『東洋法制史研究会通信』第28号(2015年2月)

《記事》

朝鮮刊『大明律講解』について

田中 俊光
(亜細亜大学アジア研究所嘱託研究員)



 朝鮮王朝(1392~1910年)が明律を継受したことは、淺見倫太郎『朝鮮法制史稿』(1922年)をはじめ、花村美樹「大明律直解攷」(『法学協会雑誌』54、1936年)、朝鮮総督府中枢院調査課編『李朝法典考』および『校訂大明律直解』(ともに1936年)のほか、楊鴻烈『中国法律在東亜諸国之影響』(1937年)などにより、早くから学界に知られている。15世紀後半に編纂された『経国大典』刑典の用律条に「大明律を用ふ」と定めているように、朝鮮は建国当初から明律を一般法として用いた。時代が下って朝鮮独自の処罰法規が蓄積されても、独自法規で定めのない構成要件には明律が準用され続けた。大韓帝国期の光武9(1905)年に制定された「刑法大全」にも、明律の色彩が強く残っていた。

 このように朝鮮の刑罰法と明律は密接な関係にあったが、朝鮮が実際にどの明律のテキストを用いていたのかについては、あまり理解されていないように思われる。朝鮮での明律のテキストとして最も有名なものは、太祖4(1395;洪武28)年に版行された所謂「大明律直解」である(同書名は朝鮮総督府による命名であって本来の名称ではない)。これは、明律の正文(洪武22年律と思われる)を漢字の借音・借訓による朝鮮語表記で翻訳(直解)した書で、当初は法適用の根拠として参照されていたようだが、間もなく訳文の誤謬が相次いで指摘され、15世紀前半に王命によって何度か改正・再翻訳作業が行われた。だが、その後は明律翻訳に関する議論は史料から姿を消す。現在、訳者金祗による洪武乙亥(1395)年の跋文がある「大明律」と内題の付いた書が伝わっている。本書は、律正文の後ろに双行注で直解文を載せるが、これはあくまでも条文の朝鮮語訳に過ぎない。明律を刑事法の規準として採用した朝鮮にとっては、条文をどのように解釈すべきかが最も重要な問題だったのである。

 世祖12(1466)年、王宮書庫に所蔵されていた『大明講解律』、『律学解頤』および『律解弁疑』が、王命によって校正・刊印の後500部ずつ全国に配布された。また、成宗18(1487)年には、朝鮮で重刊した『律条疏議』を誤字校正して印頒するよう求める臣下の上啓を王が裁可している。このことから、15世紀中葉には既にいくつかの明律注釈本が朝鮮に伝えられていたことが分かる。それぞれの注釈本の朝鮮での評価については、紙幅の都合上割愛するが、現存する朝鮮で用いられた明律注釈本の多くは、『大明講解律』すなわち『大明律講解』である。

 『大明律講解』については、これまでは花村氏の前掲論文や黄彰健『明代律例彙編』(1979年)で補足的に紹介されるにとどまっていたが、近年、旧奎章閣蔵『大明律講解』(奎中1962;後述の②全史字本)が影印刊行され(奎章閣資料叢書法典篇『大明律講解』、2001年)、中国でも同種の版本が影印されたことで(楊一凡主編『中国律学文献』第11輯第4冊、2004年)、史料へのアクセスは容易になった。

 『大明律講解』は、活字本(またはその覆刻本)と木版本が韓国国内および海外の資料館に多種現存するが、管見の限り、誤刻・誤植や若干のレイアウトの異同を除けば内容はほぼ同じで、主なものは次の6種である。いずれも内題は「大明律講解」で、有界、花口魚尾である。

Ⅰ.活字本(またはその覆刻本)
 ①甲寅字系本
  ・10行17字、匡郭25×18cm
  ・版心題に「大明律」「講解律」
 ②全史字本
  ・10行18字、匡郭22×15cm
  ・版心題に「大明律講解」
  ・末尾に「光武七年癸卯八月 日法部奉旨印頒」の刊記

Ⅱ.木版本
 ③金誠一宗家本(韓国宝物第905-49号)
  ・10行18字、匡郭24×17cm
  ・版心題に「講解律」
  ・表紙見返しに「嘉靖十五年六月 日受教慶州府行移二十件印出」の墨書
 ④箕営新刊本
  ・10行18字、匡郭21×17cm
  ・版心題に「大明律講解」
  ・末尾に「庚午初夏箕営新刊」の木記
 ⑤嶺営新刊本
  ・10行17字、匡郭20×16cm
  ・末尾に「甲寅仲冬嶺営新刊」の木記
 ⑥淺見文庫本
  ・10行18字、匡郭21×17cm
  ・版心題に「講解律」

 ①は甲寅字系の活字(またはその覆刻)を用いているが、この字体は世宗16(1434)年に最初に鋳造されて以来、王朝末期に至るまで6度にわたって再鋳された。それぞれの字体は、精巧さや摩滅具合などによって区別ができるといい、同本については4度目の再鋳字である戊申字(1668年)を使用しているという見解が多いが、書誌学に暗い筆者にはなかなか判別できない。同本はソウル大学奎章閣韓国学研究院のほか、慶尚南道咸陽郷校にも所蔵されている。②は全史字(1816年鋳造)を用いたもので、刊記から光武7(1903)年8月に法部が大韓帝国皇帝の命を受けて印頒したことが分かる(後述)。同本は韓国の多くの古典籍資料館のほか、東京大学総合図書館所蔵阿川文庫や米ハーバード燕京図書館などの海外にも多数存在する。③は金誠一(1538~1593年)の宗家蔵書で、表紙見返しの墨書から嘉靖15(1536)年6月に王命を受けて慶州府で印出されたことが分かる。④は庚午年4月の平安監営(平壌)新刊本で、韓国の多くの古典籍資料館のほか、東京大学東洋文化研究所大木文庫など海外にも存在するが、庚午年の具体的な年については後に詳説する。⑤は甲寅年11月の嶺南監営(大邱)新刊本で、忠南大学校図書館や米ケンブリッジ大学所アストン・サトウ・シーボルトコレクションに所蔵されているが、甲寅年の具体的な年は不明である。⑥は米カリフォルニア大学バークレー校図書館淺見文庫に所蔵されているもので、④と類似しているが、巻末の大題の位置が異なるため別の版木で刷られた本であることが分かる。

 『大明律講解』は、外題を「大明律講解」とするものと単に「大明律」とするものの2種類があり、後者の場合は前述の直解本と紛らわしいが、内容を見れば区別は容易である。『大明律講解』には序跋がなく、律文の後に「講曰」、「解曰」が陰刻され、以下、字句の解説や例示や、法解釈の例題とその解答が双行注で示されている。条文は律正文のみで問刑条例は収められておらず、漢字の借音・借訓による朝鮮語訳もない。

 「講曰」および「解曰」で引用された文章の典拠について見ると、『律解弁疑』の注釈内容とほぼ一致する。『律解弁疑』の「講曰」、「議曰」、「問曰」および「又問」は『大明律講解』ではすべて「講曰」に、『律解弁疑』の「解曰」および「答曰」は『大明律講解』では「解曰」にそれぞれ統合して載録されている。但し、『大明律講解』は『律解弁疑』所収の注釈をすべて収録している訳ではなく、一部は省略し、または表現を若干改変して簡潔にするなど、『大明律講解』の編者が適宜取捨選択している。黄彰健は、④箕営新刊本を検討した上で、『律解弁疑』と『律条疏議』の注釈がともに引用されているとするが(前掲書、19頁)、『律条疏議』独自の注釈は『大明律講解』に見当たらない。これは単に『律解弁疑』と同一の表現か、または同一の趣旨の注釈が『律解弁疑』より後に編纂された『律条疏議』に重複して載録されているに過ぎないのであって、『大明律講解』に『律条疏議』の注釈が引用されているとはいえない。また、同氏は、『大明律講解』の中には嘉靖5(1526)年に刊行された『大明律直引』所収の「釈義」が引用されたものがあるとするが(同19頁)、これは『大明律講解』ではなく、17世紀後半に朝鮮で覆刻された『大明律附例』の誤りである(朝鮮覆刻本『大明律附例』については、拙稿「朝鮮後期の刑事事件審理における問刑条例の援用について」『朝鮮史研究会論文集』46、2008年を参照)。

 次に、『大明律講解』の初刊年と編者について考察したい。前述の通り、『大明律講解』には序文も跋文もないため、典籍の文面のみから初刊年と編者を検討するのは困難である。編者について花村は、「講及び解の用文の上から半島人の手に成ったものでなく、本来は中国より齎らされたものと考える」と述べている(花村、前掲論文、318頁)。一方、黄彰健は、編者については不明としつつ(前掲書、116頁)、④箕営新刊本の刊行年を正徳5(1510)年に比定した(前掲書、19頁)。その理由は次の通りである ④箕営新刊本には、末尾に「庚午」年に新刊したことを示す木記がある。同書には、洪武年間に編纂された『律解弁疑』と、天順5(1461)年に初刻された『律条疏議』が引用されているので、1461年以前の「庚午」年は該当しない。「庚午」年を隆慶4(1570)年とした場合、当時の明では嘉靖年間に修撰された『読律瑣言』が盛行しており、注釈として引用されないはずがないから、その60年前に当たる正徳5(1510)年が最も有力である、とする。しかし、この説には2つの問題点があるように思われる。まず、④箕営新刊本の刊行年を16世紀前半とすることの妥当性である。前述の通り、『大明律講解』の注釈は『律条疏議』独自の注釈がベースになっている訳ではないため、「庚午」年が15世紀に当たる可能性もある一方、より後代の刊行と見ることもできる。結論からいえば、「庚午」年は19世紀の1810年が正しいことが文献史料から分かるが、これについては後述する。次に、現存する『大明律講解』は朝鮮本のみで、明版は伝わらないが、果たして『大明律講解』は中国人によって編纂されたものなのかという点である。これらの問題を解く手掛かりとして、朝鮮王朝実録を参照すると、『大明律講解』はすでに15世紀中葉に史料に登場していることが分かる。

 世宗25(1443)年、良人が他人の奴婢を闘殴殺した場合(良賤相殴条)の「死及故殺者絞」の解釈について、『講解律』の「若殴死及故殺者並絞」という注釈に従って、闘殴殺はすべて絞に処すべきなのか朝廷で議論が起こったが、『講解律』は「もとより中国が頒行した成書ではない」(既非中国頒降成書)として、『講解律』の註解に拠って死刑に処さずに「旧例」すなわち闘殴殺以下は減一等するが、故殺の場合は絞に処すことを上申し、王の裁可を得た(『世宗実録』25年10月丁酉)。この史料から、1440年頃に『大明律講解』は編纂され、明律の注釈書として実際の裁判での審理に用いられたこと、そして『大明律講解』は朝鮮で編纂された注釈書であることが分かる。史料に登場する「若殴死及故殺者並絞」は、現存する『大明律講解』にも「講曰」として記載されており、その典拠である『律解弁疑』にも「議曰」として記載されている。

 このように、「中国が頒行した成書ではない」と評された『講解律』ではあったが、その後も明律注釈書としての役割は失われなかった。上記記事の翌年(1444)、持ち主に気付かれて棄財逃走した窃盗犯が、追跡逮捕される際に抗拒した場合(強盗条)の処断について、『講解律』の註解によることが上申され、王がこれを裁可した(『世宗実録』26年4月甲午)。その後、世祖12(1466)年には、内蔵本の『大明講解律』が、『律学解頤』・『律解弁疑』とともに、王命によって校正・刊印されたことは前述の通りである。15世紀後半になると、『大明講解律』の注釈が朝廷での法解釈でたびたび引用されるようになる。また、宣祖元(1568)年刊『攷事撮要』(魚叔権原撰)の冊版目録によれば、慶尚道慶州で『講解律』、全羅道潭陽で『大明講解律』がそれぞれ開版されたことが分かる。『大明律講解』のどの種類の版本がいつ刊行されたのかについては詳らかでないが、16世紀には『大明律講解』が相当数普及していたことが推測される。

 18世紀以降も『大明律講解』のテキストは『大明律』として用いられ続けた。明律テキストは、単に司法官吏が業務を行う上で使用するばかりでなく、律学を勧奨し、才能のある律官を選抜・養成する上でも不可欠であった。冊子が使い古されて傷むと、新しい冊子を配給する必要が出てくる。『承政院日記』や『日省録』といった朝廷での王と臣下の政策論議に関する現存記録には、版木を保有する地方官衙に対して『大明律』、『経国大典』および『無冤録』などの法律書の刊行を命じる内容がほぼ10年ごとに登場する。

 純祖9(1809)年、『大明律』の版木を保管する平安監営(箕営)で火災が発生し、版木を焼失する事件が起きた。そこで王は、平安監営に対して直ちに自分たちで版木を作製して印刷し、上送するよう命じた(『日省録』純祖9(1809)年12月24日己酉)。この翌年の純祖10(1810)年は、庚午年に当たる。恐らく、平安監営は王命を受けて『大明律』の版木の作製に取りかかり、翌年4月に完成させたと思われる。従って、④箕営新刊本の木記「庚午初夏箕営新刊」の庚午年は、1810年と見て間違いない。

 そして光武7(1903)年、法部大臣が高宗皇帝に対し、法官養成所学徒向けの教課律書を頒給するにあたり、各道の裁判所や各郡で使用されているものは冊子の劣化が激しいので、「現行明律」で開板刊出するよう上奏し、裁可を得た(『日省録』光武7年6月11日癸亥陽暦8月3日)。このとき刊行された教科律書こそが、末尾に「光武七年癸卯八月 日法部奉旨印頒」の刊記がある②全史字本にほかならない。法部大臣の言にもあるように、当時現行の明律もやはり『大明律講解』だったのである。

 『大明律講解』は、明律を解釈するために編纂された注釈書であり、15世紀中葉までには朝鮮で刊行されていた。明律を刑事法の規準に据えた朝鮮にとって、律条文の趣旨に沿った個別の案件処理こそが、最大の関心であった。『大明律講解』は、朝鮮刑事法の妥当な運用を下支えする優れた注釈書として、また、律官を養成する指定教科書として幾度となく刊行され、王朝末期に至るまで幅広く利用され続けたのである。

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