『東洋法制史研究会通信』第26号(2014年8月)

《記事》

『唐律疏議』断獄律の現代日本語訳について

中村 正人



 『唐律疏議』断獄律の現代日本語訳を作成するそもそものきっかけは、2009年頃に川村康会員の主導(造意?)により「唐律疏議講読会」という組織を立ち上げたことにある。同会は、基本中の基本法制史料である『唐律疏議』をじっくり読むような研究会はないのかという石岡浩会員の問いかけに川村会員が応え、七野敏光会員と筆者に呼びかけて結成されたのであるが、どうせ読むのならば、いっそのこと現代日本語訳を作成し、滋賀秀三先生が名例律の途中まで翻訳された後、諸般の事情により中断されたままとなっていた、『唐律疏議』現代日本語訳事業を継承しようという話になった。筆者としては、『訳註日本律令』で自分が担当した断獄律であれば何とかなるかな、という程度の軽い気持ちで、あまり深く考えることもなく翻訳原案作成の任を引き受けたのであるが、これがとんでもない誤りであることに気付くまでにそれほど多くの時間を要しなかったのは言うまでもない。なお余談であるが、上記メンバーで断獄律の日本語訳だけでなく、中国法史の教科書まで同時並行で作成することになり、さらに自分の首を絞める結果となろうとは、神ならぬ身、この時点では全く予想もしていなかった。

 当初の方針としては、語句や条文自体の解説はすでに『訳註日本律令』が存在するため、注釈の類は必要最小限に止め、かつ可能な限り原語の使用を避け、翻訳文を読むだけでおおよその内容が理解できるようにすることを目指した。しかしながら、翻訳作業を開始して間もなく、上記の方針を維持するのは非常に困難であることを実感した。とりわけ、原語の使用を避けることが難しく、結果的にかなりの語句について原語を使用した上で、注によって解説を加える方式を採用せざるを得なくなった。

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 本原稿に対する編集部からの依頼は、『唐律疏議』の現代日本語訳における経験や課題・意義等を書くように、とのことであったので、まずはその意義ということからお話しすると、やはりそれは、史料の使い勝手を飛躍的に向上させ、利用者の範囲を格段に広げることが可能になるという点に尽きるであろう。唐律は前近代中国を代表する法典として、中国法史研究者のみならず、日本法史や西洋法史研究者、さらには歴史学者や(特に刑事法分野の)法学者にとっても有益な史料たり得るが、やはり従来の漢文訓読体の翻訳では、専門研究者以外はなかなか気軽に利用するというわけには行かないであろう。また、専門の研究者にとってみても中国法制史料の現代日本語訳の作業は、漢文訓読体であれば内容上多少不明確な部分があっても何となくごまかしがきくところ、現代語訳ではその種のごまかしがきかないために、唐律の内容の正確な理解を促進するという意味で一定の意義があると言えよう。

 実際に翻訳作業を経験してみて最も困難に感じたことの一つは、訳語選定の問題である。特に困ったのが、「囚」と「出入」という言葉をどのように訳すかということであった。

 「囚」とは何らかの意味で身体の自由を拘束されている者を広く指す概念である。すなわち、取調べ中で身柄を拘束されている場合もあれば、裁判途中の者、刑の執行を待っている者、あるいは居作等の場合のように刑の執行中の者もすべて「囚」の概念に含まれることになる。これらを現在の日本の法制度に当てはめて考えると、「被疑者」「被告人」「未決囚」「受刑者」等の言葉がすべて「囚」の概念に包含される。今回の断獄律の翻訳では、文脈に応じてこれらの用語を適宜使い分けて訳したが、複数の訳語に該当すると思われる状況にある者の場合、およびいずれの意味とも断定できない場合には、「囚人」と訳することにした。ただ、今にして思えば、日本語の「囚人」という言葉は、どちらかというと「受刑者」の意味合いが強いように感じられるため、訳語としてはいささか適切さを欠く嫌いがあったかもしれない。

 「囚」と同様に、「出入」の訳語にも散々迷わされた。「出」は本来科せられるべき刑よりも軽く処することを意味し、罪あるものを無罪とする場合も含まれる。したがって、「出」単独の場合には、「刑を減免する」としておけば、当たらずといえど遠からざる訳語となろう。しかしながら、本来よりも重い刑を科す(罪なき者を有罪とする場合も含む)「入」に関しては、「刑を加重する」と訳したのでは、罪なき者を有罪とする場合も含まれるというニュアンスがうまく伝わらない。ましてや「出入」と連称されている場合、どうやっても「罪ある者を無罪とする」という意味、および「罪なき者を有罪とする」という意味が含まれることを明確に示し得る適切な訳語を思いつくことができなかった。結局のところ、「入」は「刑を加重する」、「出入」は「刑を増減する」ととりあえず訳しておいた上で、断獄律19条で「出」「入」の用語説明がなされていることを利用して、それ以降の条文中ではそのまま「出」「入」の原語を用いることで妥協せざるを得なかった。

 もっとも、日本語への翻訳の場合、同じ漢字文化圏に属するということで、非漢字使用言語への翻訳に比べれば、条件的にはかなり恵まれていると言える。実際、原文に使用されている漢字を使用した日本語の熟語へと置き換えるだけで、それらしい翻訳に見えてしまうのであるから、この点ではずいぶんと恩恵を受けたように思う。ただ、そのことは、漢字の置き換えのみで何となく分かったような気になって、内容を深く理解しようとする努力を放棄することにつながり、ひいては先に述べた「唐律の内容の正確な理解を促進する」という現代語訳を行う意義をスポイルしてしまう虞もあることには十分注意しなければならない。もちろんこれは自分自身に対する戒めの言葉でもあるのだが……。

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 現在「唐律疏議講読会」では、川村会員を中心に『唐律疏議』捕亡律の現代日本語訳作業を行っている。ただ、その先の話となると現時点では全くの白紙状態である。筆者個人としては、乗りかかった船で全条文の日本語訳をライフ・ワークとするのも悪くはないかと思いつつも、川村会員が訳註を担当した雑律、および筆者にとって比較的馴染みのある賊盗律・闘訟律辺りはまだしも、その他の篇目に関してはとても手に負えなさそうな雰囲気が濃厚である。いずれにせよ、今後のことはこれからじっくりと考えてから決めることにしたい。

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