既婚女性の呼称表現について考えてみた。きっかけは、同一女性に対して二様の呼称表現が用いられる『元典章』刑部の一案件を気にとめたことである。
・・・・・・・・・・・・・・・気にとめた案件
至元13(1276)年1月、姑が男婦を折檻して傷つけ、その結果死亡させる。この事件の顛末を伝える[男婦を打ち殺す:打死男婦] (刑部4)の冒頭は次のとおりである。
至元十三年六月初八日、中書兵刑部。來申。軍戸賀林の告。嫁ぎ先の姑張二嫂が娘丑児を理もあらぬことで折檻し、死なせてしまいました。責め得たる張阿趙の状招。先だって嫁の実家の賀林が火の不始末をしでかし、もともとうちから嫁に与えた物を焼いてしまい、その弁償もしてくれません。ふとどきにも、そのことに恨みをさし挟み、至元十三年正月十四日に、嫁賀丑児が焼き餅を盗んだので、坑上で嫁の後ろ身、首根っこと上腕を押さえつけ、衣服のすそをまくり上げて杖で臀を数十回打ちつけ、火中に倒して肩から肘にかけて火傷を負わせておいて、嫁自らが負った火傷の傷であるかのように嘘称いたしました。
以下折檻の実態を綴る記述が続く。いうまでもなく、ここに見える「張二嫂」と「張阿趙」とが同一女性、つまり男婦を折檻死させた姑を指す二様の呼称表現である。姑の折檻により娘丑児を亡くした賀林は告状のなかで姑を「張二嫂」と呼び、その告状を受けた官司は彼女を「張阿趙」として取り調べ、供述書をしたためたのである。
・・・・・・・・・・・・・・・どちらの家か
張家に嫁いだ趙家(姓)の女性を意味する「張阿趙」なる呼称表元典章』刑部中しばしば目にするところである。ここでは被告人たる既婚女性めに用いられるが、告人たる既婚女性を指すためにもまた用いられる。例えば、[夫の屍を焚き改嫁した一件についての断例:焚夫屍嫁断例](刑部3。至元15=1278年1月、病死した杜慶の妻阿呉が趙百三らをして夫の遺骨を川に捨てさせ、自らは陳一嫂の仲介でさっさと彭千一に嫁いでしまう)には、
至元十五年、行中書省(湖広行省)が拠けた潭州路(の申)に備したる録事司の人戸秦阿陳の告。表兄の杜慶が病死し、その妻阿呉が表兄の遺骨を川に捨てたうえで彭千一に改嫁してしまいました。取り終えたる犯人杜阿呉の招伏。今年の正月十二日に夫杜慶が病死いたしました。そこでふとどきにも、十八日に至って夫の屍を焚き、その遺骨を夫の表弟唐興を使いとして趙百三に手渡し川に捨てさせて、二十八日に至って陳一嫂の仲介で鈔両・銀鐶等の物を彭千一から受け取り、彼のもとへ改嫁した罪でございます。
と、告人と被告人の既婚女性がそれぞれともに「秦阿陳」「杜阿呉」と記されている。既婚女性に対する呼称表現としては、もっとも公的なものであると考えてよいだろう。
・・・・・・・・・・・・・・・張家の二兄の嫁を意味する「張二嫂」なる呼称表現は、類似する他の呼称表現と混同しないように注意しなければならない。例えば、[妻を殺死する:殺死妻](刑部4。皇慶2=1313年3月、夫婦生活がうまくゆかず、しかも妻と妻の義父=妻の母の後夫とが私通しているのではないかと疑った李孫が妻蔡仏姑を切り殺す)に引かれる前例(皇慶元=1312年、霍牛児が罵られたことに怒り妻阿常を切り殺す)中に、
池州路が備したる東流県の申。霍牛児の状招。飢饉のため食うに困り、老少を引き連れてさすらい、皇慶元年六月十二日に東流県に到りました……妻常三姐は道中ひどく罵り、また、あんたは人に撲たれ罵られて、ほんと男らしくないわね。わたしは毎日他人様のために飯炊きをし、馬鹿にされているのよともいい、行李・竹籮をかついで、もと来た道を北へと帰ってゆきました。
と「常三姐」なる呼称表現が見え、同様のものとして[違法な取調べを行い、釈免以前にいまだ供述を取り終えていない場合:枉勘革前未取到招伏](刑部16。延祐2=1315年、郭一哥を被害者とする盗賊事件の取調べにあたって、番禺県の簿尉史彰信らが違法な取調べにより馮法大らを犯人に仕立て上げたが、後に行われた博羅県の取調べで、その違法な取調べが発覚する)の一節にも、
番禺県の簿尉史彰信・典史陳珪・司吏潘頤らは、郭一哥が衣服鈔両を強奪されたことにつき詳しく取調べを行わず、被害者郭一哥の新婦陳二姐のいうことをうのみにして、無実の馮法大ら八名に対して違法な取調べを行い、虚偽の供述をさせ盗賊に仕立てあげ、贓物を召しあげて官にもたらした。
と「陳二姐」なる呼称表現が見える。「常三姐」「陳二姐」は、それぞれ、常家の三女、陳家の二女を意味し、この呼称表現に見える姓は女性の実家の姓である。「張二嫂」に見えるような、女性の嫁ぎ先の家の姓ではない。
また例えば、[傍人が姦夫を殴り殺す:傍人殴死奸夫](刑部4。至元15=1278年9月1日、姦夫周千六を傍人呉千三が棍棒で殴り、その結果死亡させる)には、
浙西道宣慰司の呈。平江路が取調べを終えた呉千三の状招。至元十五年九月初一日に、周千六が蘇小二の男婦呉二娘を脅しつけ通姦しようとしたので、それをとりなしたところ、周千六に瓦鉢で頭を殴られました。そこでふとどきにも、周千六の左耳から瞼にかけてを紅油の棍棒で一度打ちつけ、その傷により初二日に周千六は死亡いたしました。
と「呉二娘」なる呼称表現が見える。「呉二娘」もまた呉家の二女を意味し、ここに見える姓もまた女性の実家の姓である。
・・・・・・・・・・・・・・・もう1人の張二嫂
「常三姐」や「呉二娘」など、いわば「姓+○姐」「姓+○娘」型の呼称表現については過去(約15年前)に調べたことがある。例えば、『中国農村慣行調査』(第3巻128頁、家族相互の呼称)には、
あなたは丑子の太太を何と呼ぶか=大姐と呼ぶ/白子の太太は=四姐と呼ぶ/何故大姐、四姐と呼ぶか=実家にいた時、一番目の娘だったから大姐といい、四番目の娘だったから四姐という
という聞き取り調査の記録があり、また、大暦17年某月霍昕悦文書(大暦17=782年、霍昕悦が護国寺僧虔英から粟17碩を借りる。その借用書に本人および妻子の署名がある。仁井田陞『唐宋法律文書の研究』229頁以下)に、
便粟人行官霍昕悦年卅七 /同便人妻馬三娘年卅五 /同取人女霍大娘年十五
とあることを、そのときすでに見つけている。この二つの記事が示すところと同じことが、[妻を殺死する]以下、ここに引いた史料に示されているにすぎない。
一方、「張二嫂」つまり「姓+○嫂」型の呼称表現については、そのときに調べをつけた記憶がまったくない。おそらく「嫂」字の語感からして、ここに見える姓は女性の嫁ぎ先の家の姓と決め込んでいたのだろう。結論としては誤っていないのだろうが、いかにも手を抜いた感がある。せめてここで『元典章』刑部ぐらいは総点検し、いま少し詳しく、この呼称表現につき調べをつけておこう。たまさか解説を求められたときには、したり顔で解説史料の一つも開示したいものである。本文のきっかけとなった[男婦を打ち殺す](「張二嫂」がまた「張阿趙」として表現される)は、もちろん、その史料たり得るが、史料はやはり複数ほしい。
・・・・・・・・・・・・・・・「姓+○嫂」型の呼称表現が『元典章』刑部中に見えることはそれほど多くない。[男婦を打ち殺す]以外4~5件に見えるだけである。そのうちの1件は、すでに紹介した[夫の屍を焚き改家した一件についての断例]中、違法な改嫁の仲介者として登場する「陳一嫂」である。また、[主人が誤って佃婦を傷つけ死亡させる:主誤傷佃婦致死](刑部4。至元7=1270年、尹忙児が妹尹三姐と相い争い、誤って佃婦李二嫂を器仗で傷つけ、その結果死亡させる)に見える「李二嫂」や、[職官が通姦して逃亡する:職官犯奸在逃](刑部7。至元20=1283年、三品官徐紹祖が周徳進の妻徐小春と閻二嫂の仲介で通姦し、その通姦現場で捉えられるも、捉獲人に鈔両を払って見逃してもらい、ひとり逃亡する)に見える「閻二嫂」など、いずれも、その姓が実家の姓か嫁ぎ先の家の姓かを文章中判別することができず、解説史料としては使用できない。ただ、[放火の賊人:放火賊人](刑部12。皇慶2=1312年、張林の男婦と通姦することができなかった盧千児がそのことを逆恨みし張林のかやぶき小屋に火をつける)には、
益都路が備したる楽安県の申。放火の賊人盧千児を護送いたしました。責め得たる本賊、つまり盧千児の状招。被害者張林の阻隔(同居していないの意か)男婦張二嫂と通姦することができなかったために、そのことに恨みをさし挟み張林のかやぶき小屋に火をつけて焼き、捉えられてここに到りました。
と見える。これまた偶然にも「張二嫂」だが、[男婦を打ち殺す]の「張二嫂」とともに、「姓+○嫂」型の呼称表現に見える姓が、女性の嫁ぎ先の家の姓であることを示す史料となろう。思えば、ほぼ既知の事柄につき慣れ親しんだ『元典章』刑部中に、ことさら解説史料を求めただけであるが、一応これで Q.E.D. 証明終わりとする。
・・・・・・・・・・・・・・・「張二嫂」以下本文で述べた呼称表現につき、普通それらがあえて訳出されることはない。あたかも、一個人を特定する固有名詞のように用いられる。そのためか、これらの呼称表現につき深く考えいるということはないように思われる。だが例えば、何故賀林は娘の嫁ぎ先の姑を「張二嫂」と呼んだのか。また、何故郭一哥の新婦は「陳二姐」と呼ばれたのか。さらにまた、蘇小二の男婦を「呉二娘」と呼ぶ呉千三と彼女との関係や如何、などなど。あらためて思いをはせれば、そこに、既婚女性が置かれる集団内での微妙な立ち位置がほの見える。然りといえば然りだが、面白い。また一つ史料が読みたくなるわけである。
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