『東洋法制史研究会通信』第19号(2011年8月)

《記事》

村上貞吉とその周辺──人物情報紹介──

西  英昭



 筆者は以前「中華民国法制研究会について―基礎情報の整理と紹介―」(中国―社会と文化21・2006)を発表し、当時東京帝国大学の教授・助教授陣によって執筆された中華民国法の逐条解釈書について、その史料批判に必要となる背景を調査・公表したことがある。同拙稿執筆において最も調査に難渋したのが、同会の発起人とも言える村上貞吉の調査であった。東京帝国大学の教授陣となればその履歴は比較的に調査しやすいが、市井の法律家として生涯弁護士の地位にあって、しかも外国で活躍したという村上貞吉のような人物は、人名録にもあまり掲載されず、回顧されることも比較的少なく、当時ようやく『大衆人事録 東京編』(帝国秘密探偵社・1940)に履歴が掲載されているのを発見して拙稿を仕上げることができたのを覚えている。

 中国法・中国法制史(特に近代)の研究を進めるにあたって、現地中国で活躍した日本人弁護士は大変気になる存在である(大木文庫(東京大学東洋文化研究所図書館蔵)で知られる大木幹一もその一人である(1))。一方こうした人々は、先に述べたように非常に履歴・業績等が検索しづらい存在でもある。しかし、だからといって彼らの貢献の大きさは過小評価されるべきではない、むしろもっともっと評価されて良い、そのような存在と思えてならないのである。本小稿を草したのもそのような動機からであり、紹介し得た情報は少ないが、各位の参考ともなれば幸いである。今回は拙稿発表後の追跡調査で明らかになった村上貞吉の事績を中心に、こうした上海での日本人弁護士の活動の一端を垣間見、その範囲での情報提供を行うことにしたい。

一: 村上貞吉について

 村上の事績については、岡田朋治編『御大典記念 鳥取県人物誌』(因伯文化協会・1932(第一版)、1938(第二版)(2))がはるかに詳細にこれを伝える。以下引用する。

村上貞吉 (1874(明治7)年8月18日~1940(昭和15)年3月18日(生没年筆者補))

 日本の朝に野に法曹家は決して少なくない。併し氏の如く海外に辯護士業務を開拓し、邦人の海外發展に偉大なる貢献をした人は他に之を見ることを得ない。

 氏は明治七年八月十八日西伯郡春日村に村上喜平氏二男として生れ、長じて鳥取中學第四高等學校を經て東京帝國大學英法科に入り、三十三年卒業、同年高等文官試驗に及第して農商務省に入り礦山監督官に進みたるも、當時東亞の局面は團匪事件の後を受け露國の滿洲朝鮮壓迫と爲り、風雲暗澹たるものあり、大學在學中より東亞同文會に入りて常に此方面に心を傾け居たる氏は、遂に三十六年四月上海東亞同文書院教授に就任して法學を講じた。同時に自身も將來發展の基礎たるべき支那語の學習に没頭してこゝに支那に對する深き友愛と同情に恵まれた。「支那は尨然たる大陸、古今曾つて統一なく、支那に平和を求め統一を求むるは世界に平和と統一を求むるに異ならずして、此間に支那と支那人あるもの此所を解せずして、徒らに日本流の國家觀念國民觀念のカテゴリーを以て支那に臨まんとするが故に對支施設一として宜しきを制せざるのである」。之氏の道破せる對支觀である。在支三十星霜支那國情を表裏味了せる氏には、近代日本の對支政策及訪支客の異口同音口にせる日支親善は憐れ一個のユーモアに過ぎない。

 宜なる哉中央大學は三年三月以來講師として曾つて一年有半歐米より調査したる陪審制度と共に此重大なる支那問題を講せしめ又四年一月外務省は一ヶ年支那司法制度の調査を遺囑した。

 東洋の癌世界の謎たる支那の實體を明確にする事は今や世界の一要務たり。特に日本に於て然る時、薀蓄深き徹底支那研究家たる氏の存在は國家の幸福である。

 村上「貞吉」の名前の読みについては、鳥取県立図書館ホームページ(http://www.library.pref.tottori.jp/index.html)にある「郷土人物文献データベース」が「むらかみさだよし」と読んでいるが、その根拠についてはよく分からない。東京帝国大学の明治33年卒の同期には松本烝治(独法科)がいる。後に中華民国法制研究会を立ち上げるに当って松本烝治も非常に大きな役割を果たすが、大学の同期という縁がその背後にあるのは興味深い。同期には他に中島玉吉(英法科)、五来欣造(仏法科)、中田薫(政治学科)、柳田国男(同)などがいる。

 東京帝国大学卒業後の経歴は上記『御大典記念 鳥取県人物誌』が伝える通りである。中華民国法制研究会についての言及がないのは人物誌の発行のタイミングによるものであろう。同研究会の詳細については別途冒頭紹介した拙稿をご参照頂きたい。同会の出版物の発行所が多く中央大学となっているのは、村上が講師を務めた縁によるものかもしれない。なお中央大学へは村上本人も多くの蔵書を寄贈している(3)

 その後村上は満州国の法律顧問である「審核」を務めるなどしているが(4)、中華民国法制研究会での作業、また本職であるところの上海での弁護士業も継続して行っている。先の人物誌では肩書きが上海日本人弁護士会会長、帝国弁護士会理事となっていることから、上海では日本人弁護士代表としての役割も果たしていたのであろう。没年は小野清一郎・團藤重光『中華民國刑事訴訟法 下』(中華民國法制研究會・1940)「自序」において「去る三月十八日溘然として逝去せられた」と伝えられることから判明する。生涯を実務の立場から中国法研究に捧げた彼の志は、彼が上海に構えた法律事務所の成員を通じて引き継がれることとなる。

 以下に村上の著作一覧を掲げておく。

村上貞吉著作一覧
 「上海會審衙門に付き」(日本辯護士協會録事174・1913)
 『英國ニ於ケル陪審制度』(1925-27)
 「英国に於ける陪審制度」(正義2-4~9、11、3-2~5、4-2~4・1926-1928)(同名で法律新聞2497~2499、2783-2784・1926、1928にも掲載)
 「西班牙に於て陪審裁判制度の施行を停止したる事情」(正義4-8・1928)
 「英国陪審裁判制度と日本の陪審法」(法学新報38-7、12、39-2・1928-29)
 「上海共同租界臨時法院の司法機能」(正義5-4・1929)
 「中華民國民法制定の沿革」(正義6-2・1930)
 『中華民國民法總則編譯註』(1930初夏序)
 『中華民國民法總則編譯註』(支那國治外法權撤廢問題調査資料第10輯)(外務省条約局第二課・1930)
 『中華民國民法債權編譯註』(1930初夏序)
 『中華民國民法債權編通則譯註』(支那國治外法權撤廢問題調査資料第14輯)(外務省条約局第二課・1930)
 『中華民國民法物權編譯註』(1930晩秋序)
 『中華民國會社法譯註』(1931.4序)
 『中華民國手形法譯註』(1931.10序)
 『支那歴代ノ刑制沿革ト現行刑法』(1932.6序)
 『中華民國現行法令』(記載年号なし(1932?))
 『支那ニ於ケル排日貨運動ノ法的考察』(1932)
 『最近の支那事情と國民黨の領導(彙報別冊第52號)』(全國經濟調査機關聯合會・1932)
 「中華民國の新立法事業」(正義9-2・1933)
 『中華民國法令年鑑(民國23年度分)』(大谷政勝と共著、中華民國法制研究會・1934.2印刷)
 『支那ニ於ケル立憲工作ト憲法草案初稿』(1934.4序)
 「孔子は甦る」(同仁9-6・1935)
 『中華民國法令年鑑(民國24年度分)』(大谷政勝と共著、中華民國法制研究會・1935.11)
 『中華民國法令年鑑(民國26年度分)』(大谷政勝と共著、中華民國法制研究會・1937.4)
 『中華民國ニ於ケル保險關係法規』(1938.2)

二: 村上法律事務所とその成員たち

 村上貞吉が上海においてどのような活動を行っていたのか、このことについては村上とともに上海の弁護士業務に従事していた彼の弟子が詳細に書き残している。岡本乙一「書院の講師から上海工部局の参事会員へ」(滬友36・1975)がそれである。

 まずは筆者の岡本乙一(おかもと おといち)について紹介しておこう。彼は1891(明治24)年3月14日生まれ、岡山県後月郡井原町(現・岡山県井原市)出身。1910(明治43)年第一高等学校へ入学、次いで1913(大正2)年東京帝国大学法科大学英法科に入学している。1917年に卒業後直ちに英国のInns of courtのmiddle templeに留学、1919年にこれを卒業し、1920年にはbarristerの資格を取得して帰国、1921年1月より上海にて村上法律事務所に在籍して弁護士を開業、1928(昭和3)年から2年間は東亜同文書院講師として国際法を講じている。1930(昭和5)年度からは上海工部局の参事会員として活躍している(5)

 岡本の留学については終始村上からの強い勧奨と経済的援助があったことが彼自身の述懐として記されている。恩師の待つ上海の事務所へ就職したのは岡本にとっては自然な、むしろ当然な成り行きだったのかもしれない。

 岡本は他にも事務所の成員として安井源吾、高田一、藤田忠徳の名を挙げている。安井源吾については陳祖恩「上海にいた日本人 Vol.117「初代居留民団長 安井源吾」」(http://biz.shwalker.com/sleaze/detail/12/62/、2010)が相当詳細にこれを紹介している。冒頭の履歴部分を引用しよう。

安井源吾は明治二十七年(1894年)一月一日、岡山県上道群(ママ)雄神町に生まれた。岡山県立津山中学と第六高等学校に学び、大正七年(1918年)七月、京都帝国大学法学部を卒業する。同年八月に古河商事株式会社に入社し、東京本社と上海支店に勤務。大正十年三月に司法官の資格を取得し、東京・横浜・長崎・福島の地方裁判所に判事として勤務した後、大正十四年五月に判事職を辞め、上海で弁護士として再出発する。大正十五年一月、中華民国司法院が発布する弁護士資格証書を取得。岡山(ママ)乙一・高田一らと共に四川路299号地で村上法律事務所の共同経営に乗り出した(6)

 さらに同僚として名前の挙がっている高田一は1895(明治28)年11月生まれ、栃木県荒川町の出身。1920(大正9)年に東京帝国大学法科大学を卒業、直ちに弁護士となり、岩田法律事務所に勤務、1921年に上海に渡り村上法律事務所に所属している(7)

 日頃の弁護士業務が如何なるものであったかについては興味のあるところである(8)。岡本によれば「在滬の日本商社の大部分及び多数くの(ママ)中国紳商の法律顧問として法律事務に従事した」(前掲岡本稿・76頁)とのことである。南京路と四川路の交差点付近に事務所があったということであるから、繁華な地域といってよいであろう。今後経済史研究との連携のもとにこうした弁護士事務所の活動の実態を明らかにすることが大変興味深い議論を提供するのではないかと筆者には思われる。

 村上が亡くなった1940年から程なくして周知の通り日本は終戦を迎える。現地の顔役ともいうべき立場にあったからか、その後岡本は上海在留日本人の送還問題に関与することとなる(9)。岡本はこれら送還事業に最後まで携わり、1946年7月、帰国の途についている。恩師村上の死後勃発した太平洋戦争について「(村上)先生が生きておられたら何といって嘆かれるだろうか」との思いを抱いていた岡本は、帰国時に何を思ったのであろうか。

(了)



 (1) 高見澤磨「東京大学東洋文化研究所所蔵法制史関連資料紹介―大木文庫、仁井田文庫を中心に―」(法史学研究会会報7・2002)参照。

 (2) 村上の当時の住所に変更がある以外、解説文は第一版・第二版とも同じ文面である。

 (3) 「図書館の旧文庫について」(中央大学図書館だより9・1985)によれば、村上貞吉は昭和5年9月、昭和13年と二度にわたり中央大学図書館へ蔵書を寄贈している。さらに同記事によれば、同図書館において過去に末松謙澄文庫(2651冊)、佐藤正之文庫(55冊)、菊池武夫文庫(55冊)、岡野敬次郎文庫(5295冊)、穂積陳重文庫(894冊)、村上貞吉文庫(5138冊)、戸田氏共文庫(114冊)、花井卓蔵文庫(261冊)、春木一郎文庫(1776冊)、桑田熊蔵文庫(5484冊)土方寧文庫(1752冊)、小寺謙吉文庫(1518冊)、泉二新熊文庫(3150冊)につき「昭和39年再編成(旧目録、分類の切換え)の際、一般図書と混配した。当時の書架目録は保存してある」(13頁)とのことである。「一般図書と混配した」とは驚愕すべき事実である。なお村上貞吉文庫については、『旧村上文庫蔵書目録』(請求記号:M029.9/C66(貴重書庫保管))として英文図書のみの目録が残されており、そこでは267点を確認できる。また中央大学図書館OPACからは村上文庫として125件を確認できる(中央大学図書館OPACから[詳細検索]画面右側の最後の項目のプルダウンメニューで[※請求記号]を[※コレクション]に変えて「村上文庫」で検索)。なお『中央図書館だより』の伝える5138冊という数字の根拠については現在不明とのことである。以上は全て中央大学図書館レファレンスルームからの御教示による。明記して感謝したい。

 (4) 山室信一「「満州国」の法と政治――序説」(人文學報68・1991)において「…法制一般に村上貞吉が各々審核に委嘱された」(148頁注13)と触れられている。

 (5) JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.B05015352700、東亜同文書院関係雑件/人事関係 第一巻 8.岡本乙一、松村行義 昭和四年五月(外務省外交史料館)参照。また岡本については『支那在留法人興信録』(東方拓殖協会・1926)上海・漢口の部17頁、中西利八編『満洲紳士録(第三版)』(満蒙資料協会・1940)1754頁にも記述がある。

 (6) 陳氏の解説する安井の履歴は前掲『滿洲紳士録(第三版)』所収の安井の記事(1528頁)とも符合する。

 (7) 前掲『満洲紳士録(第三版)』、1745頁参照。なお藤田忠徳については詳細不明。

 (8) 上海における弁護士について張敏(黒山多加志訳)「弁護士」(菊池敏夫・日本上海史研究会編『上海 職業さまざま』(勉誠出版・2002)所収)があるが、記述が簡略に過ぎ、また危うい記述も多い。外国人弁護士も含めた上海での弁護士に関する本格的な研究として陳同『近代社会変遷中的上海律師』(上海辞書出版社・2008)が参照に値する。なお加藤雄三「租界社会と取引」(加藤雄三・大西秀之・佐々木史郎編『東アジア内海世界の交流史』(人文書院・2008)を始めとして加藤氏による精力的な研究が進められており、今後の成果が期待される。

 (9) 日僑自治会副会長という立場からいわゆる引揚問題に関与している。当初会長であった土田豊が中国側に拘束されたため、岡本がかなりの部分の事務を行っていたようである。土田自身も国会で「それで副会長に岡本乙一さんという、古い弁護士の方でございますが、上海に長くおられた方が副会長になられたのであります。その岡本さんに私の代理で万般の事務を進めて頂いたと思います」と証言している。(第7回国会(参議院)在外同胞引揚問題に関する特別委員会、第11号、1950年2月13日(月曜日)、国会会議録検索システムHP参照。(http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/007/1196/00702131196011a.html

 *なお本稿は平成22・23年度科学研究費補助金(若手研究(B)・課題番号22730007)の成果の一部である。


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