『東洋法制史研究会通信』第32号(2018年8月)

《記事》

絶  学

寺田 浩明



 本年三月に京都大学を定年退職した。何処でもそうだろうが、退職するとなると教授会用・送別会用と幾つかのスピーチを用意しなければならない。実際には時間の都合であちらこちら割愛したが、以下は一番最後の教授会懇親会用に用意した挨拶の原稿である。

*

 「絶学」という言葉があります。改めて辞典を引くと思いの外に色々な意味が出てきてびっくりしますが、実際に漢籍で見る用例の大半は以下の二つに帰着します。第一は「学を絶てば憂い無し」という老子の言葉とその注釈です。文章の意味は我々にとっては余りに身にしみますので、今さら説明する必要はないでしょう。もう一つは、「往聖(或いは去聖または前聖)の為に絶学を継ぎ天下の為に太平を開かん」という宋代の儒学者・張横渠の言葉とその注釈です。文章の後段については何か聞き覚えがあるかと思いますが、知る人は知るとおり、ここは終戦の詔勅の有名な一節の元ネタになりました。ただ大事なのは前段。これは宋代に儒学の改革を目指した人達が、漢代以来唐代までの儒学は往聖、即ち孔子・孟子の本来の教えから遠く離れたものである、偽学者の為に孔孟の教えは絶えてしまった、そこで自分達がその絶えた教えを継いで本来の儒学を復興するのだ、という宣言の文章であり、「絶学」とは、継承する者が無いために廃れ絶えてしまった学問を意味します。学問の廃墟ですね。今回、問題にするのは、こちらの絶学です。

 どうして私がこんな哲学用語を知っているのかと言えば、四半世紀ほど前、私が四十八歳の時に、中国政治思想史の佐藤慎一先生から教えて貰ったからです。その頃、私は千葉大学の法経学部に居りました。千葉大学法経学部は、その十年ほど前に文理学部を文学部と法経学部に分離独立する仕方で作られました。当初の構想では、余り時間をおかずに法経学部を再分割して法学部と経済学部を作る予定でしたので、法学科も経済学科も最初から標準的な地方大学の学部クラスの大きな編成をとっていました。急激に人集めをする必要があったので、法学科は東大法学部の学卒助手上がりや博士号を取得まぎわの若者を一挙に大量に採用し、皆さんがよく名前を知っている人では民法の河上正二さんや法哲学の井上達夫さん等が同僚として居ました。また当時は東大の定年は六十歳、それに対して千葉大学等の地方国立大学の定年は六十五歳というギャップがありましたので、東大法学部の定年退職者の格好の再就職先ともなって、星野英一先生や松尾浩也先生といった東大法学部長経験者を次々にお迎えしました。新興学部で制度も規定も何も整備されていなかったので、元気満々の若手達がこうした大先生達を御神輿に担いで、教務制度・予算制度・人事制度から研究図書の登録の仕組みまで、理想の学部組織の一切合切を新たに作る楽しい日々でした。

 そうした所に或る日、東北大学法学部の法制史の方々から移籍のお誘いを頂きました。とにかくそれまでは女房も私も東京周辺で生きており、東北方面には全く縁がなかったので、当時東北大学に居られた研究室の先輩・佐藤慎一先生に電話をして、さてどうしたものでしょう(どうしても行かなくてはいけないものなのでしょうか)と聞いた所で、先の「絶学」という言葉が出てくることになります。佐藤先生曰く、お前は千葉大学の暮らしが楽しくて毎日タラリララーとか言ってはしゃいでいるようだが、東大では滋賀秀三先生の後を継ぐ者が居ない(それについてはお前も少しは責任がある)。また千葉大学法経学部には博士課程が無い以上(当時の実情はそうでした)、どう頑張ってもそこでは後継者の養成は出来ないだろう。このままではせっかく滋賀先生が作り上げた東洋法制史という学問がお前の代で絶えてしまい、誰も継ぐ者が居ない学問、即ち「絶学」になってしまうぞ。お前はそれでも良いと言うのか。この言葉が決定打になって、翌年、私は東北大学に移籍をすることになります。

 ただまあ人間それほど変わりませんので、東北大学に移った後も、そして更にそのあと縁あって京都大学に移った後も、基本的には相変わらずタラリララーと言って楽しく暮らしてきたのですが、一応私にも少しは責任感がありますので、それでも時々は、あー、ちゃんとやらないと絶学か、と重く暗い気持ちになることもありました。

 ところが、さて本日、晴れて私も定年になりました。幸いにも後任も決まって既に着任までしております。あー、少なくとも私の代では東洋法制史学は絶学にならないで済んだ。良かった良かった。そしてここから先はまあ何を無駄なプレッシャーを掛けているんだということにもなりますが、今後については絶えると絶えないの責任は挙げて鈴木君の上にある。こうして「絶学」という言葉もちゃんと教えたぞ。後はどうぞ宜しく。私の方はこれからは「学を絶てば憂い無し」で楽しく過ごすことにしよう。最後にこれが言いたかった(笑)。

 まあ冗談はさておき、東洋法制史学には良くも悪しくも、そうした他の学問では考えにくいような話が付いて回っていることは確かな事実です。鈴木君もこれから大変ですが、教授会の皆さんにもどうぞこれまでと同様、この学問に対するご支援とご同情を賜れれば幸いに存じます。長い間、どうも有り難うございました。

*

  スピーチの中身は以上のとおりである。小話のオチはこの程度が相応しく、そして絶学の語の表向きの意味理解もこれで良いのだろう。ただ、少し考えてみれば、この絶学という言葉にはもう一つの側面があることはすぐに分かる。

 と言うのも、宋学者達は絶学を継ぐと言うけれど、実際には漢代以来唐代まで、儒学は国学として隆盛を極めていた。孔孟の学を継ぐ者がいなかったのではなく、むしろ宋学者達がそれら全部を偽学として否定したのである。学問は単に後に人が繋がっていれば良いというものでもない。ただこれを逆にして言えば、そうした言葉が語られる時には、真に学統を継ぐ(と自称する)者が既に現れている、ということでもある。絶学という言葉は常にそうした文脈の中で語られる。逆説的ながら絶学という言葉が出た途端、それは絶えてはいないのである。

 さてそうだとなると、今後このさき「往聖の為に絶学を継ぎ天下の為に太平を開かん」と言って滋賀先生の学問を継ぐ野心溢れる人が私とは別に現れる、という話も十分にあり得ることになる。そしてそれはそれで十分に魅力的な展開のような気もしないではない。

( All rights reserved by the author )

back to INDEX