『東洋法制史研究会通信』第23号(2013年3月)

《記事》

"The Punishments of China"簡介

鈴木 秀光



 小文は、19世紀初頭にロンドンで出版された"The Punishments of China: illustrated by twenty-two engravings: with explanations in English and French"(以下、「本書」と称する)の内容について、簡単な紹介を行うものである(1)。本書は、その副題にあるように、前言・目次のほか、22枚の銅版画のイラストとそれに対する説明文からなっており、また前言以下すべての文章が英文および仏文で書かれている。イラストはカラーでかつ写実的であり、例えば後述のように刑具に貼られている紙に記された文字も判読可能なほどである。説明文の方はいずれも長いものではなく、短いもので数行、長くても1枚に収まる長さである。説明文は基本的にそれぞれのイラストの解説であるが、長めの文章の場合はさらに制度的な説明がなされていることもある(2)

 本書の英文目次は次の通り。
  1. A Culprit before a Magistrate.
  2. A Culprit conveyed to Prison.
  3. A Culprit conducted to Trial.
  4. An Offender undergoing the Bastinade.
  5. Twisting a Man's Ears.
  6. Punishment of the Swing.
  7. Punishing a Boatman.
  8. Punishing an Interpreter.
  9. The Rack.
  10. Torturing the Fingers.
  11. Burning a Man's Eyes with Lime.
  12. A Malefactor chained to an Iron Bar.
  13. Punishment of the Wooden Collar.
  14. A Man fastened to a Block of Wood.
  15. A Malefactor in a Cage.
  16. Punishment of the Wooden Tube.
  17. Hamstringing a Malefactor.
  18. Close Confinement.
  19. Conducting an Offender into Banishment.
  20. A Malefactor conducted to Execution.
  21. The capital Punishment of the Cord.
  22. The Manner of Beheading.

目次の各項目名からも明らかなように、本書に収録されているイラストのすべてが刑罰そのものを描いているのではなく、全体としては裁判から刑罰までの各場面を描いているというべきものである。以下、各イラストを4つに分類してそれぞれにつき簡単な解説を行う(各イラストに言及する際は目次各項目の番号を用いる)。

〔1〕1.~3.:審理関係
 1.は長官とその面前に跪く犯罪者、筆記する胥吏や鎖などを手に持つ差役が描かれており、まさに法廷審理の場面を描いたものである。
 2.と3.はともに犯罪者を護送する場面を描いている。前者は、犯罪者の首に鎖をつけてそれを引っ張っているもので、犯罪者に一定程度の抵抗が見られる一方その拘束の度合いが高い。後者は、銅鑼を叩く人物が先導し、また犯罪者の後ろから犯罪者を棒で追いたてている。犯罪者の両耳からは赤い三角の旗が立てられて、犯罪者の存在が目立つようになっている一方で、犯罪者の抵抗および拘束の程度はさほど高くない。この両者について、それぞれの項目名も踏まえて考えれば、2.は逮捕された犯罪者を衙門まで連行する場面、3.は(恐らくは衙門内の獄より)これから法廷審理が開かれる大堂まで引き出される場面を描いているのではなかろうか。

〔2〕4.~11.:拷問関係
 4.はうつぶせに寝かされた犯罪者の臀部ないし脚部を棒で叩くところを描いており、刑罰としての笞・杖の執行、あるいは拷問を含め、公務遂行上の必要な強制手段としての殴打と考えられる。
 5.は耳をひねるところを、6.は犯罪者を吊るして揺らすところを描いている。6.の説明文によると、6.は5.とともに不正を行った商人に用いられたとある。なお6.の項目名で'Punishment'という語が用いられているが、説明文に「供述したことを書きとるために、筆やインク、紙が用意される」とあることからすれば、これには拷問としての要素が存在すると考えるべきものであろう。
 7.はヘラのようなもので顔の左右を殴打するところを描いており、項目名や説明文によればボートの漕ぎ手に対して行われたとする。8.は跪かせた犯罪者の膝の後ろ側に棒を挟ませて、棒の左右を踏むことで犯罪者の脚に痛みを与えるというもので、項目名や説明文では通訳に対して行われたとする。7.、8.の項目名ではともに'Punishing'という語が用いられているが、8.の説明文には「故意の誤訳を暴く」とあることからすれば、少なくとも8.については拷問の要素を見てとることができる。
 9.は項目名の通り拷問を描くものであるが、それは木片とひもを使って足首を締め上げる方法である。10.も同じく拷問であるが、こちらは手の指を締め上げる方法である。10.について、説明文には不義を働いた女性に対する刑罰(punishment)としても用いられるとあるが、ここで描かれている犯罪者は耳にイアリングが確認できることからすれば恐らくは女性であろう。
 11.は綿布にしみこませた石灰を目にあてがうことを描いているが、説明文にもそれ以上のことが書かれていないため、詳細は不明である。
 以上の4.~11.に関連して、刑律「故禁故勘平人」条、嘉慶15(1810)年条例には次のようにある(3)

凡問刑各衙門一切刑具、除例載夾棍・桚指・枷号・竹板、遵照題定尺寸式様、官為印烙頒発外、其擰耳・跪錬・圧膝・掌責等刑、准其照常行用。如有私自創設刑具、致有一二三号不等、及私造小夾棍・木棒棰・連根帯鬚竹板、或擅用木架撐執・懸弔・敲踝・針刺手指、或数十斤大鎖並聯枷、或用荊条互撃其背、及例禁所不及賅載、一切任意私設者、均属非刑。仍即厳参、照違制律、杖一百。

 本書のイラストをこの条例で言及される様々な「刑」(あるいは「刑具」)に比定すると、4.が「竹板」、5.が「擰耳」、6.が「懸弔」、8.が「圧膝」、9.が「夾棍」、10.が「桚指」となり、ヘラのようなもので顔の左右を殴打する7.は「掌責」の特殊な形態(手ではなく道具で叩く)になると考えられる。この条例で言及される「刑」とは、成文法で規定される枷号および笞・杖で用いる竹板を除いては、基本的には「刑訊」、すなわち犯罪事実を解明する目的で犯罪者に自白を促すために身体的苦痛を与える拷問であって、解明された犯罪事実を前提として犯罪者に科す制裁としての刑罰ではない。したがって、11.が条例でいうところの「例禁所不及賅載、一切任意私設者」であったとすれば、ここに分類されるイラストは様々な拷問の方法を描いていると言えるであろう。
 ただ「笞・杖」として科される「竹板」が刑罰であるとともに拷問としても選択される場合がありえたことからすれば、「竹板」以外の方法もまた時に現場の実務においては刑罰としての要素を持つこともあり得たと考えられる。したがって本書で時にそれらを「刑罰」と表現することもまた、本書が拷問と刑罰の区分に無理解であったというよりも、むしろ実際の運用において両者が厳然と区別されてはいなかったことの表れと言えるのではなかろうか。

〔3〕12.~19.:自由刑関係
 12.は別稿で紹介した鎖帯鉄桿が描かれている(4)
 13.は枷号を描いているが(5)、枷号表面の上および右、左に貼られている紙に書かれている文字として、順に「兩廣部堂示」「疊悪土豪混名挿刘虎枷號示衆」「土豪混名挿刘虎枷號三月責放」と読みとることができる。したがってこの枷号は両広総督の命令によって科されたものであり、両広総督が広州に駐在していることからすれば、このイラストは広州での枷号を描いていると考えられる。なおここで描かれている枷号は、枷号の下に枷号を支える棒つきの椅子があるため、枷号の重みで身体的苦痛を与えるという効果が得られない状態になっている。説明文によると、こうした形態の枷号が科されたのではなく、犯罪者が身体的苦痛を軽減するためにこうした手段を用いたとある。こうした手段を官憲が公式に認めていたとは考えられないため、それを受刑者が用い得たことは当時の刑罰の実施状況が相当程度弛緩していたことを示している。
 14.は首から下げられた鎖の先に木塊が付いている状態が描かれている。木塊は、描かれている人物との比較で言えば一辺が0.5m程度の立方体となるため、ある程度の重さになると考えられる。別稿で紹介した鎖帯石礅(6)の石塊が木塊になったものであろうか。
 15.は檻の中に入れられている犯罪者が描かれているが、首につけられた鎖が足首まで伸びているほか、檻の角柱にも伸びた鎖が結びつけられている。18.はベッドに犯罪者が寝かせられ、手枷が付けられるほか、首と足首に鎖がつけられてそれぞれベッドの柱に結びつけられている。18.の説明文によると、18.は15.で示した檻の一部(section)になるとあるため、両者はいずれも拘禁する方法であって、格子の有無という点が異なっていたと考えられる。
 16.は首に付けられた鎖が竹筒を通して地面から突き出た繫船柱のようなものに結びつけられた状態を描いている。竹筒は曲がらないであろうから、竹筒の長さを半径とする円状の動きしかできないのであろう。
 17.はアキレス腱の切断を描いている。説明文には「この刑罰は近頃廃止された」とある。管見の限り、広東省では雍正元(1723)年に両広総督が「割断両隻懶筋」を行ったことが史料上確認できるが(7)、他省まで目を広げれば淡新檔案において同治6(1867)年の段階で「断双脚筋鎖碷」を行っていることが確認できるため(8)、全国レベルでは廃止されたとまで言えないであろう。なお足の筋を切断することについて、上述の両広総督が「使成残疾、不能為非」と言及していることからすれば、直接的な身体的苦痛を与えることよりも再犯の防止が目的であったと考えられる。
 19.は流謫される犯罪者を描いているが、犯罪者が着る赤い服の背中部分に「発遣犯人一名捕」という文字が確認できる。文章的にこれで全文とは考えにくいが、「発遣」という文字がある以上、このイラストは発遣犯を描いているのであろう(9)。当時、犯罪者が着させられる服にはこういった情報が記されていたのであろうか。
 以上の12.~19.のうち、15.と18.は監獄に関わるイラストであるため、基本的にその対象としては未決囚が想定される。しかし乾隆末年頃より緩決犯の執行方法の一つとして「永遠監禁」が行われるようになったため(10)、これらは自由刑として見ることも可能である。16.もまた身体の拘束であるが、これもまた15.や18.の派生形として、未決囚の拘禁や自由刑たる監禁の執行方法の一形態と考えてよいのではなかろうか。それら以外は、広義において犯罪者の自由な活動を制限する自由刑として行われたものと考えられる。しかし13.の枷号と19.の発遣を除いては、本書が出版された段階ではいずれも成文法上に規定の無い方法であるため(11)、それらは現場の実務において事実的に選択された方法であろう。

〔4〕20.~22.:死刑関係
 20.は刑場に連行される犯罪者を描いている。後ろ手に縛られて猿ぐつわをはめられた犯罪者は、長い棒を背負わされており、その棒の上部に紙が貼られ文字が書かれている。その文字は「奉旨處決盗犯一名陳朝庚梟首示衆」と読みとれることからすれば、この犯罪者は強盗犯で斬梟に処せられるようである。
 21.は絞を描いている。ここでの絞は、十字架に縛りつけられた犯罪者の後方より一人の刑吏が犯罪者の首に回したロープを下に引っ張ることで窒息させて死に至らしめる方法となっている。ここでは20.で言及した棒は描かれていない。
 22.は斬を描いている。跪かされた犯罪者の後方で、刑吏が刀を振り上げて犯罪者の首を切り落とそうとする場面である。ここでは20.で挙げた棒が犯罪者の横に倒されたように描かれているが、そこに貼られた紙からは「奉旨監斬逆首一名何徳廣梟首示衆」と読みとれるため、ここでの斬は20.とは別の場面と考えられる。

 以上、22枚のイラストを4つに分類してそれぞれにつき簡単な解説を加えた。小文を終えるにあたって本書が出版された背景を想像してみると、本書の出版が、清朝にマカートニー使節が派遣されてからさほど経っていない時期であることが挙げられよう。周知のようにマカートニーは1793年に乾隆帝に謁見したが、その副使を務めたストートンは1797年に"An authentic account of an embassy from the King of Great Britain to the Emperor of China"を著わした。これは旅行記であるとともに無数の小エッセイの集積であり(12)、本書においても4.の註などで言及されている。こうした書物によって中国全般への関心が寄せられる中、そもそもマカートニー使節の派遣を直接に促した要因がカントンにおける外国人の犯罪に対する刑事裁判権の問題であったことも相まって(13)、当時の中国における裁判や刑罰にも関心が向けられたのではなかろうか。このように考えたとき、表題に'punishment'という語を用いながらも狭く刑罰を紹介するのではなく、裁判から刑罰に至る各場面を全体としてはほぼ順を追う形で紹介するという本書の構成も整合的に理解することができる。

(1)本書には少なくとも三つの版が存在する。一つ目は1801年版であり、国内では京都大学法学部図書室などで所蔵が確認できるほか、"Internet Archive"(http://archive.org/)などオンライン上でも全体の閲覧が可能である(「Googleブックス」〔http://books.google.co.jp/〕では二種類の1801年版を閲覧できるが、1.のイラストの置かれている位置が一方は目次の後ろで他方は中表紙の前という違いがある)。二つ目は1804年版である。著者が所有するのがこの版であるが(ただし著者が所有するものは、使われている紙に'TURKHY MILLS J W HATMAN 1819'という透かしが入っているものがあるため、実際には1819年以降のものであろう)、1.のイラストが中表紙の前に置かれている。三つ目は1808年に出版されたもので、国内では明治大学博物館などに所蔵されている。このほか、東洋文庫に所蔵されているものは、オンライン目録の図書情報によれば、英文の中表紙の部分では1804年の出版であるが、仏文では1801年となっているため、上記三版とは別の版であろうか。なお"Amazon"(http://www.amazon.co.jp/)等で二種類のペーパーバック版を購入することが可能であるが、これらは'Public Domain Reprints'であり、中身はともに1801年版のモノクロ印刷であって、元になっている版は両者ともに「Googleブックス」で確認できるものと同一と思われる。
 上記の三版では、描かれているイラストおよび説明文の双方において、内容上の差異はほぼ認められない。レイアウト上の多少の差異(上述の1.のイラストの位置のほか、フォントや文章の一行の文字数などが版により若干異なっている)を除けば、明確に異なる部分は中表紙にある出版情報の箇所である。出版地のLondonのあと、1801年版では'Printed for William Miller, Old Bond-Street, by W. Bulmer and Co. Cleveland-Row, St. James's. 1801'、1804年版では'Printed for William Miller, Old- Bond-Street; by W. Bulmer and Co. Cleveland-Row, St. James's. 1804'となっているが、1808年版では'Printed for William Miller, Albemarle Street, by S. Gosnll, Little Queen Street. 1808'となっている。
 本書の著者について、三版ともに中表紙あるいはその他の箇所からその情報を見出すことができないが、オンライン上で1801年版の所蔵が確認できる国内の3大学の図書情報では、いずれも"LCmark"("LCMARC"〔米国議会図書館機械可読目録〕のことか)からの情報として、「匿名で出版されたもの。HalkettとLaing(両名ともに"A dictionary of the anonymous and pseudonymous English literature", 1882-1888の著者)がGeorge Henry Masonを著者として提示している」とあることより、著者をGeorge Henry Mason("The costume of China", 1800の著者)としている。
 本書のイラストについては、三版ともにイラストの下部に小さな文字で'Engraved by Dadley, for W. Miller, Old Bond St. London, Jany., 1, 1801'などと書かれていることが確認できる。
(2)内容的に、適切と考えられるものもあれば(例えば、1.の「覆審」に関わる説明)、必ずしも適切とは言い難いものもある(例えば、1.の長官の右側に立っている人物を「訴追人」ないし「通報者」とする説明。公的訴追が行われていない当時にあって、もし私的訴追の人物であれば犯罪者と同様、長官の面前で跪いているはずである。キセルを所持して立っていることからすれば、長官の長随ではなかろうか)。
(3)『大清律例按語』巻88、刑律断獄「故禁故勘平人」条。
(4)拙稿「鎖帯鉄桿・鎖帯石礅と清代後期刑事裁判」(『法学』75巻5号、2012年)。
(5)このイラストは、明治大学博物館のホームページ(http://www.meiji.ac.jp/museum/)の「刑事部門」の箇所で紹介されている。
(6)前掲、拙稿「鎖帯鉄桿・鎖帯石礅と清代後期刑事裁判」。
(7)「両広総督楊琳等奏報発落盗犯名数日期摺」(『雍正朝漢文栴批奏摺彙編』[江蘇古籍出版社、1986年]1冊519、雍正元年7月9日)。
(8)淡新檔案33307-12。
(9)兵律「承差転雇寄人」条、条例には、「起解人犯、毎名選差的役二名、管押兵丁二名護送」とあるが(『読例存擬』按語では「此例似専指解配而言」と指摘する)、このイラストで護送役は一名しか描かれていない。
(10)例えば刑律「父祖被殴」条、条例が定める「永遠監禁」は乾隆60(1795)年定例に由る(『大清律例按語』巻84、刑律闘殴「父祖被殴」条)。
(11)鎖帯鉄桿のみ嘉慶期後半以降、成文法に組み込まれることになった(前掲、拙稿「鎖帯鉄桿・鎖帯石礅と清代後期刑事裁判」)。
(12)坂野正高『近代中國外交史研究』(岩波書店、1970年)260頁。
(13)坂野正高『近代中国政治外交史』(東京大学出版会、1973年)140頁。

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