『東洋法制史研究会通信』第31号(2017年8月)

《記事》

続・朝鮮刊『大明律講解』について

田中 俊光
(亜細亜大学アジア研究所嘱託研究員)



 筆者は2015年2月発行の本誌28号に、朝鮮王朝で用いられた明律註釈書である『大明律講解』に関する紹介文を寄稿した。同内容は本来、日本の東洋法史研究者に向けたものであったが、程なくして韓国の学界からも反応があった。まさにweb公開の賜物といえようが、近年の韓国では明律関係本に関する系統研究や書誌学的なアプローチが活発に進められていることもあり、数多くの有意義な指摘や示唆を受けることができた。なかでも、昨年1月にソウルで行われたシンポジウム「『大明律』および『大明律直解』に関する総合的検討と理解」において、延世大学校法学専門大学院の沈羲基教授と高麗大学校国語国文学科の張景俊副教授から、拙稿の見解への批判があり、両氏の報告文を骨子とする論文――沈羲基「律解弁疑・律学解頤・大明律講解の相互関係に関する実証的研究」(以下、沈論文)および張景俊「朝鮮において刊行された大明律‘郷本’について」(以下、張論文)――が、『法史学研究』53号(韓国法史学会編、2016年4月)に掲載された。そこで本稿では、両氏の批判に応えるかたちで前稿の内容に補足・訂正を加えつつ、韓国における『大明律講解』研究の最新の成果をお伝えしようと思う。

1.『大明律講解』の流布本と異本

 筆者は前稿で、現存する『大明律講解』について、2種の活字本と4種の木版本を挙げ、それらは誤字や若干のレイアウトの異同を除けば、内容はほぼ同じであると述べた。ところが、最近の調査を踏まえた張論文によると、木版本には前稿で挙げたもの以外に全州で刊行された完営本などがあり、活字本も甲寅字系本と全史字本のほかに1455年に鋳造された乙亥字を用いたものが現存するという。張論文が「増補本」と称するこの乙亥字本は、増補前の「原刊本」と同様に、律文の後に「講曰」および「解曰」から始まる註釈が附されているが、その内容の後に『律解弁疑』、『律学解頤』、『律条疏議』、『唐律疏議』を中心に、『大明律直引』、『釈文』、『吏学指南』、『吏文輯覧』、『無冤録』などの内容が追加で載録されていると指摘する。「増補本」は現在、韓国国内には①嶺南大学校図書館、②高麗大学校中央図書館、③ソウルにある古書肆の華峯文庫、海外には日本の④尊経閣文庫に所蔵されていることが確認されている。①は巻1(上)のみの零本1冊(嶺南大学校民族文化研究所編『嶺南大学校中央図書館所蔵貴重図書資料集1』〔ソウル:景仁文化社、2012年〕に「大明律解講」として収録)、②は晩松金完燮の旧蔵本で巻2~4および巻19~20の零本2冊、③は巻28~30の零本1冊と、いずれも端本であるのに対し、④は全26冊の完本である。張論文は①~④すべてを同版と見ている。
 筆者はこれまで「増補本」の存在を知らず、実見したこともなかった。現存する『大明律講解』のほとんどが「原刊本」(なかでも全史字本と箕営新刊本が多い)であるとはいえ、異本の存在可能性に留意する意識が低かった点など、筆者自身の調査の杜撰さや見識の狭さに忸怩たる思いである。「原刊本」のみを以て『大明律講解』を論じた筆者の前稿に対する沈論文や張論文の批判は妥当であり、両氏に深く謝意を表したい。
 筆者は、現在も依然として「増補本」を閲覧できずにいるが、張論文の末尾には、②晩松文庫本の巻第二十のうち、59~61丁の写真(父祖被殴条の収録部分)が掲載されている。この3枚の撮影画像を参考に内容や様式を略述すると、まず、版心は大黒口で版心題に「大明律」とある。律文は、「原刊本」では2行目以降を低一格で記すのに対して「増補本」は字下げせず、註釈部分の「講曰」は、「原刊本」では律文から改行せずに小字双行で示すのに対し、「増補本」は改行して全体を低一格の単行大字で示しており、版式がまったく異なる。そして、「増補本」には、律文末尾に「弁疑」、「解頤」、「律条疏議」と出典別に項目が設けられ、低一格の単行大字でそれぞれの註釈が載録されている。増補された箇所は、載録された註釈書単位で改行せず、すべて前詰めで記されているため、それぞれの項目がどこから始まるのか視認性が低いのが気になる。
 前稿で述べたとおり、『大明律講解』の「講曰」および「解曰」から始まる註釈は、『律解弁疑』を典拠としつつも、その全文を抜粋するのではなく、一部は内容を省略し、または表現を簡潔にするなどの取捨選択が行われていると考えられるが(この点について、張論文はその可能性を認めつつも、より詳細な検討が必要であるとし、沈論文は『律解弁疑』と「原刊本」それぞれの名例律各条に附された註釈の比較分析を通じて、「原刊本」殺害軍人条の註釈が『律解弁疑』と『律学解頤』の註釈を組み合わせたものであることを明らかにし、「原刊本」の註釈に『律学解頤』も多大な影響を与えていたと主張する)、「増補本」は増補部分に更に「弁疑」の項目を設けて引用している。前述の画像を見ると、「講曰」の内容は「原刊本」「増補本」ともに変わらない。そこで改めて引用元の『律解弁疑』父祖被殴条を確認すると、「増補本」に追加された『律解弁疑』の註釈は、「原刊本」編纂時に載録から除外されたものであることが分かる。また、「律条疏議」の項目では、引用元である『律条疏議』父祖被殴条の「疏議曰」や問答、「謹詳律意」の内容すべてが載録されている。そのため、一見すると「増補本」は「原刊本」で載録されなかった『律解弁疑』の註釈を追加し、明律註釈書諸本の該当条文の内容を丸ごと掲載しているようにも思われたが、実際はそうではない。「解頤」の項目について、引用元の『律学解頤』父母被殴条と対照すると、引用元にある4件の解釈事例や問答のうち、夫側の祖父母・父母と妻側の祖父母・父母が互いに闘殴した際に、その夫婦の子や孫の婦がちょうど即時来救しても夫側の祖父母・父母に反撃してはならず、これを犯したときは常律に依って斬に処すべきとする1件のみが「増補本」に引用されていない。同内容は『唐律疏議』所収の解釈を継承したものであるが、「増補本」で載録から除外された理由は何だったのか。この点について考察することで、「増補本」編纂における註釈追加作業の方針がある程度明らかになるように思われる。
 以上、張論文に掲載された数枚の「増補本」の画像からという、極めて限られた条件で「原刊本」と「増補本」の大きな差異について気付いた点を述べたが、このような考察はもとより限界があり、「増補本」を実際に調査して「原刊本」と比較する作業が不可欠であることは言を俟たない。張論文によると、「増補本」の完本を所蔵する尊経閣文庫で、2015年から同氏をはじめとするメンバーによって調査が進められているという。その成果にも期待したい。

 次に、『大明律講解』の編者について、筆者は前稿において朝鮮人であろうと述べたが、張論文もまた、①当時の中国の史料に『大明律講解』に関する記述が皆無である点、②筆者も前稿で示した、『大明律講解』に対して「既非中国頒降成書」と評する『世宗実録』の記録、③「増補本」の註釈に、崔世珍(生年不詳~1542年没)が中宗34(1539)年に編纂した『吏文輯覧』が引用されている点などから、朝鮮で編纂された可能性が極めて高いと指摘する。このうち③については、中国で編纂された「原刊本」に朝鮮で註釈を追加して「増補本」を編纂した可能性を想定する沈論文の見解も否定できないが、張論文が挙げる理由などから総合的に勘案すれば、『大明律講解』は「原刊本」「増補本」いずれも朝鮮人によって編纂されたものであると見てよいと思う。

 最後に、「原刊本」と「増補本」の刊行年について、初版「原刊本」の刊行年は依然として詳らかでないが、前稿で述べたように、遅くとも15世紀前半の世宗代には版行されていた。朝鮮王朝実録によると、15世紀後半の成宗9(1478)年に『律学解頤』と『律解弁疑』の註釈を明律に添入した法律書を刊行するよう王命が下された。沈論文はこの王命が「増補本」刊行の契機と関連があると見るが、「増補本」は『吏文輯覧』を引用していることから、その初刊年はそれより60年以上経過した1539年以降まで待たねばならない。張論文は、版式や紙質、活字の状態などから、「増補本」を16世紀後半の刊行と推定する。
 現在所在が確認されている「増補本」は、「原刊本」と比べてごく少数である。張論文は、「増補本」が16世紀末の壬辰倭乱(文禄の役)以降鳴りをひそめ、むしろ「原刊本」系の『大明律講解』が18世紀以降に地方の監営で重刊されて広く流布したことを指摘し、その理由について、新たに朝鮮に伝来して覆刻された『大明律附例』に附された註釈が、「増補本」の註釈に取って代わったためと仮定する。しかし、そうであれば何故「原刊本」系の『大明律講解』がその後も存在価値を失わず大量に重刊され続けたのか、もう少し納得の行く説明が求められよう。一方、沈論文は、『大明律講解』には明律本文と原註が省略されずに収録されていて、なおかつ冊数も通常3冊程度に収まるため、律官や律生にとって持ち運びに便利だったことを理由に挙げている。このように沈論文は、『大明律講解』には同書に附された註釈よりも律条文に価値があったと見て、従来の研究における『大明律講解』の註釈書としての評価に対して懐疑的な立場を示している。

2.『大明律講解』の註釈書としての価値

 『大明律講解』に関する従来の研究では、同書は朝鮮において明律を解釈するための主たる註釈書として、遅くとも15世紀前半から大韓帝国期に至るまで、長きにわたって実用されたと認識されてきた(鄭肯植・趙志晩「解題」〔『大明律講解』、ソウル大学校奎章閣、2001年〕および鄭肯植「朝鮮前期中国法書の受容と活用」〔『ソウル大学校法学』50-4、2009年〕)。筆者も同様の考えから、前稿で「朝鮮刑事法の妥当な運用を下支えする優れた註釈書として、また、律官を養成する指定教科書として幾度となく刊行」されたと紹介した。これに対して沈論文は、①序文と跋文がなく、「講曰」および「解曰」から始まる註釈に引用元の典拠が示されていないため、『大明律講解』は『律解弁疑』、『律学解頤』および『律条疏議』よりも註釈書としての品格が低く、②「原刊本」の註釈の数が、ほかの明律註釈書諸本と比較して全般的に少ないという量的問題と、③実際の刑事事件の処断において朝廷で明律の正確な解釈が求められた際に、『律解弁疑』、『律学解頤』および『律条疏議』の註釈内容については言及される一方で、『大明律講解』については全く触れられておらず、解釈をめぐる議論の助けになる註釈が『大明律講解』は備わっていなかったという質的問題という両側面から、『大明律講解』の註釈はほかの註釈書よりも疎略であり、『大明律講解』に註釈書としての独自性や優れた点はなかったと論じている。
 沈論文は、前稿で筆者が『大明律講解』を「優れた註釈書」と評したことについて「大袈裟な位置付け」と批判する。そして前述のとおり、「原刊本」が長期にわたって広く普及した理由について、律本文と原註が省略されずに収録されていた点に価値があったのであり、註釈書としての価値は低かったと結論付けている。これに対する筆者の意見として、上記③の『大明律講解』の質的側面に対する沈論文の評価について、以下の2点から再反論を試みたい。これは、沈論文がいずれも15世紀後半の朝鮮王朝実録の記録を用いており、朝鮮前期の史料のみで大韓帝国期に至るまでの『大明律講解』の位置付けを総論し得るだろうかという疑問に基づくものである。
 まず、朝廷での王と臣下の政策論議が詳細に記録されている『承政院日記』の中で、明律条文を示した後に「註云」または「註曰」のかたちで引用されている内容の典拠を検討すると、「原刊本」の「講曰」に収められている註釈がほとんどで(例えば、仁祖21〔1643〕年7月戊申、顕宗元〔1660〕年12月丙戌、同王5〔1664〕年閏6月甲戌、景宗元〔1721〕年11月丁未、正祖5〔1781〕年5月甲午、同王6〔1782〕年正月癸亥など)、あるいは『大明律附例』の註釈が引用されているものもある(例えば、正祖5〔1781〕年5月甲午など)。また、大韓帝国期に地方裁判所から法部に送付された公文書を綴じた『司法稟報(乙)』の質稟書第15号(光武8〔1904〕年7月12日)では、殺人事件に適用する法令として明律闘殴及故殺人条「講曰」と明示され、その註釈が引用されている。一方で、「原刊本」に存在せずに、『律解弁疑』、『律学解頤』または『律条疏議』のみに存在する明律の註釈が引用されている事例は、管見の限り『承政院日記』には見当たらない。

 次に、18世紀後半に具允明によって編纂された『典律通補』は、『経国大典』、『続大典』および『大典通編』といった朝鮮の独自法典と明律を中心に、当時の法規を1つに統合した私撰の法律書である。同書は王から編纂の支援を受けながらも、結局公刊されることはなかったが、筆写本として江湖に広く流布した。同書はその編纂方針により、収載された各規定にすべて出典が示されており、明律からの載録箇所には文末に「律」と表示された。この「律」には、同書の凡例で「曰律者、大明律也、而出於講解・附例者、並称律」と定義しているように、『大明律講解』と『大明律附例』の註釈が明律条文とともに収載された。ほぼ同時期に『増修無寃録』の編纂を手掛けるなど、諸制度に精通していた具允明が、『典律通補』に添入した「律」に『大明律講解』の註釈を採用したことは、同書を「刑事法の妥当な運用を下支えする優れた註釈書」と評する表現はいささか誇張に過ぎたとしても、18世紀後半に至ってもなお、『大明律講解』が註釈書としての価値を決して失っていなかったことを示す証左であろう。

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