『東洋法制史研究会通信』第25号(2014年4月)

《記事》

経験と課題、展望と指針

寺田 浩明



 編集部より求められたことは「大学の専任教員として東洋法制史教育に携わってきた経験と課題」及び「その経験から得られた今後の東洋法制史教育への展望、後進への指針」の二点である。そこで一時はその問いそのままに我が「経験と課題」を一般的な仕方で語ってみようとも試みたのだが、よく考えてみれば、現役教員である以上は現在の講義内容こそが私の過去のすべての教育経験の反映であり、また直面した課題に対する現時点における私なりの答えである。そして実際、私の場合、教育についてそれを離れて語るべきものは(困ったことに)殆ど何も無い。そこで以下では、本務校である京都大学法学部における2014年度「東洋法史」講義(4単位)のシラバスを示し、それに二三の追加説明を付すことで責めを塞ぐことにしたい。


【授業の概要・目的】

 東洋には西洋と異なる法文化があるという議論を時に目にするが、東洋では訴訟を嫌い和を尊ぶという議論にせよ、権利主張を嫌い義務を重んずるという議論にせよ、法治を軽んじ人治を重んずるという議論にせよ、その多くは単に、東洋には(近代西洋的な意味での)法が無いと言っているだけに過ぎず、東洋に固有の「法」の形を明らかにするには至っていないように思える。本講では、伝統中国の社会のあり方と裁判のあり方とを素材にして、西洋近代的な法ではない「法」とは実際にはどの様なものなのかを考え、またそれを通じて我々が日頃馴染んでいる法の世界史的な特性を考えてみたい。
 ・到達目標1.伝統中国における権利のあり方、裁判のあり方、それらの基礎にある法のあり方について正確な実証的知識を得る。
 ・到達目標2.上記の事実を一種の鏡として、我々における権利・裁判・法のあり方の特徴を自覚する。

【授業計画と内容】

はじめに  帝制中国の国制の概要
Ⅰ.人と家
 一、家(同居共財の暮らし)/二、人(分形同気の血縁観)
 三、宗(同気者の理念的集合)
Ⅱ.生業と財産
 一、管業(有産者の暮らし)/二、服役(無産者の暮らし①)
 三、租佃(無産者の暮らし②)/四、所有権秩序の特質
Ⅲ.社会関係
 一、生活空間/二、社会的結合①(家同士の持ち寄り関係)
 三、社会的結合②(家同士の一体的結集)
Ⅳ.秩序・紛争・訴訟
 一、社会秩序の考え方/二、紛争とその解決/三、裁判制度の概要
Ⅴ.聴訟(裁判の特徴と役割)
 一、聴訟の展開過程①(標準的展開)/二、聴訟の展開過程②(付随的な諸展開)
 三、聴訟の内部構造(情理)/四、「ルール型の法」と「非ルール型の法」
 五、行動基準の社会的存在形態(「慣行」の構造)
Ⅵ.断罪(実定法の特徴と役割)
 一、命盗重案の処理①(州県が行う作業)/二、命盗重案の処理②(覆審の過程)
 三、判決と律例の位置関係/四、成案の扱い(法源の全体像)
 五、裁判制度における「基礎付け」と「事例参照」
Ⅶ.伝統西洋法・伝統東洋法・近代法
 一、伝統法と近代法を繋ぐもの・区切るもの  契約を手掛かりに
 二、近代法の特徴/三、伝統中国法と近代法(位置関係の諸様相)
おわりに  日本法論への示唆


 講義内容の特徴をまとめれば以下の三点になるだろうか。 ア)法制史と言っても伝統時期内部での歴史的変化については殆ど触れない。主に清代の事象を取り上げるが、目標は広く帝制中国の法秩序が持つ世界史的特色を比較史の立場から明らかにすることに置かれる。或いはむしろ、秩序や法というものに対する現代日本人の感覚を相対化する、相対化した上で世界史の中に再度定位する為の「法の世界史地図」作りこそが正面に掲げられる講義の主題であり、そのバランスの良い見取り図作りの為の格好の手段、必須の媒介として中国法制史は位置づけられる。 イ)帝制時代を取り上げるにせよ、皇帝権力を所与視した天下り式の説明は極力避ける。むしろ民がそこで営む特定の暮らしのあり方こそが、そこにおける法と権力の特定のあり方を生み出すという考え方の下、権力的事象をなるべく下から「構成的に」論ずるように努める。そうした話が可能になる程度まで細かく社会実態を論ずる。 ウ)中国法伝統と西洋法伝統を、類似の課題に対する異なった対処方法として並列的に描き出すと同時に、近代になると、西洋法伝統に出自する近代法が東洋にも到来し表面的な法制度を独占する(しかしその代わりになかなか深層までは及ばない)という現象をもちゃんと説明できるようにする。

 当然小さな編別構成の変化はあるが、前半で社会のあり方を述べ後半で裁判のあり方を論ずるという基本構成は、千葉大学法経学部法学科における初講義(1987年)以来、驚くほどに変わりがない。むしろ、目次を細かく見れば分かるとおり、「清代司法制度研究における『法』の位置付けについて」論文(1990年)以降の殆どの論文テーマの方が講義案の一部と対応している。講義案で秩序の全体像を示そうとする過程でぶつかった問題を解くべく論文を書き、その成果を講義案に反映するという繰り返しをしてきた。

 また、これまでこのタイプの4単位講義を十数箇所で行ったが、法学部系と文学部系、学部と大学院の区別なく、何処でも殆ど同じような話をしている。基本にあるものは、自分が興味を持つことには他人もきっと興味があるであろうという素朴で傍迷惑な信念なのだが、講義の目的から言っても、殆ど無前提な所から話を始める必要があるので、相手の持つディスシプリンに従って内容を変える必要を感じなかったとも言える。そんな訳で、良くも悪くも四半世紀余り一本槍なことを続けてきた。

 そこで最後に「展望と指針」の話になるのだが、自分がやってきたことが上のようなものである以上は、その答えもやはり、各人それぞれが好きなことを好きな比重で教えるのが一番だ、ということになる。というのも、まず第一に、日本の大学は入学者の水準が余りに多様であり、特に法学部については、どんな卒業生を出すかというミッションまでもが多様である。当然、教育体系の中で中国法制史講義が占める位置、期待されている役割も大学ごと学部ごとに様々な筈であり、標準形などは無い。第二に、となれば、何を講義するかは、それぞれの人がそれぞれの場所で、学生・同僚を相手に個別に工夫を重ねるほかはない訳だが、それについても基礎法分野となると外在的な要求は案外に曖昧である。その無見識こそが問題なのだろうが、他人の要求を待つよりはむしろ自分の仕事を通じて周囲に働きかける必要の方が高いのだとも言える。となれば結局は各人が「自分の問い」を問い続けるより他に道はない。各人の健闘を期待したい。

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