『東洋法制史研究会通信』第26号(2014年8月)

《記事》

慶元勅訳読考

川村  康



 宋代の法制史料で現代日本語訳が刊行されているものは、『袁氏世範』、『宋史』刑法志、そして『名公諸判清明集』などの判語というところである(1)。ほとんどが『唐律疏議』の『宋刑統』は措き、法典を翻訳するとすれば『天聖令』と『慶元条法事類』であろう。唐令の訳註もないので天聖令・慶元令には手を出しにくいが、文語訳とはいえ『唐律疏議』の訳註を前提とすれば、慶元勅の現代語訳には比較的容易に着手できそうである。

 たとえば慶元賊盗勅には「諸窃盗得財杖六十。百文杖七十。四百文加一等。二貫徒一年。二貫加一等。過徒三年。三貫加一等。二十貫配本州(2)」という条文がある。訓読すれば「諸そ窃盗、財を得たれば杖六十。四百文は杖七十。四百文ごとに一等を加う。二貫は徒一年。二貫ごとに一等を加う。徒三年を過ぎれば、三貫ごとに一等を加う。二十貫は本州に配す」、口語訳すれば「窃盗をして財物を取得した者は杖六十に処する。四百文を取得した者は杖七十に処する。四百文を加えるごとに一等を加えた刑に処する。二貫を取得した者は徒一年に処する。二貫を加えるごとに一等を加えた刑に処する。刑が徒三年を過ぎたときは、三貫を加えるごとに一等を加えた刑に処する。二十貫を取得した者には本州への配軍を附加する」となる。五刑と編配との関係や、名例律56条の加減例が慶元勅でも通用することなどを念頭に置けば、賊盗律35条の全面改正条文として口語訳をつくることに無理はなさそうに思われる。

 さて、慶元雑勅には「諸負債違契不償。罪止杖一百(3)」という規定がある。訓読すると「諸そ債を負い、契に違いて償わざれば、罪は杖一百に止む」、口語訳すれば「無利息消費貸借の債務者が、約定した期限を徒過して弁済しない場合、刑の上限は杖一百とする」となる。奇妙な条文である。刑の上限だけを定める条項は、現代日本には存在しても(4)、前近代中国にはありえないはずである。節略文だとしても、このような節略の意義がわからない。この謎を解くのは、律に対する勅の優越を示す史料とされてきた慶元名例勅「諸勅令無例者従律[謂如見血為傷。強者加二等。加者不加入死之類]。律無例。及例不同者。従勅令(5)」である。冒頭の「勅令に例なき者は律に従う」により、勅文にない部分は雑律10条「諸負債違契不償。一疋以上。違二十日笞二十。二十日加一等。罪止杖六十。三十疋加二等。百疋又加三等。各令備償」で補うことになる。律文による補入を【 】で示して訳しなおせば「無利息消費貸借の債務者が、約定した期限を徒過して弁済しない場合、【未弁済の債務の価額が一疋以上であり、弁済期を徒過した日数が二十日であれば、笞二十に処する。二十日を加えるごとに一等を加えた刑に処する。刑の上限は杖六十とする。未弁済の債務の価額が三十疋であれば、二等を加えた刑に処する。百疋であればさらに三等を加えた刑に処する。】刑の上限は杖一百とする。【それぞれ債務を弁済させる】」となる。これによって、雑勅の趣旨が、負債違契不償の刑の上限を雑律10条の徒一年から一等を減じた杖一百に引き下げるものであることも理解できる。

 そこで賊盗勅を読みなおすと、賊盗律35条「諸窃盗不得財。笞五十。一尺杖六十。一疋加一等。五疋徒一年。五疋加一等。五十疋加役流」にある不得財の処罰規定がない。しかしこれは不処罰ではなく、律による処断を意味する。賊盗勅は賊盗律35条の全面改正規定ではなかったのである。律文を補入して賊盗勅を訳しなおすと「窃盗をして【財物を取得しなかった者は笞五十に処する。】財物を取得した者は杖六十に処する。四百文を取得した者は杖七十に処する。四百文を加えるごとに一等を加えた刑に処する。二貫を取得した者は徒一年に処する。二貫を加えるごとに一等を加えた刑に処する。刑が徒三年を過ぎたときは、三貫を加えるごとに一等を加えた刑に処する。二十貫を取得した者には本州への配軍を附加する」となる。律では得財一尺未満すなわち窃盗得財の下限の刑を挙軽明重によって導き出すしかないが、勅は不得財と得財の間に明確な一線を引き、窃盗得財の下限として得財四百文未満の刑を明示したことが理解できる。

 訳業の目的が訳文だけで史料の内容を理解させることにあるならば、律文による補入を抜きにして慶元勅は和訳できない。長文の補入を要するもの、補入の箇所に悩むもの、そして補入の度合いについて検討を要する勅文もある。もちろん慶元勅のすべてが律文の部分改正あるいは部分補充の規定であるわけではない。全面改正規定やまったくの新設規定という、補入の必要がないものの方が多い。とはいえ、慶元勅の現代日本語訳に取り組む意欲のある方には、ここに述べたことを心得ておくことが望まれる。

 (1)石岡浩・川村康・七野敏光・中村正人『史料からみる中国法史』法律文化社、2012年、225-226頁参照。
 (2)『慶元条法事類』巻9、職制門6、饋送、旁照法ほか10箇所。数字は小字で示す。
 (3)『慶元条法事類』巻80、雑門、出挙債負ほか1箇所。
 (4)たとえば刑法150条「行使の目的で、偽造又は変造の貨幣、紙幣又は銀行券を取得した者は、三年以下の懲役に処する」。有期懲役の刑期の下限が刑法12条1項後段「有期懲役は、一月以上二十年以下とする」によって示されているからである。
 (5)『慶元条法事類』巻73、刑獄門3、検断。

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