『東洋法制史研究会通信』 第5号(1991年5月1日)

《書評》

季衛東「調停制度の法発展メカニズム──中国法制化のアンビバレンスを手掛りとして」
(一)、(二)、(三)(民商法雑誌102巻6号、103巻1号、2号、1990年)

高見澤 磨





 立法は、現実に頻繁に起こるか否かは別にして、観念的に想定し得る全ての事態に対応すべく整合性を有する(抽象的、一般的規定を解釈、運用することも含めて)閉じた系であり、紛争は、その法に基づいて、最終的には強制によって担保される判断を得る手続き(典型的には、判決−強制執行)によって処理される。これが従来、近代的法体系の基本として考えられてきたように思われる。しかし、著者は、本論文で、中国においては後者の紛争解決手続きにつき、調停が優位であることを述べ、むしろこのことが法発展の契機となっているとする。評者流に言わせれば、調停は、当事者の合意と、それを得るための調停者による説得という閉じられていない系である。前者については、中華人民共和国には、試行という制度があり、これも系を閉ざそうとしない制度であるが、これについても著者は、「法律試行の法反省メカニズム−中国の破産制度の導入過程を素材として−」(1)、(2)民商法雑誌101巻23号(1989)、24号(1990)で同様の評価をしている。

一 ADR(Altanative Dispute Resolution)論との関係

 判決・強制執行型の紛争解決体系がたとえ基本ではあっても、その社会的コストを考えると、当事者や社会にとって良いものとは言えないこともある。この点がADR論の出発点であろう。アメリカの法律家が中国の調停に興味を持つのも、この点からであろう。この意味で、著者がADR諭をも念頭において中国の調停を論じているのも意義のあることである。

 精緻な立法と判決・強制執行とをセットとする法体系を整えることを近代化ととらえ(一元的近代化論)、その上で、これを法文化論と結びつける(精緻な立法+判決・強制執行のセットを持たない、持とうと努力しない、持ってはいるが形式にすぎない、といった状態であることを説明する手段として「法文化」を用いる)場合には、意識的、無意識的に法文化が「低い」、「高い」と言いたくなってしまう。だがこれでは法を切り口としてある社会を豊かに論じることはできなくなり、法文化概念を使うおもしろみが減じてしまう。この点で著者が、ADR論とからめて中国の調停に新たな意味付けをしようとすることは意義がある。しかし、中国の調停は、精緻な立法+判決・強制執行のセットが創出可能であるにもかかわらず、それとは別に選択されたというものではなく、そうできなかったので、調停が優位にあるという側面を無視しえない。中国の調停と法一般の議論(とくに先進国におけるADR論)とを直接結びつけることは、論理の展開として、ついていくことにためらいを感じる。

 また、著者は、法の試行、調停による創造機能を一定程度評価する。だからと言って、本論文102巻6号49頁(739頁)(以下、102−6−49(739)のように表す)に言うような「点検権」、実質上の「提案権」という概念を用いることが適切であるか、疑問である。国家の立法に対する権利として「点検権」、「提案権」なるものが人民に与えられているわけではない。試行なり調停なりの過程で得られる各方面の意見は、国家にとり、参考資料であるにすぎない。著者は、102−6−72(762)で「国家法が柔軟的に自己調整しながら民間調停の非法的領域に進出し、帰納的に社会規範を吸収・消化しながら自己発展をはかる」としている。これは調停優先の法が法優先の調停を可能にしているということの意味なのだが、その「法J自身が空白部分を持つものである。中国の調停が「合法」原則を強調しても、その「合法」にいう「法」が、そのようなものである以上「法優先の調停」と言うだけでは、説明不足である。

 本論文の手法は、実証ではなく、モデル(「理念型」)を組み立てることにある(102−6−52(742))が、そのために全体の論の進め方が駆け足になっている。103−2−43から−4(211−212)では、そのモデルもまだ著者自身満足いくものではなく、実証研究を必要とする旨のべている。この書評での評者の疑問もここに発するのであろう。

 二 文化論等とのかかわり

 著者は、「国家秩序と村落秩序との二分法的枠組」が打破されたか否かが、現代中国社会が統治行政の統一性を確立しているか否かの判断の基準であるとする。(102−6−50(740)。故に、著者は、国家−社会二元論、または、国家−共同体(地方共同体群(102−6−57(747))を前提としている。さらに、「中国人には訴訟嫌い=調停好みという伝統が厳然とあ」ったことを調停優位の出発点としている(102−6−54(744)。この点についての論拠にJerome A.Cohenをあげているのも問性がある)。この二点は、中国法制を論じる際、きまって用いられる話の枕である。しかし、こうした前提を以て論じるなら、一元的近代化論に立つ法文化論と変わりがない。国家−社会二元論ではなく、国家も末端において、同宗、同郷、同業団体を利用し、また、諸団体も国家を背景としているというとらえ方も可能ではないか。また訴訟を好まぬ点では、どの国も同じで、世上喧伝されるところのアメリカの例もむしろ世界の中で例外と見るべきではなかろうか。枠組研究に際しては、前近代をどのようなモデルでとらえるかが、重要であるが、この点で問題を感じる。

 三 言語論との関わり

 103−2−27(195)で応該を日本語の「すべき」とし、必須を「しなければならない」としたうえで、前者にはshouldの意、法的義務はなく、道理からして当然すべきとし、後者を義務行為の使うとする。しかし、この部分の記述には何ら参考文献があげられていない。中国人である著者の語感によるのか。この点は、注でなりとも展開してほしかった。法の条文の文言として「すべき」であるとされる以上は、「しなければなならない」ということと違いがあろうか。問題は、中国における条文用語の不統一ではないかと思う。もちろんこの不統一の裂目から中国人の義務に関する考え方を言語の点から考察することは興味深いことである。

 結

 本論文はADR論との関わりを中心に論点を抽出した点で、日本語文献としては新しさを有している。しかし、そのモデルの前提が二で述べたように旧来のものに乗っている面が見られる。

 また、ひとつの文、論文全体いづれについても、情報を盛り込みすぎで、若干読みにくい印象を持った。

 評者としては、中国の調停、法の試行ともに、手続き的、形式的正義を実現する精緻さを得ようとしても得られない、あるいは、得る気がないことから生じていると考える。特に今日中国は、香港、マカオ、台湾との閲係、その他各回との開放政策との関係で、外から見てわかりやすい(予測をたてやすい)法体系を必要としている。故に、調停、試行に法発展メカニズムを積極的に読み込むことは、読み込みすぎである。いわばけがの功名として発展の契機ともなりうる、あるいは、直輸入以外の方法で全く新しい法休系を創出しようとするときの工夫のひとつとなりうると考える。このような見方は、中国法を外在的に、対象としか見ていない外国人である評者の立場に由来するのかもしれない。

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