『東洋法制史研究会通信』第26号(2014年8月)

《記事》

『元典章』刑部・刑事裁判案件を現代日本語訳する

七野 敏光



 『元典章』(元代の法律書。正しくは「大元聖政国朝典章」という)は江西地方の官府が蔵した行政文書を分類編纂して一書を成したものといわれ、その刑部(典章39-57、新集不分巻の一部)には数多くの刑事裁判案件が見える。実際に生起した事件を処理するために地方と中央とで行移される行政文書中にそれがうかがえるということである。そこで史料としての持ち味を生かしつつ、『元典章』刑部に見える刑事裁判案件を現代日本語訳するには、行政文書の行移次第をいかに示すかということに一工夫が求められる。
 具体例として[姦婦が夫を殺害された事実を首(もう)さない:奸婦不首殺夫]を現代日本語訳してみよう。瑞州路で起こった殺人事件の処理につき同路から上申をうけた江西行省が咨文で中書省に問い合わせ、それに対して中書省がその一部局である刑部の詮議を経たうえで、同じく咨文で江西行省に回答をしている。全体は中書省の咨文である。

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  大徳元(1297)年十二月、江西行省が准(う)けた中書省の咨。(それに先立ち中書省が准けた江西行省の咨)「敖英孫が潘阿王と通姦し潘九四を水中に突き落として溺死させた公事」が認められた瑞州路の申。この瑞州路の申をうけて本省(江西行省)が看詳いたしました。姦婦潘阿王が供述するところは彼女の夫潘九四殺害前後の二点にわたる。一つは姦夫敖英孫が潘九四の生前に、その謀殺の事情を彼女に説知させたが、彼女はそれを夫に報じて知会させなかったということ。いま一つは潘九四が殺害された後、敖英孫が彼女に潘九四を水中に突き落とし溺死させたという事実を説知させたが、またしても、彼女はそのことを官に陳告しなかったということである。もし通姦に起因して夫を殺害したということで潘阿王の罪を論じようとすれば、(論罪に障りある事実として)彼女は一切自らは手を下しておりません。潘阿王の身柄を収監したうえで、咨して照験せられんことを請う。(江西行省の咨を准けた中書都省がそれを詮議するに相応しい部局であると判断した)刑部に送付し、その刑部が議得いたしました。潘阿王が犯すところは、彼女が敖英孫と通姦したことに起因して、敖英孫が潘九四を打ち殺すつもりだと言っているのに、言葉をもってそれをちゃんと阻止しなかったということである。潘九四殺害の後に、その事実を知りながら官に告げなかった罪については、詔恩に欽遇し免ぜられているが、(言葉をもって殺害をちゃんと阻止しなかったといっても)殺害を同謀したのではないのだから、殺害を阻止しなかったことについても罪とはせずに、欽依釈放とするのが相応でありましょう。具呈したれば照詳せられよ。都省呈を准めて、上の依(とおり)に施行せられんことを請う:

 大徳元年十二月、江西行省准中書省咨。瑞州路申。敖英孫与潘阿王通奸、将潘九四推落下水身死公事。本省看詳。奸婦潘阿王所招、奸夫敖英孫、於潘九四生前、対伊説知謀殺夫事情、不行報夫知会。潘九四被死之後、敖英孫又向阿王説知推落水内渰死、亦不経官陳告。若以因奸殺夫論罪、縁潘阿王不曾親行下手。除将潘阿王監収聴候外、咨請照験。送刑部議得。潘阿王所犯、因与敖英孫通奸、敖英孫雖称要将潘九四打死、本婦用言阻当不允。止拠殺死之後、知而不告情罪、欽遇詔恩。既非同謀、欽依釈放、相応。具呈照詳。都省准呈、請依上施行。

(典章42=刑部巻之4)

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 つたない現代日本語訳である。訳文前に記した解説をあわせ読むことで、行政文書の行移次第をおぼろげながらにでも把握していただけただろうか。やや心許ないが、同種の訳文を二三件目通ししていただければ……と期待している。
 行政文書には複数の官員によって諮られた文言(事実関係の概要や刑罰についての所見などを含む)が見える。前掲中書省の咨文についていえば、主なものとして「本省看詳」より「咨請照験」に至るまでの江西行省官によって認られた文言と、「刑部議得」より「具呈照詳」に至るまでの刑部官によって諮られた文言とが見えている(1)。そして事実関係の概要についていえば、江西行省・刑部官双方の文言をあわせ見ることで、より正確なそれを把握することが可能である。したがって、両官文言相互の補完具合を確認しながら、丁寧な現代日本語訳にあたりたいものである。例えば、敖英孫が潘阿王に潘九四殺害を話す件。江西行省官の文言「対伊説知謀殺夫事情」に対して刑部官の文言には「称要将潘九四打死」とある。この文言を丁寧に訳出することで、敖英孫が潘阿王に夫殺害のことを話した時点では、殺害方法に至るまでの詳細な犯罪計画はなかったことを巧まずして浮かび上がらせることができる。「打死」という話が「推落水内渰死」(江西行省官の文言)になったのである(2)。敖英孫と潘阿王両者の同謀など認定しようもない。
 同謀に絡めていう。刑罰についての所見を現代日本語訳する際、つねに律の科刑原理を踏まえておきたい。例えば、ここで江西行省官は敖英孫の潘九四殺害に連なる者として潘阿王を処罰しようとするが、実行行為に加担していない彼女を処罰することに疑念をいだき、事件の処理につき中書省に問い合わせる。ところが、刑部官は敖英孫と潘阿王とに同謀関係があったか否かだけを専らの問題とし、潘阿王が実行行為に加担したか否かについては一顧だにしない。どこかちぐはぐな両官の文言だが、いわゆる律の共犯論を踏まえれば、何とはなしにそのちぐはぐさの理由がみえてくる(3)。丁寧な現代日本語訳というのなら、こうした点をも注記指摘してゆくことが求められそうな気がする。

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 (1)「咨請照験」「具呈照詳」は、それぞれ咨文・呈文の末尾に記される定型句である。いたずらに現代日本語訳とせず原文を想起し易い訓読訳とするにとどめた。また「看詳」「議得」も『元典章』刑部中頻繁に使用される特徴的な語句である。これら特徴的な語句は、はなはだしい不便がない限り、原語をそのままにとどめおく。
 (2)瑞州路申の表題にも「敖英孫与潘阿王通奸将潘九四推落下水身死公事」とある。冒頭に見えるこの瑞州路の申を含む箇所、あるいは「大徳元(1297)年十二月、江西行省が准けた中書省の咨。(それに先立ち中書省が准けた江西行省の咨。江西行省がうけた)瑞州路の申。敖英孫が潘阿王と通姦し潘九四を水中に突き落として溺死させた公事。……」と、原文の形をそのままに訳出することも可能である。本文での訳がよいか、原文の形をそのままにした訳がよいのか迷うところである。
 (3)唐賊盗律6・9参照。もし敖英孫と潘阿王との間に同謀関係があれば、唐律では実行行為に加担したか否かにかかわらず、潘阿王は斬に処される。

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