『東洋法制史研究会通信』第29号(2016年8月)

《書評》

林文凱「日治初期基隆土地糾紛事件的法律社會史分析(1898-1905)」

(『成大歷史學報』第48号・2015年6月)

西 英昭



 本論文は日本統治時代初期、台湾北部の基隆において発生した土地紛争事件を“法律社會史”の立場から分析しようと試みている。著者・林文凱は現在中央研究院臺灣史研究所副研究員であり、同論文は臺灣史研究所のホームページにおいても公開されている(同研究所HP(http://www.ith.sinica.edu.tw/)から「研究人員」→「専任研究人員」→「林文凱」とクリックして進めば著作目録からPDFでダウンロード可能)。興味のある方は原文も参照いただきたい。同論文の構成は以下の通りである。

  壹、前言
  貮、基隆土地糾紛事件的兩種詮釋:殖民剥削論分析vs.文本層位學分析
  參、基隆土地糾紛事件的法律社會史分析
  四、結論

 著者林文凱はこの問題を取り扱うに際し、先行研究として江丙坤『臺灣田賦改革事業之研究』(臺灣銀行經濟研究室・1972)と拙著『『臺灣私法』の成立過程』(九州大学出版会・2009)を主要な“批判”の対象として取り上げ、その問題点を指摘した上で持論を展開している。日本語で書かれた拙著への海外からの反応に素直に謝辞を述べたかったのだが、結局のところ林文凱論文は拙著を誤読・曲解し、それを根拠に不必要なまでに攻撃的な言辞を並べ立てた、学術倫理に反する問題作であった。残念至極である。

 まず林文凱は拙著の作業の性格を完全に誤解している。当該部分の作業について拙著では「当該議論に於いてどのような史料が論拠として用いられ、どのような議論が構成されているのかを整理する」(10頁)ものとし、「…求められる作業は、現在まずは目の前にあるテキストについて厳密な整理を行うことであ」り、「一次資料へと切り込むに当たっての足場を固める上で、是非とも必要となる作業」(7頁)と明記しておいた。「過去の議論をその当時のまま理解すること」の重要性、及び「過去の議論に「参入」すること」の危険性についても重ねて指摘してある(271頁)。作者である西個人の見解はひとまず置き、台湾の様々な慣習につき行われた当事者の議論を整理し、周辺の議論についても即座に参入するのではなく、むしろそれらに参入するための確かな足がかりをテキスト批判から導くことに集中する、という拙著の作業の性格についてくどいほど反復して説明してあることは一読して明らかである。

 林文凱はこれらの個所を全く理解できていない。林文凱は地基主・厝主の関係について当時如何なる当事者がどのような主張を行ったのかを拙著が整理した個所を捉え、当時の当事者の見解をそのまま西個人の見解と誤読し、紛争における植民地社会という文脈を見逃したものと“批判”する(130頁)。しかし拙著がそこで提示したのは当時の当事者たちの見解であり、西個人の地基主・厝主の関係に対する見解では全くない。ましてや軽々しく当時の議論の善悪や当否を論じることは拙著の目的ではない。本書の作業の性格については本書中に幾度も明記したが、それを全て見落とされては如何ともし難く、その読解に唖然とするよりほかない。このような読解力で日本統治時代の多くの日本語資料を読みこなせているのか、林文凱の研究全体の信頼性にも疑問符が付きかねない事態である。

 さらに林文凱は拙著の立場につき「作者・西は層位学的テキスト分析によって導かれた解釈が歴史的事実に符合すると主張してはいないものの、実際上読者からすれば、そのテキスト選択と新たな解釈は、江丙坤の認識を誤りとし、日本人地基主派の主張が正当な法理上の根拠を有するものと認めているのは明らか」と決めつける(133-134頁)。これまで拙著に対しては様々な方から批判・意見を頂戴したが、このような誤読を行った“読者”は彼一人である。これまた拙著の作業の性格を理解していないことから来る謬論である。

 そして林文凱は自らの誤読・曲解に気付かないまま(あるいは気づいていながら?)、拙著に対し「ただ…しただけ(僅)」「見落とした(忽略了)」「気がついていない(未注意到)」「偏っている(偏向)」等々の言辞を実に17箇所にわたり使用し、常軌を逸した執拗さで拙著を攻撃するのだが、その根拠が誤読・曲解である以上、これらの舌鋒鋭い批判の言葉は全て翻って林文凱自身に突き刺さり、その無理解を逆照射することとなる。林文凱個人の無理解に起因する無責任な見解が独り歩きするのは筆者としては迷惑千万である。林文凱は舌鋒鋭い言葉を使いさえすれば批判たりうると勘違いしているのであろうか。正しい根拠があってこその批判である。林文凱論文はまさにこの根拠を欠き、自らの勝手な誤解・曲解により相手方に攻撃的な言辞を一方的に投げつけるものであり、通常の批判の作法を完全に逸脱したものと言わざるを得ない。

 また、林文凱は拙著が敢えて言及していない問題につき、すべて「見落とした」ものと決めつける。「一次資料へと切り込むに当たっての足場を固める上で、是非とも必要となる作業」としてテキスト分析にのみ作業を集中させた拙著の方針を全く理解していないがための謬見である。先行研究が自身の希望するような研究手法・研究結果を有していないというのはある意味で当たり前のことであり、先行研究が説き及ばない点を全てその失態と捉えるのは「無いものねだり」である。そのような“批判”は見当違いも甚だしい。

 さらに林文凱による“批判”は人格攻撃にも及ぶ。林文凱は「西の法理学的分析が法学部出身という背景と関連するもの」とし、その分析方法では「植民地的性格を有効には分析できない」とする(129頁註11)。ある人物の知的背景を探るためにその学歴を考慮に入れることは人物研究において採られる手段の一つであるが、法学部出身の人間は全て法学的なものの考え方しかしないというのは短絡に過ぎる。ある人物の議論とその知的背景の間に複雑な関係が展開するのは人物研究の常識であるが、それを弁えていないのであろうか。付言するならば、拙著におけるテキスト分析という手法自体、歴史学に深く関わりを有するものであるが、林文凱はそうした知識も持ち合わせていないのであろうか。

 林文凱論文は以上の問題点だけでも読む気を完全に消失させるに十分であるが、さらに読み進めると、林文凱自身が基隆土地紛争事件の顛末を扱った箇所に行き当たる(「參」の部分)。そこでは確かに拙著よりも豊富な資料を用いた分析が行われている。そのこと自体は評価されて良い。しかしながら、その分析を経た林文凱の結果は、拙著が提示した流れ、例えば日本人資本家の都合によって「旧慣」の認識が変更されてゆくという要素を全否定するものではなく、全体としてはむしろ同じ方向を示す。拙著の立場からするならば、林論文は拙著の提示した方向性をさらに豊富な資料で詳細に確認・敷衍したものとなる。

 さらに言うならば、この論文はむしろこの部分だけで十分に成立する。前半の江丙坤や拙著に対する“批判”が無くても、豊富な資料を駆使して基隆土地紛争事件の経緯を詳細に再検討した論文として特段の問題もなく成立するものであるし、前半の“批判”があることによって初めて後半の分析が可能となる、ということはない。台湾史研究所副研究員という枢要の地位にありながら、何ゆえこのような不必要な“批判”を行い、性急に公表する必要があったのか、全く理解不能である。

 林文凱が提示する“法律社會史”なる概念も明確な定義を欠いている。同概念を持ち出さなければ分析は不可能なのであろうか。もし社会学の立場から拙著に批判を試みるのであれば、総論としては拙著と同じ方向性を持ちつつも、膨大な情報によってもたらされたわずかな差異が、拙著の提示した流れにどのような変化をもたらすのか、その些少な差異が如何なる新たな知見をもたらすのか、についての説明が不可欠である。林文凱はそれに充分に言及せず、ただひたすら西はこれも見落とした、あれも見落としたとして他人を貶めることに汲々とするが、彼が本来為すべき仕事はそれではない。社会学が歴史学に対して行うべき仕事について、林文凱に十分な認識があるのか疑問である。

 拙著ではテキストの成立過程が中心的な関心であり、拙著の作業も対象をそれに最も関係すると思われる資料に集中させたことから、敢えて言及されない資料があるのは止むを得ない。それらの資料によって、拙著の提示した説が全面的に否定されるならともかく、林文凱自身、結局のところ拙著と同じ方向の結論に終始し、拙著を大幅に塗り替える新説を提示し得えてはいない。また彼が好んで提示する「殖民性格」「植民掠奪」といった概念自体、安易にそこへ結び付けて良いのかどうか慎重な取り扱いが求められるが、これらに対する丁寧な説明もない。折角の分析が全く生かされていないのは残念で仕方がない。

 以上、林文凱論文は本来であれば特段書評対象として取り上げるに値しないものだが、先行研究批判の失敗例として他山の石とするに足るため、ここに取り上げた。我々は、特に外国語の論考の場合、自らの能力の不足ゆえに思わぬ誤解・曲解をしていないか、常に注意しなければならない。

 最近学生向けに論文の書き方を紹介する教材を執筆する機会があったので、気をつけるべき点の一つとして「先行研究にしてもやはり、引用した筆者に「そんなことを言った覚えがない」と言われることだけは絶対に避けなければならない」と注意を促しておいたが(九州大学大学院法学研究院『中国人留学生のための法学・政治学論文の書き方』(中国書店・2015)64頁)、この言葉をそのまま林文凱に贈る。初学者ならばいざ知らず、研究者として自立したはずの人間がこのような基本的なこともできていないということ自体、その将来を慮るに不安の念を禁じえない。

 批判とは単なる誹謗中傷ではない。批判とは対象を精確に理解し、議論を一歩も二歩も先に進めるような建設的な意見を述べるべきものであり、またそうした正しい批判のみが学術を前進させる。自らの勝手な誤読・曲解に立脚し常軌を逸した執拗な攻撃を行った林文凱の行動は完全に学術倫理に違反するものであり、学者としての品格を疑われかねない自身の行為について林文凱は深く反省すべきである。そうでなければ、今後林文凱が何を語ろうとも、その言は虚しく宙を舞うのみである。

( All rights reserved by the author )

back to INDEX