『東洋法制史研究会通信』第19号(2011年8月)

《記事》

滋賀秀三先生の蔵書の調査にあたって

赤城 美恵子



 2008年の5月から9月にかけて、私は滋賀秀三先生の蔵書の調査のため、鎌倉にある先生のご自宅に何度か足を運んだ。

 そもそもは、その年の春の法制史学会総会で、寺田浩明先生から、滋賀先生の蔵書調査のために鎌倉のご自宅まで通うことのできる東京近辺在住の人間を捜している、調査は恐らくは二三日で終わるだろう、とのお話をうかがったのが切っ掛けである。当時、私は東京都練馬区に住んでおり、また日本学術振興会の特別研究員の任期中にあって、時間の融通が比較的可能な状態であったので、安易にも「ならば、私が」とお引き受けした次第であった。

 そして、5月下旬から作業開始。ところが、実際に始めてみると、なかなか思うように進まない。「著者名」(筆者名、編者名ないし出版社名)・「分類」(書簡、滋賀先生のお仕事、東洋史・東洋法制史の史料、東洋史・東洋法制史の研究書、それ以外の書籍、雑誌、辞書などの大分類の下に、更に細かな小分類を用意した)・「タイトル」・「その他」(雑誌・書籍の巻・号・版・出版年など)・「書棚」(書架およびその何段目なのかをわかるようにした)といった項目を立てて、持参したノートパソコンに入力していくのだが、しかし背表紙だけを見ても十分なデータが得られない。時にはタイトルや筆者名すらわからないこともある。結局は、本を書架から取り出して、ひとつひとつ奥付や内容を確認しながらの作業となった。それが、時間がかかった大きな要因であったと、後に判明する。

 さて、数年使われていなかった書斎の書架から本を出し調査するからには、埃で汚れることはもとより覚悟の上であったのだが、それ以外にもいくつか泣かされたことがあった。

 まずは、データ作成に関連して。自業自得ではあるが、分類を細かくしたために、データを取る労力も増し、さらには分類の判断に迷う場合があった。また、日頃使わない文字・フォントを使用することもあり、一冊のデータの打ち込み作業に非常に時間がかかることもあった。

 次に、作業スペースが限定された点も苦労したことの一つに挙げられよう。滋賀先生の書斎は、窓際に置かれた机を取り囲むように、22本の書架が、人一人通れる程度の通路を確保しつつ、設置されていた。私は、書架から降ろした本を持ち運ぶ労を惜しみ、机の周辺の書架の目録を作成するとき以外は、書架と書架との間の通路で作業した。狭い場所での作業であり、不自由な思いをした。また、パソコンの電源をつなごうにも、コードは書架の周囲を迂回させなければならず、必然的に差し込み口からは遠くなってしまう。差し込み口から遠く離れた場合、基本的にはバッテリーでパソコンを動かしていたのだが、一度バッテリーパックが壊れ、直前に打ち込んでいたデータが消えてしまうという、予想外のハプニングもあった。

 書架から本を降ろす作業そのものも、思いの外に体力仕事であった。棚の半分ほどを降ろし、データを入力し、またもとの位置に戻す。この繰り返しである。先生のご自宅での作業は、一日正味6~7時間であろうか。それでも、夕方6時過ぎに辞去するときには、疲労困憊であった。

 ところが、それだけやってもなかなか終わらない、先が見えない情況が続く。焦りながら、作業スピードを上げているつもりでいても、一日かけて本棚二つほどがようやく終わるという始末。最終的に滋賀先生宅に通ったのは十数日にも及んだ。当初の二三日、という話は何だったのだろうか。いぶかしく思いながら、後に寺田先生にうかがったところ、「カメラでパパッと本棚を撮影してしまって、そのデータをもとに、後は自宅ででも整理できるはず。わからないところがあれば、それだけ後で見に行けばいい」とのこと。拍子抜けする思いがした。他の誰かが調査した方が各方面にご迷惑をかけずに済んだのではないだろうかと、反省しきりである。とりわけ、滋賀先生の奥様には、うかがう度に、お茶や昼食などをご用意くださり、多大なご負担をおかけしてしまったことが非常に悔やまれる。その一方で、ご家庭での滋賀先生のご様子など、興味深いお話を多々お聞きすることができた。おかげさまで、楽しく且つ有意義なひとときを過ごすことができた。

( All rights reserved by the author )

back to INDEX