『東洋法制史研究会通信』第30号(2017年1月)

《記事》

東洋法制史教育の意義について
──二つの講義ノートから──

七野 敏光



呆気にとられた一言

 四半世紀も前になる。1992年春、はじめて東洋法制史講義を担当する。妻(ダメ出し名人)をにわか学生にした予行演習に励み、毎回の講義に臨んだものである。束の間のバブル経済は既に綻びをみせ、「アジアの夜明け」などという、日本とは対照的に勢いづくアジア経済をもてはやすキャッチフレーズがメディアに躍る。「東方的特快車」を自称する中国は、先だっての(6・4)天安門事件がありもしなかったかのように、経済一辺倒の路線を走りだし、いわゆる改革開放経済のうまくいきそうな行方をだれしもが予感する。変革期的世相のさなかでの初講義だった。

 そんなある日、学生M君に尋ねられた。「先生、なんで東洋法制史なんてやってんのん」と。その後のM君とのやりとりをも含めて標準語訳すると、文字どおりそのままに、「先生、どうして東洋法制史などという学問を研究し、それを講義しているのですか」ということである。マイナーな講義科目と世間的に目されるがゆえに、わが講義を見下したりする失礼さ(東洋法制史担当者が、ややもすれば、情けなくも、嗅ぎとってしまいそうになる失礼さである)は微塵もない。研究・講義の意義を問う、唐突ながらも、きわめて学生らしい、しかしながら、例えば、憲・民・刑の解釈学を担当する者なら問われること自体稀かと思われる、そんな質問である。このM君の質問にどのように答えたか、詳細な記憶はない。おそらく、しどろもどろ、答えにならない答えを繰り返し力説したことと思う。「繰り返し(の)力説」とは、つまり回答内容によほど自信がなかたのだろう。人の常からして、いまなら素直にそう思う。

 山があるから登るんだタイプの私。その意義を考えあぐねつつ東洋法制史の研究をし、講義を担当しているわけではない。その私に、この唐突なM君の質問は、多分いけない。呆気にとられ、瞬時ポケッとした七野先生がそこにいた。いま「大学法学部における東洋法制史教育の意義」(編集委員からの執筆要請内容)についての一文を認めようとし、日記にも書けない小さな過去を、つい思い出してしまった。あるいは、この出来事、よくも悪くも、教師七野の人格形成上、案外重要な出来事だったのかもしれない。

なぜ学ぶのか

 とはいえ、1990年代初頭当時の私が、東洋法制史を講義することの意義、執筆要請に従うなら、東洋法制史教育の意義をいささかも語ることなく、講義を進めていたわけではない。当時作成し始め、いまも手元にある東洋法制史の講義ノートは、第1節「旧中国の法」(律令法を理解するための基礎的知識を述べる)、第2節「法典編纂史」(律令法の原理が一応の完成をみる唐代までの法典編纂活動の跡をたどる)、第3節「旧中国法制度の特徴」(刑法・訴訟法・家族法にみえる律令法の特徴を述べる)などからなり、第1節はさらに、「その研究意義と研究の歴史」と「法とその周辺」(律令格式及び儒教思想についての説明)に細分される。そしてさらに「その研究意義と研究の歴史」には、「なぜ学ぶのか」「なぜ学んだのか」という二つの小項目を設け、前者「なぜ学ぶのか」では、現代における律令法研究の意義を述べ、後者「なぜ学んだのか」では、わが国古代及び近世における律令法継受の問題を扱う。このうち「なぜ学ぶのか」で述べる内容は、そのまま東洋法制史教育の意義ともなろう。

 述べられる意義は二つ。その一つは、律令法の研究が現代中国の法制度を理解するために有用だということである。秦の始皇帝による統一以来、2000年にも及ぶ中央集権支配が行われた中国。その支配権力を支えたものが律令法であり、その律令法と現代中国の法とは完全に断絶したものか。やはり過去の歴史を背負いながら現代中国の法はある。歴史が長いだけに、その重みもなまなかではない。それゆえ律令法についての研究は、自ずから現代中国の法についての認識を深化させる。やみくもな法文解釈では到達し得ない、より深みのある理解へと律令法研究が導いてくれると、ここでは述べられる。

 その二つは、律令法の研究が他ならぬ現代日本の法制度を理解するために有用だということである。日本の法制度は過去二度にわたり外国法を継受し練りあげられた。その一度めは古代における中国律令法の継受である。わが国は中国の王朝国家に範をとり、しかも独自の体制をも巧妙に維持しつつ王朝国家を樹立した。その支配権力を支えた法はやはり律令法である。その二度めは明治維新以降の西欧法継受である。日本はドイツ・フランスの大陸法に範をとり近代法制度を施行する。現代日本の法制度が、この西欧法の継受を基礎として成り立つことは間違いない。しかしそれ以前、日本が中国律令法を継受し、その影響下に法制度を発展させたことも、また動かし難い事実である。このように考えると、われわれの法制度は決して単純なものではない。あるいは固有法が、あるいは律令法が、またあるいは西欧法が混然一体と織り込まれた布地にも譬えられよう。ここに、わが律令法の母法たる中国律令法を研究する、いま一つの意義がある。その研究はまた自ずから、現代日本の法制度についての認識を深化させるのであると、ここでは述べられる。

講義を作る

 講述したつもりの意義が伝わらない。だからM君の質問がある。がっかりもしたが、いまではそれも仕方がないことと受けとめる。所詮は先達の意見を受け売るばかりの駆けだし講義。先達に導かれながらも、一から作りあげなければ 、やはり自分の講義ではない。口先ばかりは動いても、前記講義の意義などを、しかと伝え得る道理もなかったのである。

2000年春、転機が生ずる。関西地方のある私立大学で現代中国法の講義(「アジア法」講義)を担当することになる。以後、都合六つの大学・大学院で現代中国法の講義を担当する端緒である。それ以前二三の文章をものした中華人民共和国婚姻法を中心に講義ノートをまとめ、過去と現在の中国法を絡めて述べる、一風変わった講義を目論む。その後、この講義ノートを補訂して出版するつもりが、諸般の事情から出版は取り止め。講義ノートはそのまま、まぼろしの著書『中国法論:時のはざまで考える』として、いまも重宝している。その「まえがき」を転記して拙文の結びへとつなげたい。

………………………………………

 本書は中華人民共和国の婚姻法について語るものである。ただ、著者自身は中国法制史家であり、中華人民共和国の婚姻法についても過去の家族法を理解する必要上学び始めた。その意味で、現代の婚姻法について語りつつも、著者の意識は常に法制史家である。そのために、かなりの部分過去と現代の法とが交錯した内容となることを免れない。あらかじめ了承されたい。過去と現代とを一貫した中国法論の試みだと考えていただければ幸いである。

 以下、本書の構成および内容につき簡単に説明する。

 2000年4月、はじめて「アジア法」講義を担当する(於KNN大学・法学部)。このとき一つの選択をした。いわゆる概論的に中華人民共和国法を語るのではなく、婚姻法という特定の法分野に焦点をあて講義を進める方法を採ったのである。本書の内容は、以来5年にわたり補訂を重ねた、大学での著者の講義内容をほぼそのまま文章にしたものである。

 漢代以降中国社会を支配し続けた儒教倫理。その儒教倫理に絡みつかれた家族関係、ひいては社会関係全般を変革するために中華人民共和国婚姻法は制定された。とするならば、過去の法を学ぶ著者には、既存のものとはまた一味異なる婚姻法の説明が可能なのではないか。こうした思いが大学での講義を支え、ここでの叙述に至っている。ある意味、小生意気な叙述である。とはいえ、婚姻法全般に小生意気さを発するほどの力量は到底著者にない。また、それは力量以前にしてはならないことである。無用に過去と現在の法とを交錯させ語ることは、かえって、それぞれの法の理解を妨げることになり、その叙述自体、たちまち自己満足のたわごとに堕してしまうからである。この点を踏まえて、婚姻法のなかでもごく限られた範囲に話題を絞り込み、ここでの叙述内容とした。例えば、同姓不婚や夫婦別姓(2 中国人と姓)などは、こうして絞り込まれた話題の典型であり、また一見過去の法とは無関係に見える一人っ子政策(3 一人っ子政策と婚姻法)の話題がここで採りあげられていることも、当該箇所を一読すれば、自ずから得心していただけると確信している。

 個別の話題に先立つ部分、とりわけ「中国における家族法の歴史」には、かなりの紙幅を割いた。皇帝制度の終焉、人民中国の成立、文化大革命という政治の嵐のなかで変わりゆく家族法のあり方をやや詳しく描いてみた結果である。ここでの叙述を通じて政治ないしは社会変革と家族法の密接な関係を是非とも理解していただきたい。また、この時期の中国の歴史は現代の社会と直接に結びついている。例えば、二つの中国問題や改革開放の発端いかん。丁寧に読み込めば、こうした疑問にも応じ得るように叙述を工夫したつもりである。婚姻法についての理解とは別に、こうした中国近現代の歴史の流れについての興味をも抱いていただければ幸いである。

………………………………………

最後の一言

 この「まえがき」から想像していただけるだろうか。もちろん、現代中国法の講義で、あらためて私が東洋法制史教育の意義を述べることはない。しかし、小生意気な行論のすべてがその意義を見せつける、なんとも法制史家手前味噌的な講義だともいえる。中華人民共和国の婚姻法が妙に規制的な事実(例えば、計画出産に関連する規定があるだの、かつて「愛人禁止令」と揶揄された規定があるだのと)に違和感を指摘し、私的な権利などとは無縁にたてられた律令法の世界を垣間見せつつ、婚姻法と家族法(財産法とともに民法を形成する法の一分野)とを、パラレルに比較することの難しさを説く。むしろ、婚姻法は国家統治の立場から、中華人民共和国における婚姻と家庭生活の正しいあり方を指示する、婚姻行政法なのではないかと説いてみる。義務の体系たる律令法(「ああしなさい、こうしなさいタイプの法」と私は呼ぶ)を知る者にとり、あながち荒唐無稽な考えではない。学生がこの議論をどのように受けとめるのか。正直気にならないこともない。だが、いまのところ、変わりもの見たさもあってか(実利的有用性からわが講義を履修するわけでもないだろう)、相当数の学生が集まり、私自身この一風変わった講義をすることを楽しんでいる。とにもかくにも、みずみずしい学問的精神をもつ学生諸氏に感謝しきりである。

( All rights reserved by the author )

back to INDEX