なことであったいうことであろう。健康への関心もあって中国でも雑穀や豆類の需要が高まっている。日本にとっては国産や北米産よりも安価な供給地であるが、今後も安定的な供給地であるかどうかは、中国国内市場よりも相対的に高い値段を日本側がつけ続けることができるか否かにかかっている。
 大連は1987年に行って以来22年ぶり、旅順は初めてであった。大連市内には戦前からの建物もまだ残っているが、再開発で取り壊されたものもある。魯迅路には旧満鉄本社ビル(現在も鉄路局で使っている)や旧満鉄図書館(現資料館)などは残っていた。旧満州日報ビルは今も大連日報のビルであるはずであったが、現在は新社屋建設と同地域再開発事業のため取り壊された跡であった。

(2009年6月29日)

 
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