『東洋法制史研究会通信』第28号(2015年2月)

《記事》

「秦漢変革」の可能性
──簡牘史料が示す新たな研究方向について──

陶安 あんど


  「秦漢時代」は、一括りとして語られることが多い。漢代にはすでに「漢、秦制を承(う)く」といった言説が見られ、『晋書』刑法志がこの一句を中心に秦と漢における法典編纂の歴史を纏めている。そうした言説から、我々現代の研究者は、ややもすれば、秦と漢の法制上の連続性を連想しがちではなかろうか。確かに、漢代初期には、いきなり真新しい制度を築き上げることは不可能である。蕭何は「秦丞相御史律令圖書」を得たので、当然秦制を参照して諸制度を整えた。しかし、漢王朝の歴史はそれから新を挟んで約400年も続けて展開される。その間、社会経済構造も変われば、国家の法律制度も大きく変容していくのが自然の成り行きと言えよう。

  『隋書』や『旧唐書』の経籍志から推測するに、『晋書』が編纂された唐代初期には、史料状況は現代の所謂伝世文献と大きく変わらず、唐代の歴史家も、沈家本以来の近・現代の法制史研究者も、実は同様な史料的制約を受けてきたように思われる。一つには、秦代の原史料は極めて乏しい(1)。成書年代が武帝期より遡る文献は、むしろ例外的な存在と見てよく、武帝期に成書した『史記』を置き、史料の大半は前漢後期ないしは後漢のものが占める。もう一つには、秦代史の基礎史料である『史記』の秦本紀・始皇本紀等は、漢代の視点から書かれており、主観性を免れ難い(2)。そうした史料状況では、漢代の知的体系、中でも後漢律学の知的体系を中心に「秦漢法制史」が構築されても、決して不思議ではなかった。

  近代の簡牘史料研究の幕開けは、1900年前後に各国の探険家が新疆の楼蘭や尼雅に入った時にまで遡り、20世紀前半には、甘粛省の敦煌と居延の長城関連遺跡から初めて比較的纏まった簡牘史料群が発見され、漢代史や漢代官制や文書の研究に大きく貢献してきたが、「秦漢法制史」に根本的な見直しを迫るほど史料状況が変わったのは、むしろ睡虎地秦簡(11号墓)の出土(1975年)からである。それによって、秦律などの法制史料が秦の当時竹簡に記されたまま我々の目に触れるようになった。睡虎地秦簡の記載には、一定の時代的ばらつきは見えるものの、概ね戦国時代晩期の秦制を直に窺うことができる(3)。その後張家山漢簡(249号墓、1983年出土、2001年全面公表;336号墓、1988年出土、未公開)・睡虎地漢簡(77号墓、2006年出土、未公開)・嶽麓書院蔵秦簡(盗掘品、2010年より逐次公表中)等も発見され、未公表のものを含めて、統一秦や漢代初期の充実した法制史料が揃うようになった。それでも当時の法律制度の一部に過ぎないが、伝世文献によって伝えられる後漢の法制史料に優るとも劣らない厚みを誇る。

  上記の睡虎地秦簡等は、秦と漢初の墳墓から出土したものであり、法令集や判例集といった法律文献を齎した。同じ墓には、日誌類・算術類・医書類の実用書籍が埋蔵されていたので、そうした法律文献も実用に供される参考書の類に入ると推測される。それに対して、里耶秦簡(1号井戸等、2003年出土、2012年より逐次公表中)は、秦代洞庭郡遷陵県の井戸等の遺構から発見されている。楚字が記された簡牘も含まれるが、主要な内容は、遷陵県がそこに廃棄したと思われる文書や帳簿から構成されている。つまり、居延漢簡等の西北漢簡と同様に、実際の文書行政が行われた施設の関連遺構から出土した一大史料群(断片を含めて38000余枚)である。しかも、西北漢簡と違って、辺境の軍事行政機構ではなく、普通の民政を行う行政機関で作成・利用・廃棄された簡牘である。睡虎地秦簡等の法令集と同様に、全体の一部たることは免れ得ないが、法律制度が如何に運用されたかについて詳細に語る史料として注目される。

  簡牘史料と伝世文献史料とでは、それが質量とも充実した時代はそれぞれ異なる。秦代と漢代初期がやや突出している簡牘法制史料とは対照的に、伝世文献の史料はむしろ後漢に集中しているが、その時代は、ちょうど律学が隆盛を極めた時期と重なる。律学は、経学の知的体系を参照しつつ漢代の法的知を再構築した。それを通じて魏晋時代の新律を準備する意義が大きかったが、その著作に現れる法律制度の理解は、出土史料から窺える秦や漢代初期の実態とは大きく異なる。

  その典型例としては、所謂「労役刑」の問題が挙げられる。『漢旧儀』では、主要な労役刑としては、髡鉗城旦舂・完城旦舂・鬼薪白粲・司寇の四種が挙げられ、それぞれについて、作すること「五歳」・「四歳」・「三歳」・「二歳」というように、服役すべき期間、つまり刑期が明記されている。睡虎地秦簡には、確かにそれと類似性の高い刑罰名称が見られる。それにはさらに「隷臣妾」という刑名が加わるが、労役と関わりを有する主要な刑罰は、「黥(為)城旦舂」・「完(為)城旦舂」・「耐(為)鬼薪白粲」・「耐(為)隷臣妾」・「耐(為)司空」という並びとなる。実に後漢の名称と紛らわしい。

  しかし、睡虎地秦簡が公表されて間もないころに、整理小組の一員でもあった高恒氏によって、隷臣妾をはじめ、秦律の所謂「労役刑」は、刑期の定めのない無期刑ではないかという疑問が呈せられた(4)。激しい論争を経て、その無期刑説が概ね正鵠を射ていることが証明された(5)。さらに、それらの刑罰が「黥」・「完」・「耐」と「城旦」・「鬼薪」・「隷臣」・「司寇」の二つの要素から構成され、その中では、「城旦」・「鬼薪」・「隷臣」・「司寇」が「労役刑」というよりも、「身分刑」と称すべきことが判明した(6)。それは、後漢律学が想定する有期の労役刑とは本質的に異なるが、その一例でも、律学がもはや秦律の刑罰体系に関する正確な知識を持ち合わせていなかったことが判る。その背景には、地殻変動ともいうべき制度の大きな変容があったと考えるほかない。

  大きな違いが明るみになった制度は、刑罰体系のみに限定されない。例えば地方行政についても、同様な地殻変動として、「県官制」から「諸曹掾史制」への転換が指摘できる。「県官」の「官」は、県廷とは別個の官府を構え特定の業務を専管する県の下位機構もしくは部局組織を指す(7)が、里耶秦簡の文書史料や兵器銘文等の金文史料から分かるように、秦代には、これらの「官」(と「郷」)を中心に、県は、労働力と納税者としての国民の把握に努め、活発な国営生産活動を展開していた。郡は、むしろ軍事と監察機能に重きを置いていた。それに対し、諸曹掾史制と称せられる前漢後半期以降の地方行政では、「県官」が影を潜め、生産活動も行政活動も中心が、県を統括する郡に移る。ここに、『塩鉄論』等で批判の対象となる極めて能動的な郡太守が歴史の表舞台に躍り出ることになるが、後漢における地方行政の停滞を巡る議論の中心となっているのも、中央の出先機関という性格の強い郡にほかならず(8)、秦代において基層に密着した形で地方行政を展開していた県の比較的高い自立性はもはやその俤すら窺えない。その背後には、労働編成などの社会経済構造の変化が作用しているように思われる。秦と(後)漢とでは、同じ「帝制」や「郡県制」の名の下、実態は社会も国家もまるで変ってしまったような印象が持たれる。

  もちろん、どの社会もどの時代にも変化は常に生じる。その意味では、少しずつ変化していくうちに、秦制という基層の上に徐々に漢制が形成されたと考えられなくもない(9)。しかし、「形成」とは、未完成なものが次第により完全なものになることを言うが、秦の簡牘史料から判断すれば、戦国秦の法律制度は、決して未完成なものではない。むしろ刑罰体系・行政管理・経済統制などの領域においてすでに驚くべき完成度を示す。秦国は、戦国時代七雄の一つとして総動員体制の下で国家や社会体制を構築し、官制や身分制を通じて資源や労働義務の分配を中央集権的に掌握することに成功した。それは、中国世界における春秋時代以来のグローバル化の流れを汲み、大競争時代を勝ち抜いた中央集権体制の一つの完成形ではあったように思われる。

  ところが、中国統一を達成して後は、どこか歯車が狂い始めたようである。国家による資源や労働力の丸抱えの非効率性等が露出し、体制は、新しい社会状況に対応できずに崩壊に傾いたのではないかと思われる。秦の故地を根拠地に漢楚抗争を経て再統一に成功した漢王朝は、確かに建前としては秦の法律制度を継承したが、法家的法術思想から黄老的な無為へと傾斜した漢初の皇帝や実力者には、とても秦の全体主義的な制度が駆使できていたように見えない。むしろ運用面で制度を新しい実態に合わせる形で急場を凌いだという印象を受ける。身分刑の形式を踏襲しつつ段階的赦免によって間接的に刑期を定めた文帝の所謂刑制改革もその一例であろう(10)。形式的連続性の背後には、大きな実質的断絶が感じられる。

  この断絶を経て極めて能動的な皇帝として武帝が強力な帝国の再建に成功したが、「漢」的とでもいうべき制度の出発点はこの武定期にあるのではないかと推測される。少なくとも上記の諸曹掾史制については、「武帝期以降に郡・国が地方行政の中心となっていった、との認識は、現在、日本の秦漢史研究者に広く共有されて(11)」おり、所謂「儒教の国教化」もこの時期に完成したというよりも漸く始動したと考えるべきであろう。つまり、前漢中期から後漢にかけて、儒教化の名の下で一種の文芸復興として経学が再構築され、その知識体系はまた律学にも多大な影響を及ぼした。もはや運用の工夫にとどまらず、制度設計そのものにも大きな変更が加えられるようになる。その中から陳寵の法典草案などとともに、上記のような明確な有期刑概念も生まれた。制度と文化の両面において先秦ないしは秦の概念が踏襲され、半ば意図的に継承性が演出されたが、その背後に、社会経済構造の変化によって齎された制度の大変革が潜んでいる。

  「唐宋変革」を巡る論争にもみられるように、時代の流れは、研究者の人為的時代区分によって堰き止められるものではない。秦漢時代についても、絶対的な分岐点を示すことは困難であろう。しかし、簡牘史料の将来によって、秦と後漢とで制度の根本に関わる変革が生じていることが明らかになった(12)。この両極を如何に結びつけるかによって、秦漢の時代区分論が今後別れていくだろうが、現段階でも、今後の新たな研究方向として少なくとも次の二つの課題は指摘できるように思われる(13)。一つには、「秦」の独自性を認識して、秦の史料に基づいて秦制を総合的に復元することが求められよう(14)。もう一つには、そうして新たに認識された秦制を出発点として、漢制を動態的に読み直す必要があろう。つまり、秦制の崩壊から漢初における継承を経て、何時如何に「漢」的法律制度が構築されていったかを問い直す作業が不可欠となるが、その「漢的」を照らし出す鏡としても、新たに認識すべき「秦制」には重要な方法論的意義が認められよう(15)。

 

 (1)史料が乏しいか否かは確かに相対的な評価である。栗原朋信は、「史記の秦始皇本紀に関する二・三の研究」(『秦漢史の研究』、吉川弘文館、1960年)の「序論」において、秦代史研究が当時盛んでなかった理由を、「史料が乏しいと考えられていること」と認めつつ、次のように述べる。

 秦王朝に関する史料は、果して乏しいのであろうか。私は、必ずしもそうであるとは思わない。というのは、書経の秦誓をはじめ、詩経の国風に収められている秦風の諸篇、春秋ならびにその三伝、就中春秋左氏伝、戦国策・国語・史記の各篇、特に秦本紀・始皇本紀、荀子の強国篇・韓非子・呂氏春秋・淮南子などの記載、その他、漢書の中にも、参考に資すべき記載は少なくない。漢代にできた説苑や茂陵書をはじめとして、その後に現れた西京雑記・三輔黄図・華陽国志・関中記などにも秦に関する記事があり、漢初の人の論策でも、賈誼の過秦論や賈山の至言などは、特に重要な史料に数えなければなるまい。また、金石学・考古学の進歩により、秦代の碑石・度・量・権・衡をはじめ、鐘・鼎などの彜器類や璽印にいたるまでが、ことごとく重視されなければならなくなってきている。(5頁)

 しかし、漢代、中でも後漢の史料と比べると、特に原史料が乏しかったことに変わりがなかろう。
 (2)例えば、『史記』にみえる秦水徳説に対する史料批判としては、鎌田重雄「秦郡考」(日本大学世田谷教養部紀要 第4号、1955年。同『秦漢政治制度の研究』所収、日本学術振興会、1962年)、栗原朋信「史記の秦始皇本紀について  秦水徳説の批判」(史学雑誌 第66巻第1号、1957年。後に同『秦漢史の研究』(吉川弘文館、1960年)に「史記の秦始皇本紀に関する二・三の研究」の一部として収録)。また宮崎市定「身振りと文学」(中国文学報第20冊、1965年)・「史記李斯列伝を読む」(東洋史研究 第35巻第4号、1977年。何れも同『宮崎市定全集第5巻』所収、岩波書店、1991年)は、文学性の視点から『史記』の史料的信憑性を検討する。
 (3)籾山明「雲夢睡虎地秦簡」(滋賀秀三編『中国法制史基本資料の研究』、東京大学出版会、1993年)。
 (4)高恒「秦律中“隷臣妾”問題的探討」(文物1977年第7期)、同「秦律中的刑徒及其刑期問題」(法学研究 第6期、1983年。何れも同『秦漢法制論考』所収、廈門大学出版社、北京、1994)。
 (5)籾山明「秦漢刑罰史研究の現狀」(中國史研究 第5卷、1995年。2006年には、張家山漢簡発表後の議論を増補し、籾山明『中國古代訴訟制度の研究』(京都大學學術出版會)にも収録)。
 (6)拙著『秦漢刑罰刑罰体系の研究』(創文社、2009年)第一部「秦律の刑罰体系」。
 (7)仲山茂「秦漢時代の『官』と『曹』  県の部局組織」、青木俊介「里耶秦簡に見える県の部局組織」(中国出土資料研究 第9号、2005年)。
 (8)紙屋正和「後漢時代における郡県政治の展開」(呴沫集 第11号、2004年。同『漢時代における郡県制の展開』所収、朋友書店、2009年)。
 (9)例えば宮宅潔「秦漢刑罰体系形成史への一試論  腐刑と戍辺刑」(東洋史研究 第66巻第3号、2007年。2010年には宮宅潔『中国古代刑制史の研究』(京都大学学術出版会)に収録)。
 (10)拙著(前掲)第五章「労役刑体系の形成」、拙稿「復作考  《漢書》刑法志文帝改革詔新解」((台湾)中国法制史学会編 法制史研究 第24号、2013年)。
 (11)仲山茂「書評:紙屋正和『漢時代における郡県制の展開』」(東洋史研究 第68巻第4号、2010年)。
 (12)後漢を根本的に異なる時代と捉える理解は、後漢を中世の始まりとしてそれ以前の古代と区別する宮崎市定の時代区分と一致するが、簡牘史料によって確認される秦と後漢の異質性を、世界史的な文脈の中で如何に位置づけるべきについては、筆者としてはまだ纏まった考えがない。宮崎市定「東洋的古代」(東洋学報 第48巻第2・3号、1965年。同『宮崎市定全集第3巻』所収、1991年)。
 (13)小文が注目する簡牘史料は、所謂出土文字資料のほんの一部に過ぎず、史料の時代性と地域性に細心の注意を払うようになってきた出土文字資料の研究と比べては、小文の問題意識も、扱う史料範囲も極めて限定的なものである。特に、地域性については、青銅兵器に基づいて精緻な研究がなされているが、それを如何に法制史研究に活用するかについては、筆者としてはまだ具体的な目途が立っていない。そのため、以下述べる暫定的な結論も専ら簡牘史料において明確に現れる時代性の問題に焦点を当てる。出土文字資料研究については、江村治樹『春秋戦国秦漢時代出土文字資料の研究』(汲古書院、2000年)を参照。また、出土文字資料の地域性に着目して斬新な国家論を提示する試みとしては、下田誠『中国古代国家の形成と青銅兵器』(汲古書院、2008年)が興味深い。
 (14)歴史及び思想史の分野でも、簡牘などの出土史料の出現に伴い秦の独自性もしくは漢との異質性を力説する傾向が表れた。例えば、鶴間和幸『秦帝国の形成と地域』(汲古書院、2013年)、浅野裕一『黄老道の成立と展開』(創文社、1992年)を参照。
 (15)前注10に掲げた拙稿は、秦制の視点から文帝の刑制改革に対して批判的検討を試みたものであるが、その他にも例えば、漢代に見られる広範な賜爵は、秦の軍功爵制の視点からすれば、身分刑に対する復作と同様に、一種の弛緩若しくは崩壊現象にほかならない。それ故、西嶋定生『中国古代帝国の形成と構造』(東京大学出版会、1961年)のように、このような弛緩現象を中心に秦漢時代における皇帝支配や古代帝国の形成を説明しようとする試みは、個別的史実に対する分析の適否とは別に、そもそもの着眼点が秦制とは相いれないように感じられる。なお、賜爵論の史料問題については、籾山明「爵制論の再検討」(新しい歴史学のために 第178号、1985年)に的確な批判がある。
 

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