『東洋法制史研究会通信』第30号(2017年1月)

《記事》

「実学」重視の大学における東洋法制史講義

赤城 美恵子



 帝京大学に職を得て 7年目になる。以来、ありがたいことに、専門科目として前後期 2単位ずつの東洋法制史の講義を担当している。帝京大学は「実学」重視の大学である。「実学」重視は大学の紹介の冒頭に掲げられ、さらには法学部の教育目的にもそれは反映されている。この方向性は、現在の日本の大学が置かれた状況の先端を行っていると言っても過言ではない。そして、今回の特集で「大学法学部における東洋法制史教育の意義」といったテーマが設定されるのは、「実学」が求められる昨今の法学部の状況において、東洋法制史の果たすべき役割に懐疑的なまなざしが向けられることがあり、東洋法制史を研究し、教育する我々自身が一度じっくり考える必要にせまられているからであろう。つまり、そうしたことが問題となっている中で、「実学」を重視する帝京大学に東洋法制史の科目が存在すること自体、奇特なことと言わざるを得ない。実際、私もそう思って毎回の講義を行っている。

 しかし、他面、奇特であるという思いだけをもって、漫然と講義を続けることはできない。なんとなれば、「実学」を重視する大学にあえて東洋法制史の講義が置かれているということは、言葉を換えれば、東洋法制史という講義科目が「実学」に益のある科目として扱われていることの現れである。この点を意識しておかなければ、それこそ「実学」重視の大学教育における東洋法制史講義の存在意義を見失うことになる。

 さて、大学における法学教育について考えれば、法学が学問である以上、その目的は真理の探究におかれる。一方で、法律が社会規範である以上、法学は、法律を通じて社会にどのように安定をもたらすのか、もし安定が失われたならばどのようにして安定状態に戻すのかを考察する学問である。この点において、法学は限りなく「実学」的性格を有すると言えよう。しかし、過去の、異なる社会の法制度を扱う東洋法制史が、真理の探究はともかくとして、法学の「実学」的性格に直接結びつくとは決して言えない。それでも、なにがしか「実学」に寄与することが可能なのではないか。では、「実学」に益をもたらす東洋法制史教育とは何か。この数年この問いにそれなりに真剣に向き合ってはいるものの、確りした答えはなお見いだせずにいる。

 ただ、そのようなときにふと思うのは、私自身がなぜ法制史、特に東洋法制史を面白いと感じたのか、ということである。東洋法制史を学ぶことは、現代日本社会におけるのとはまったく異なる法律や制度、その背景に広がる社会・倫理・思想のあり方を学ぶことであり、まったく新しい知識を手に入れることには当然心が躍る。そればかりでなく、異なる社会についての知識を手に入れた上で現代日本社会を眺めると、それまで気がつかなかったことにも目を向けることができる。私はこうした点に東洋法制史の面白さを見たように思う。かかる比較の視点の涵養もまた大学法学教育、特に「実学」を重視する大学における東洋法制史教育の意義の一つと言えるのではないだろうか。

 法学部の学生は、現行の法律・制度の知識を手にし、ケースメソッドを通じて法制度の運用を学び、あるいは、とりわけ実務家教員から実際の現場の様子を聞く。まさしく、社会に出てから即戦力となりうる人材を目指す。社会はそういった人材の育成を大学に求め、大学もそれに応えようとしているのが現状であろう。しかし、ひとたび法制度が変わればどうか、あるいは社会の要請が変わればどうか。大学で培った法学的素養はかかる変化に対応しうるものばかりとは限らない。現状を分析し対応していく能力、さらにはその背後にある思考の柔軟性が求められる。東洋法制史の講義は、思うに、学生がそうした能力を身につける機会となる可能性を秘めている。

 異なる社会の法・制度を学ぶことは、その反射として、現代法理解・現代日本社会の理解につながる。どのように異なるのか、なぜ異なるのか、これらの問いは異なる社会の有り様を分析するだけでは解けない。我々の社会の個別の法・制度のあり方やその背景に存在する様々な要素を客観的に捉え、異なる社会を眺める必要がある。同時に、我々の社会を客観的に捉えるためには、異なる社会から我々の社会を眺める必要がある。このように、異なる社会と現代社会との間で、繰り返し視線を往復し考える中で、個別的な法・制度の理解にとどまらず、終局的には現代法の体系的理解にもつながりうる。すなわち、表層的な知識だけではなく、パーツとパーツを繋げて、法システムを立体的な構造として理解することが可能となろう。

 社会の多様性を理解し、現代法を体系的に理解し、日本社会の特徴を把握することができれば、それによって柔軟な思考が涵養されることと思われる。すなわち、現状を分析しながら、現行の法・制度を前提に様々な問題に対処しつつ、既存の枠組みで解決が導かれない場合であったとしてもそれに拘泥することなく、別の選択肢を考える余裕が生まれるのではないか。あるいは新しい事態に直面したときにも、立ち止まることなく、様々な可能性を積極的に考えることができるはずである。眼前の知識に終始することなく、思考の柔軟性を培うことは、「実学」の基礎を構築することにつながる。こうして考えれば、「実学」を重視するからこそ、むしろ、東洋法制史の講義は必要であると思われる。

 今ひとつ、東洋法制史の講義を通じて「なぜ、法学部で、歴史を学ぶのか」という問いを学生に示すことも、別の意味で重要である。

 学生が法制史を学ぶとき、「なぜ、法学部で、歴史を学ぶのか」という疑問に直面する。とりわけ、公務員を目指す、あるいは民間企業への就職を希望する大半の法学部生の将来の進路に、法制史は直接的な有用性はないようにみえるし、学生もまた――とりわけ「実学」を求めてくるような学生は特に――そのように認識しているように思われる。確かに、その意味で、東洋法制史は役に立たない学問である。

 むろん、東洋法制史を履修登録する学生は毎年一定数存在する。彼らは、たまには毛色の変わったものも勉強してみたい、あるいは、より直接的に、歴史あるいは中国が好きだからという理由で東洋法制史を選択するのかもしれない。つまり、彼らの選択の背景には、濃淡はあれ、東洋法制史に対する興味が存在すると考えられる。そして、私自身がかつてそうであったように、かかる興味こそ学びの出発点であることも確かである。

 しかしながら、それだけでよいのか。というのも、単純な興味からの学びは、単なる雑学の集積に終わる可能性が大きいように思われる。それだけでは、私が感じたような東洋法制史の面白さを感じることはできない。そうならないためにも、「なぜ、法学部で、歴史を学ぶのか」という問いは、常に念頭に置く必要がある。

 同時に、この種の問いは、法学部の他の科目を学ぶときにも「なぜ、それを学ぶのか」として考えなければならない、大事な問いである。すなわち、個々の科目を学んだ上で、法学部で最終的に何を得るのか、という問いに直結する。この点につき、学習する学生は自覚的であらねばならない。さもなければ、日々の学習は、それこそ単なる知識の収集となり、学びの姿勢も受動的なものとなるであろう。そればかりではない。「なぜ、自分は“大学で”それを学ぶのか」に学生自身が思いをはせなければ、大学は彼らにとって社会に出るまでの単なる通過点となり、大学教育自体が存在意義を失いかねない。

 「実学」を重視する「大学」だからこそ、こうした問いを積極的に考える必要があり、東洋法制史の講義は、そのきっかけを提供するのである。

 まだあやふやながら、以上に述べた考えの下で、私は帝京大学での講義に際して次の点に特に気をつけるようにしている。初回の講義では、まず、「なぜ、法学部の講義科目に法制史、特に東洋法制史という、一見まったく役に立たない科目が存在するのか、これを学んで何になるのか」という疑問を提示し、学生にこの疑問も持ちながら講義に参加するように促している。実際の講義においては、現代日本法との比較を心がけている。帝京大学では東洋法制史は 1年次配当であるため、教室には 1年次生から 4年次生までという、法学的知識に隔たりのある学生が存在する。とはいえ、現代法の知識については、 1年次生はまだそれがなく、 4年次生でもそれを忘れてしまっていることもある。そこで、比較を行う上での前提知識を与えるため、あるいは復習のため、一定程度現代法の説明を加えることにしている。その上で東洋法制史に関する具体的な法・制度を語る。その際には、「我々の社会からすると、変な仕組みだね。」と興味を引きつつ、「では、なぜ、こうなっているのだろうね。」という疑問を加えながら、話を進めている。

 まだまだ授業も手探りの状態である。それでも、授業をしていると、そのとき話題として取り上げている法制度とそれとは別の法制度との間に、私自身それまで気がつかなかったつながりが見えてくることがある。その場合には、「へぇ、これは、こうなっていたんだ。面白いね。」など口走ることもある。その面白さが学生に伝わっているとよいのだが。

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