『東洋法制史研究会通信』第24号(2013年8月)

《書評》

石岡浩・川村康・七野敏光・中村正人『史料からみる中国法史』

松田 恵美子



 本書を手にした時の最初の感想は、これは有難い本が出版されたというものであった。本書の叙述形式が評者の授業での伝統中国法の説明時に採る、律の歴史、刑事関連の特徴、民事関連(大部分が家族)の特徴、裁判の特徴の形とほぼ対応するため、ようやく学生の理解を助ける平易且つ内容豊富な参考書を紹介できることになったと考えたためである。
 そしてこれだけの内容をここまでまとめるには、おそらく採り上げる史料一つにしても何度も議論を重ねたことであろうと想像するゆえ、その点にも敬意を表したい。

 さて本書の内容については、中国法史の入門書という性格上、その形式的構成を大まかに掲げれば理解いただけるであろう。
 まず第0講は本書の課題について述べ、中国王朝略図も附されている。本論中第1部・第2部が総論的部分、第3部・第4部が各論的部分と位置付けられており、また第2部以降の対象時期は唐以降となるとしている。
 第1部は「法と刑罰」であり、第1講から第4講までに、律令法体系の形成(周から隋へ)、律令法体系の変容(唐から清へ)、五刑の刑罰体系の形成(周から隋へ)、五刑の刑罰体系の変容(唐から清へ)が順次述べられる。
 第2部は「法と裁判」であり、第5講から第10講までに、裁判の構造、裁判の進行過程、拷問、裁判担当官の紛争への対処、誤判、法と道徳について述べられる。
 第3部は「刑事法」であり、第11講から第16講までに、犯罪と刑罰、高齢者・年少者・障碍者、自首、正当防衛、共同犯罪、殺人の類型について述べられる。
 第4部は「家族法」であり、第17講から第20講までに、婚姻、離婚・再婚、家産の継承、養子について述べられる。
 この他15のコラムを設け、理解を助けている。また最後に「より深く学ぶための書籍目録」が附されている。

 では全体的に見て、評者にとって印象に残る本書の特徴を挙げる。

 一つは、伝統中国の法制や法上の概念を理解しやすくするために、現代の法制度や法概念に言及し、また法条文も適宜掲げる形をとっていることである。  これは伝統中国の法制度と現代日本の法制度の根本にある理念の違いを意識するという観点に基づくものであり、一つの必要な手法と思われる。伝統中国の法制度を平易に語ろうとすると、学生たちが一般的な「中国法」というものの印象に基づき、中国の法制度は歴史的に見ても人権概念などないというような短絡的理解をなす恐れがあることを考えるなら、やはりこの観点は重要である。
 ただ法制史の分野で現代の法制度に言及することには慎重さを要することは確かである。しかし伝統中国法の特徴を知るということは、法制度というものを考えるために、多様な視点を提供するのではないだろうか。現代の法制度の根本理念を考えるに資する多様な視点を与えること、これは基礎法学が担う役割の一つとも考えられ、あくまでこのような意味で、法制史においても現代法は常に意識されるであろう。この点から本書の採った手法は肯定されると思われる。

 二つ目は、伝統中国社会を考えるうえで不可欠となる儒教思想にも適宜目配りしている点である。現代では儒教思想は反近代の代名詞とされることが一般的だが、本来は人の生き方に関わる重要な意義をもつ思想であり、それが伝統中国の法制度の背後にあることに気づくことは、学生にとっても有益なはずである。

 三つ目は、コラムをうまく利用している点である。法制度の説明に、現代では一般に知られていない概念がいくつも関わってくる場合に、コラムが理解を助けてくれる。コラムについては、一冊の本において各章の執筆担当者以外に、全体を通じて一人のコラム担当者が置かれる形式の他に、各章執筆担当者と関わりなく、コラムのみの担当者が何人も置かれる形もみられる。本書では各章の執筆担当者がコラムも分担執筆しているので、単にコラム担当者が多数加わるより、形式面でも内容面でもまとまりが感じられる。

 四つ目は、わかりやすさに徹している点である。そしてこの特徴が一方で大きな問題を孕むことになるのではないか。おそらく執筆者一同も悩んだ点であろうと思う。つまりわかりやすさの歯止めをどこに置くのかという問題である。
 本書では平易な叙述に加え、漢字用語はすべて仮名が振られ、伝統中国の法条文もすべて現代語に訳されている。しかし振り仮名はここまで必要なのであろうか。出版社の要望があるのかもしれないが、他に読みようのないものは振り仮名なしでよいのではないか。

 関連して一つ疑問がある。漢字用語の日本での慣用読みについてである。例えば「書経」や「奴婢」は「ショキョウ」「ヌヒ」と呼び慣わしてきたと思うのだが、本書では「ショケイ」「ドヒ」と仮名を振る。如何なる理由からこのように変わったのか、不勉強ゆえ評者は知らなかった。確かに「奏讞書」の読み方が論じられていた記憶はある。「西太后」を「セイタイコウ」と読むのが正しいと言われても納得できないのと同じかもしれないが、理由はどうであれ一定の歴史のある慣用的な読み方はそのままでよいのではなかろうか。

 もう一度「わかりやすさ」の問題に戻る。本書は次の段階に進むための入門書である。入門書は現在大変豊富であり、以前のような専門書と長時間格闘せねばならない時代に比べ、学ぶについては非常に効率がよい。これは歓迎すべきことである一方、かつて長時間かけて身につけた何かを失うことかもしれないとも思う。
 変革期に生きる我々にとって、この種の悩みは常に付きまとう。重要なのはこの悩みを抱えて動くことであり、今や我々には入門書の存在を踏まえての何らかの工夫が必要になると言えるのかもしれない。

 以上学生向けの好著が登場したことを歓迎しつつ、思い浮かんだことを記した次第である。

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