『東洋法制史研究会通信』第28号(2015年2月)

《記事》

清末の奉天で日本人が受け取った呈と稟

高遠 拓児



 清代中国で人々が地方官衙に訴状を差し出す際、主に「呈」「稟」という2つの状式が用いられていたことは夙に知られている。とくに台湾の淡新檔案について検討された滋賀秀三氏は、これらについて、「「呈」とは一般人民が当事者として提出するものであり、不動文字と枡目を印刷した官製の状式紙に記される。状式紙は天地三二センチ前後、横幅一一〇センチ程の規格(1)」、「「禀」については調べがなお足りないけれども、概言して、紳衿の身分ある者が当事者として出す訴状、および総理・庄正など地方世話役や同族長老その他当事者の周囲の者が公益的見地から何事かを申し立てる場合に用いる書式であったと言ってよいように思われる。これは任意の白紙ときには紅紙に記される(2)」と解説している。当然、かかる訴状は清朝の官衙に提出することを前提としたものであるが、清末の中国で諸外国の活動が顕著なものとなると、各地方の人々が外国人に何がしかの折衝・請願をなす場合に、この状式が応用される例が出てきたようである。筆者はかつて、日露戦争期に日本が奉天に設置した軍政署に関わる史料(3)の整理に携わったことがあるが、その中には現地の紳民が提出した「呈」「稟」が計80件ほど含まれていた。本稿では、この清末の奉天で日本人が受け取った「呈」「稟」各1件ずつを紹介し、あわせてその形態的特徴について窺ってみることとしたい。

 1.呈[借金返済セザルニ付魯国通事弓珂処分方訴願](4)

 この文書には、天地42センチ、幅40センチほどの白紙が用いられ、左右両端を1.5センチほど折った上で縦に四つ折り、さらに天地中央で横に折りたたんだ状態で保管されている。『小山秋作氏旧蔵奉天軍政署関係史料』(以下『軍政署史料』)中の「呈」は、用紙の大きさこそまちまちだが、白紙が使用されている点とたたみ方は概ね一致している。用紙の右上、折りたたんだ際に表紙となる部分には「呈」と一字墨書され、四つ折りの右から2列目に次の本文が記される(句読点は筆者による)。

 具呈人孫王氏、年六十一歳、係奉化県民、住署南街處。情因有本街弓珂借氏錢一千八百五十吊、銀元二百七十圓。自借以後、伊充當俄國通事、遍處欺民、不學仁善。欺氏年老、不還氏錢無奈。氏在清國大人案下呈告、伊當俄軍通事、能主使俄兵、清國大人不敢将伊法辦。将氏家被伊帯領俄兵毀掠財物皆無、氏生活無路。只得叩懇日本大人恩准法辦、派兵嚴緝來案、令伊還債、氏感仁德大大矣。

 このうち後半の「日本大人」という部分は、縦5センチ、幅1センチほどの紅紙に記した上で擡頭書きとなるよう、用紙に貼付されている。そして、上の本文が四つ折りの右2列目に記された後、3列目中央には「光緒三十一年五月 日 具呈人奉化県民孫王氏」と、年月(日付部分は空白)及び原告の名が記される。滋賀氏の解説によると、淡新檔案の「呈」では、枡目や不動文字が印刷され、被告・干証・地保・歇家・認戳・経承・原差・代書・做状などの記入欄があらかじめ設けられているとのことであるが、『軍政署史料』の「呈」にはかかるものは確認されず、全くの白紙が用いられている。当然、状式にも地域差はあったであろうが、あらかじめ印刷されている字句などから通常の県衙門用の状式紙を使用することができず、ここでは白紙が利用されたのかもしれない。ただし、文書を差し出す対象を紅紙の短冊に記して擡頭書きする書式は、『軍政署史料』の他の「呈」にも共通しており、従前からの奉天の「呈」の形式を踏襲したと考えるのが自然であろう。

 さて、この訴えは前引の通り、奉天の清国人間の借金をめぐるもので、本来日本の軍政機関が関与する性格のものとは考えがたい。訴状によると、原告の孫王氏は先に清国大人(奉化知県か)に呈告したが、ロシア軍の通事を勤め、その威勢を借りていた被告弓珂に対し、当局は積極的には動かなかったとのことである。清朝当局への訴えが不調に終わった孫王氏側は、奉天会戦後のロシア軍の撤退と日本軍の進駐という情勢の転換を捉え、日本の出先機関である軍政署に働きかけて事態の打開を図ったものと思料される。

 この孫王氏による訴えが、その後どのような決着を見たのかは定かでないが、この「呈」の本文と日付の間には、青鉛筆書きで「警務課廻 24/6」との書き込みが見える。「警務課廻」は本件に対する軍政委員の指示(いわば批)、「24/6」はその指示を下した日付(この場合は明治38年6月24日=光緒31年5月22日(5))をそれぞれ表しており、ひとまず訴えは軍政署に取り上げられる運びとなったことが知られる。軍政署の職分をやや越えているようにも思われるが、被告の「俄國通事」「俄軍通事」という肩書きが、とくに日本の軍政署側の注意・警戒を呼び、これを動かしたのではないだろうか。

 2.稟「為遵照旧章請設脚行懇恩准賞執照勅知鉄路司員以通商務而得報効事」(6)

 この文書は、天地24.5センチの横長の用紙を摺本状に折りたたんだもので、たたまれた状態の幅は9.5センチほどである。用紙の左右両端には同サイズ(24.5×9.5センチ)の黒色の表紙と裏表紙が糊付けされ、表紙には紅紙に「稟」と記された2センチ四方の紙と、「脚行營業許可願」と記された付箋がそれぞれ貼付されている。その本文は下記の通りである。

 藍翎五品銜候選県丞趙桂林・五品頂戴候補驍騎校豐年・宗室営委学長榮富、謹稟大日本帝國軍憲大人麾下。敬稟者為遵照舊章請設脚行懇恩准賞執照飭知鐵路司員以通商務而得報効事。竊職等素以開設生理為業。前曽在奉天車站設立脚行、開設棧店。嗣因露兵滋擾、鐵路不通、生理遂作中止、賠累若干、不勝其苦。茲幸貴軍方至、彼醜已逃。職等仍欲招集商股、擬在奉天車站等處請設脚行。仿照直隷舊章、装卸貨物、代起客票。如時下無有貨物、甘願投効僱用脚夫、装卸貴國軍需等項、利商便民公私兩濟。日後凡火車能到之處、脚行亦即随處而設、務期商務日見起色、不致滯礙不通。職等原為通商便民利私濟公起見。為此肅稟呈、明叩懇恩准。即乞批示、並乞賞發執照、飭知鐵路司員俾得報効以便遵行、均感鴻慈萬代矣。

 そして、上の本文から20センチほどの空白を明けて、「明治三十八年五月 日」「光緒三十一年五月 日」と、日清両国の年月(ここでも日付部分は空白)が並記される。

 この「稟」では用紙として白紙が使われているが、『軍政署史料』中の「稟」には紅紙を用いたものが多い。滋賀氏は淡新檔案について「任意の白紙ときには紅紙」が用いられると述べられたが、奉天でも「稟」に白紙と紅紙が用いられ、とくにこちらでは紅紙の使用がより一般的であったようである。なお、後述するように趙桂林らはこの数ヵ月後にも「稟」を軍政署に提出しているが、そこでは紅紙が使用されている。

  本件は、奉天車站で運送業(脚行)と宿(棧店)を経営していた趙桂林らが、日露戦争のあおりで鉄道が使えなくなり、休業状態に追い込まれていたのを再開したいと訴願してきたものである。奉天の鉄道は、日本軍の進駐後はその管理下に置かれたので、かかる請願が日本軍の出先機関である軍政署に提出されたのは、先の孫王氏の一件に比べれば自然な流れであろう。また、孫王氏はその訴状に「奉化県民」とあるように一般人(民人)であったが、本件を提出したのは候補官や営学の長を務める宗室出身者など、いずれも相応の地位を持つ人々であった。さらに、本文中に「利商便民公私兩濟」「通商便民利私濟公」など、意識的に公益的側面も強調している点などは、「紳衿の身分ある者が当事者として出す訴状」、「当事者の周囲の者が公益的見地から何事かを申し立てる場合」に「稟」が用いられる傾向が窺えるとした、淡新档案に関する滋賀氏の分析とも通底するように思われる。

 さて、この趙桂林らの請願は、その後どのように扱われたのであろうか。この史料そのもの(1F-32)には具体的な指示は記されないが、じつは『軍政署史料』には趙桂林らの「稟」がもう1件含まれており、そこから若干の経緯を追うことができる。史料番号1F-60「稟「為請設脚行蒙准在案懇恩准賞執照飭知車掌以通商務事」」がそれで、明治38年9月(光緒31年8月)付で提出されたものである。こちらの「稟」を提出した当事者は、1F-32と同じ趙桂林・豐年・榮富の3人で、今回は用紙に紅紙が用いられているが、基本的な書式等は前件とほぼ同一である。ここに「職等前以遵照舊章請設脚行等情、稟請前來、當蒙允准在案。並蒙面諭、姑俟停戰開票之後、再為核辨等因」とあり、軍政署は営業再開に理解を示したようだが、一方で停戦・開票(鉄道の通常営業再開の意か)を待つよう対面で伝えたとのことである。日露戦争の講和条約調印は明治38年9月5日であるので、これを受けて改めて趙桂林らが提出してきたのが、1F-60ということになる。ただしこの1F-60には、鉛筆書きで「28/9 時期尚ホ早シ」と記されており、軍政委員は9月28日付で時期尚早との判断を下して、再度“待った”をかけている。ことが鉄道利権にも絡む問題であるため、軍政署側は慎重な姿勢を取っていたのかもしれない。

 以上、本稿では、清末の奉天で日本の軍政機関に宛てて出された現地紳民の「呈」「稟」を1件ずつ紹介してきた。これらは極めて特殊な状況下で生みだされたものであるが、我々の既知の「呈」「稟」との共通項も多く、清代の訴状の基本的な形態・特徴を窺う比較材料として興味深いものとなろう。また、戦時下の奉天紳民の動向を知る上でも有用な情報源となりうるものである。紙幅の都合もあり、今回はそのごく一部の紹介にとどまったが、今後、機会を得られれば、他の文書についても紹介・検討を試みてみたい。

 (1)滋賀秀三『続・清代中国の法と裁判』(創文社、2009)28頁。
 (2)同上書34頁。
 (3)本史料の概要については拙編『小山秋作氏旧蔵奉天軍政署関係史料目録:中央大学図書館蔵』(中央大学図書館、1998)を参照。小山秋作は奉天軍政署の長(軍政委員)を勤め、本稿で紹介する「呈」「稟」の宛先(日本大人・大日本帝国軍憲大人)となった人物である。
 (4)『小山秋作氏旧蔵奉天軍政署関係史料』史料番号1F-44。史料の標題は前注所掲目録による。
 (5)ただし日付部分は、青鉛筆の「24」の上から、赤鉛筆で「27」と書き改められている。
 (6)『小山秋作氏旧蔵奉天軍政署関係史料』史料番号1F-32。

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