『東洋法制史研究会通信』第21号(2012年8月)

《記事》

荻生北溪と清朝の則例集

高遠  拓児



 江戸時代、享保期(1716-1736)を中心に活躍した儒者に荻生北溪(1670-1754)という人物がいる。『明律国字解』で知られる荻生徂徠(1666-1728)の弟であり、北溪もまた律学に造詣の深い学識人であった。荻生北溪の経歴や業績については大庭脩氏の「荻生北溪集」研究篇(1)に詳しく、またその唐律・明律研究については高塩博氏の論考(2)、北溪と大清会典との接点については大庭脩氏の論考(3)などが、すでに公刊されている。

 北溪は、こうした律や会典のほか、清・康煕年間(1662-1722)の成立にかかる則例集も実見し、そこから清朝の国制を理解しようと試みていた。『集政備考則例類編則例全書考』『明朝清朝異同』などは、その則例研究の成果として著されたものであるが、これらは8代将軍徳川吉宗(1684-1751。1716-45将軍在職)の上覧に供するための、一種の報告書として認められたものであったという(4)。それは清代の則例を扱った外国人の論著としては、おそらく最初期のものであり、いわば清代則例研究の最初の一頁を飾る書物ではないかと思われる。この2著のうち『明朝清朝異同』については、すでに川勝守氏と楠木賢道氏による懇切な解説があるので(5)、本稿では『集政備考則例類編則例全書考』と北溪が手にした清朝の則例集について、紹介を試みることとしたい。

 『集政備考則例類編則例全書考』(抄本、1冊)は、将軍家御文庫(後の紅葉山文庫)に収められていた『集政備考』『則例類編』『則例全書』の3書を、享保7年(1722)に北溪が借り受け、まとめたものとされる(6)

 北溪が参照した『集政備考』は、詩人・戯曲作家としても著名な清初の幕友嵇永仁の編輯による書で、編者による凡例は康煕9年(1670)に記されている。収録される例は、順治5年(1648)から康煕9年(1670)までの約1600件で、清初の六部行政にかかわる史料の宝庫となっている。現在、国立公文書館の内閣文庫に18冊本が収蔵されている。

 『則例類編』は、陸海輯『本朝則例類編』のことで、内閣文庫には目録上下巻・本編12巻の14冊本が収められている(7)。康煕43年(1704)の序が付される同書は、康煕年間成立の則例集のなかでも評価の高い本であり、その後『本朝続増則例類編』という続編も編まれている(8)。北溪はこの続編についても実見しており、『集政備考則例類編則例全書考』のなかでコメントを付すが、「此の一冊、六部を分て新例を載たり。類編の通りの目録分け無きゆへに右の内に出さず。新例と云も、前々より有来る例を増減したるばかりにて、新に出来たる例はなし(9)」と、彼にとっては少々期待外れであったようである。同時代人として清朝の情報を求めていた北溪は、できる限り新しい例を把握したかったのであろう。なお、こちらの続編も、国立公文書館の内閣文庫に収蔵されている(康熙52年刊。目録上下巻・本編18巻。20冊)。

 最後の『則例全書』は、かつて紅葉山文庫に収蔵されていた『六部則例全書』(16冊)のことを指すと思われる。本書は明治6年(1871)の皇居の火災によって焼失し、現在には伝わらない(10)。尊経閣文庫に同名の本(20冊)があり、こちらに従って本書の概要を示すと、本書は川陝総督鄂海による康煕55年(1716)の序と、吏部候補主事朱植仁による「纂修則例記言」という凡例に相当する文章を有している。内容は吏部則例・戸部則例・礼部則例・中枢政考(兵部の則例集)・刑部見行・工部則例および吏部処分・戸部処分・礼部処分・兵部処分・刑部処分・工部処分と、六部の構成に沿った編目が立てられるが、一般的な例と官員処分に関わる例を区別している点が大きな特徴である。封面には「本衙蔵板」「按季続増」と記されており、雍正期以降、各省で盛んに刊行されるようになった条例類(11)との関連が想起される。尊経閣本はその按季続増による増訂本のようで、康煕59年(1720)12月の例まで含んでいる(12)。なお、尊経閣本の項目と、北溪の『集政備考則例類編則例全書考』に掲出される「則例全書」の目録は、ほぼ合致するものの、若干の出入りも確認される(13)。さらに、尊経閣本の最終例が康煕59年(1720)末、北溪が紅葉山本を手にした時期が享保7年=康煕61年(1722)であることも考えると、紅葉山本は尊経閣本より早い時期の版本だったのではないかと思われる。

 さて、『集政備考則例類編則例全書考』は、これら『集政備考』以下の諸書の項目部分を抽出し、これに解説を加えた内容となっている。例えば、本書の冒頭「集政備考目録 吏部」の「限期」では、次のように記される。

   一、限期。文武官任所に往くに、路の遠近にて幾月にて往着と云を限期と云。又父母老病を送て故郷に返る往返の路程幾月と云を限期と云。又父母の喪には原籍に返り、起復するまでの喪中路程幾月と云を限期と云。部院の文移とて一切の役所よりの廻状を役所役所にて吟味して廻すなり。一役所に留置こと二十日に過るを違限と云の類なり。

 ここでは、かなり具体的な「限期」の用例が示されるが、これは北溪が参照した『集政備考』吏例巻7「限期」の内容(同項は、さらに文封到任定限・赴部投文路程定限・請假送親回籍・假満起用違限・事件限期の細目に分けられている)に即したものである。また、『集政備考』と『本朝則例類編』、『六部則例全書』の間で項目が重複しているものについては、「一、選法。則例全書に出」(集政備考目録 吏部)のように記し、「則例全書目録 吏部」の部分で、

   一、選法。是は役人を選む仕方なり。異国は代々郡県なるゆへ、役人の数夥しくあり。其の上へ役人では色々あり。まづ人の種姓に満洲・漢人とて二色あり。韃人の種類を満洲と云、中国人の種類を漢人と云。二色ともに学問にて出るを正途と云、その内に進士及第より出ると、監生より出るとあり。監生の内に、貢生より出ると、廕生より出ると、捐納より出るとあり。監生と云は、太学校に詰居るもの也。貢生と云は、国々より学問よきものを吟味して、太学校へ送る年々定りの数ありてなるなり。廕生と云は、官人の子供なり。親の勤によりて吟味なしに入学をゆるさるるなり。是は父の位階に幾段落ちと云位階をもちて居るなり。捐納と云は、金を出して入学するなり。扨、右の様々の監生の官人になるには、学校の年数ありて、見習に諸の役所にゆき書役をつとめ諸事の用をたす。其の労によりて誠の官人になる。是は明朝には辦事の監生と云、清朝には貼写の官学生と云。扨、右の外に吏出身とて、吏の年労積りて官人になるもあり。右の通り役人の数夥しき上に人の品色々ありて、又諸の役人皆三年替りなるゆへ、勤方の吟味のしやう殊の外に繁雑なり。是により其選やうに格を立置く。是を選法と云。

のように総述する体裁を取っている。この項目では、北溪が清代の則例集の内容を超えて、明の制度にも言及しつつ注解を記している様を見て取ることができる。ただし、上記のような詳しい注解は、最初の吏部の項目に集中し、戸部以下の項目への注解はやや簡略なものとなる。これは、本書を受け取る吉宗の関心が、とくに清朝の官制に向けられていたことによるものと思われる(14)

 なお、『集政備考則例類編則例全書考』が取り上げる項目は、「集政備考目録 吏部」8件、「則例類編目録 吏部」47件、「則例全書目録 吏部」15件など、全体で292件に上っている(ただし前述の通り、各書で相互に重複している項目も少なくない)。本書は、六部の職掌に即した清朝の官制用語詞典のような内容となっており、後代の『六部成語注解』の簡易版のごとき印象を受ける(15)。北溪から本書を送られた吉宗は、その後『康煕会典』の和訳なども手にすることになるが、その前段階で本書を通じて六部行政の大枠を把握していたことは、大部な政書である会典を読み進める上でも有益であっただろう。

 さて、前記の通り、荻生北溪が『集政備考』等の諸書を紅葉山文庫から借り受けたのは、享保7年(1722)のこととされる。この年、清朝では康煕帝(1654-1722。1661-1722在位)が崩御し、雍正帝(1678-1735。1722-1735在位)が登極するという、一つの時代の節目を迎えていた。しかし、60年以上に及んだ康煕帝の治世は清朝の国威をいよいよ盛んにし、それは国外からも明らかなものと見てとられたことであろう。そうした清朝という国家の仕組み、特徴を分析し、把握しておくことは、当時の日本の幕府においても重大な関心が払われたはずである。『集政備考則例類編則例全書考』や『明朝清朝異同』は、そのような状況下で生まれた書物であるが、ここでは律例や会典といった王朝によって権威付けされた書物ではなく、民間の書肆や地方官主導で出版された則例集が、主たる資料として扱われていた点が興味深い。これらの書は、地方官や幕友など、行政の実務に携わる人々の参考に供するべく編まれたものであり、いわば王朝の末端で制度を支えている人々の営みと結びついた書物であった。いわゆる鎖国という制約を抱えた状況下で、わざわざこうした書物まで将来し、さらにはそれらを通じて清朝の姿に迫ろうとする試みがなされたことには一驚を禁じ得ない。

 そして、こうした実用的な書物には、古くなれば忘却・淘汰され、なかなか後世に伝わりづらい性格もある。中国国内を中心とした約40の機関について精査された楊一凡氏の研究によると、『本朝則例類編』の所蔵が確認されるのは中国国内の3機関、『六部則例全書』は同じく5機関、『本朝続増則例類編』にいたっては1機関のみとのことである(これらの中には、明らかに残巻と思われるものも含まれる。また、『集政備考』の書名は上がらない)(16)。このことからも、内閣文庫の『本朝則例類編』と『本朝続増則例類編』および『集政備考』が、いかに希有なコレクションとなっているかがわかる。内閣文庫には、おそらく上記の則例集などと同時期に将来されたものなのであろう、紅葉山や昌平黌に由来する明代後半~清代前半の坊刻の政書類が多数収められ、今日の中国法制史の研究に大きく貢献している。筆者は最近、康煕期の則例集に少しく関心を抱き、内閣文庫蔵本のいくつかを実際に手にする機会を得た。その際に、こうした本を日本にもたらし、読みこなし、そして今日まで受け継いでこられた人々の労を思い、その一端なりとも紹介できないだろうかとの思いで筆を執ったのがこの小文である。この貴重な書物の数々が、今後とも受け継がれ、その豊かな知識を我々に長く伝えてくれることを願ってやまない。


(1)大庭脩編著『享保時代の日中関係資料』三・荻生北溪集(関a西大学東西学術研究所資料集刊9-4、関西大学東西学術研究所、1995)。
(2)高塩博「荻生北溪と「唐律疏義訂正上書」」(『国学院雑誌』86巻4号、1985)、同「江戸時代享保期の明律研究とその影響」(『日中文化交流史叢書』第2巻・法律制度、大修館書店、1997)。このほか、唐律疏議や明律のテキスト考証の際にも、しばしば北溪の名は上がる(例えば、八重津洋平「官板唐律疏議について」(『法と政治』14巻2号、1963)、同「日本伝存唐律疏議鈔本の研究」一(『法と政治』28巻2号、1977)、清水裕子「物観本明律の底本問題に関する一試論」(『東洋文化』85、2005)など)。
(3)大庭脩「徳川吉宗と大清会典」(『法制史研究』21、1972)。
(4)『集政備考則例類編則例全書考』と『明朝清朝異同』については、大庭脩「『名家叢書』解題」(『国立公文書館内閣文庫蔵名家叢書』下、関西大学東西学術研究所、1982)544-545頁、『享保時代の日中関係資料』三・17-18頁に概要が紹介される。また、この2書は現在、国立公文書館の蔵する『名家叢書』に収められ、その影印が『国立公文書館内閣文庫蔵名家叢書』下、および『享保時代の日中関係資料』三にそれぞれ収録される。
(5)川勝守「韃靼国順治大王から大清康煕大帝へ」(同氏『日本近世と東アジア世界』吉川弘文館、2000)245-254頁、楠木賢道「江戸時代知識人が理解した清朝」(岡田英弘編『清朝とは何か』別冊環16、藤原書店、2009)243-248頁。
(6)大庭脩「『名家叢書』解題」544-545頁、『享保時代の日中関係資料』三・17-18頁参照。
(7)日本国内に伝存する『本朝則例類編』には、内閣文庫本のほか、静嘉堂文庫の18巻本、東京大学東洋文化研究所大木文庫の残巻(2種)がある。
(8)『本朝則例類編』とその続編については、谷井陽子「清代則例省例考」(『東方学報 京都』第67冊、1995)206-207頁を参照。
(9)原文の仮名は片仮名だが、本稿では便宜上、平仮名に置き換え、適宜、句読点を付した(以下、史料の引用の際にはこれに従う)。
(10)福井保「明治六年秘閣焼失書目」(同氏『内閣文庫書誌の研究』青裳堂書店、1980)に『六部則例全書』の名が上がる。
(11)各省刊行の条例については、谷井陽子「清代則例省例考」185-195頁に詳しい。
(12)『六部則例全書』に複数の版本があったことは、楊一凡「清代則例纂修要略」(同氏主編『中国古代法律形式研究』社会科学文献出版社、2011)530頁からも知られる。
(13)尊経閣本の礼部則例の項目「齋祀」「裔彛」が、『集政備考則例類編則例全書考』では「祀典」「四譯」とされる。また『集政備考則例類編則例全書考』は、尊経閣本の吏部則例の「詔誥」の項を欠く。
(14)徳川吉宗が、清朝の官制に関心を寄せていたことについては、大庭脩「徳川吉宗と大清会典」75頁を参照。
(15)なお、大庭脩氏は本書を「一種の法律用語辞典」と評されている(「『名家叢書』解題」544頁)。
(16)楊一凡「清代則例纂修要略」529-530頁参照。

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