『東洋法制史研究会通信』 第7号(1993年5月1日)

《書評》

SOULSTEALERS The Chinese Sorcery Scare of 1768 
PHILIP A.KUHN Harvard University Press 1990年

喜多 三佳



 最近二年来、中国法史(中国法制度史と中国法思想史とを含む)の研究は既存の基礎の上にさらに発展を深め、多くの新たな成果を得た。

 本書の宣伝文によれば、著者は、ハーバード大学のフランシス・リー・ヒギンソン歴史 学、東アジアの言語・文明学教授であり、他にRebellion and Its Enemies in Late Imperial China(Harvard)という著書があるそうである。

 本書は、1768年(乾隆33年)に起った妖術パニックの分析を通じて、当時の社会と政治制度について考察を加えたものである。著者も書いているように、この「事件」は、判決記録の中には残っておらず、資料としては、■【石朱】批奏摺や宮中档を用いている。なお、著者によれば、本書中の“Soulstealing”は「叫魂」の訳語である。

 以下、各章の内容を簡単に紹介する。

 第1章は、事件の始まりについて述べる。ことの起りは、乾隆33年早春に始まった浙江省徳清県の水門工事である。石工が杭を打ちこみやすくする呪いの材料(人の名前を書いた紙片。名前を書かれた人は魂をとられて死んでしまうと信じられていた)を捜しているという噂が広まり、殺したい相手の名を書いて石工のところへ持ってくる者あり、石工の手下と思われて捕まる者ありという騒ぎになった。また同じ年の4月には、同省粛山県で托鉢中の遊方僧が、弁髪を切って魂を盗む妖術使いだと思われて逮捕されるという事件が起きた。5月になると、江蘇省の蘇州府でも「弁髪切り」事件が起り、6月には江南全体に恐慌が広がった。

 第2章は、乾隆帝の「盛世」にどうしてこのような恐慌が起きたのかという点を分析する。著者は、人口増加が人々の生活を圧迫し、地域的経済格差が人口流動(労働者、乞食、僧・道士)を促したと指摘する。そして、目に見えない力(人口増加)によって生存を脅かされていることが「魂を奪われる恐れ」という形で現れ、その犯人と目されたのは道路にあふれている「よそもの」であった。また、市場網の発達が情報の伝播を容易にしたので、ひとたび恐慌が起きると、またたくまに数省に広がったのである。

 第3章は、弁髪(というより、むしろ前頭部を剃ること)の強制の歴史をたどり、「弁髪切り」(清朝への反抗のシンボル)が皇帝にとって微妙な問題を呈示したことを述べる。民衆が恐れたのは命を失うことであったが、皇帝は反乱の陰謀を恐れていた。

 第4章は、山東省から皇帝に報告された5件の妖術事件(うち4件は弁髪切り事件)を紹介し、清律中の妖術禁止規定(名例、礼、刑)についても検討する。著者によれば、礼律の祭祀・儀秩に出てくる妖術と刑律の賊盗・人命に出てくる妖術は性質が異なり、前者は一種の詐欺、後者は妖術としか思えないような凶悪犯罪である。

 第5章は、妖術(霊界を支配することにより、個人の力を拡大すること)の仕組みについて述べる。病気や死亡の際に「魂」を呼び戻す(招魂、叫魂)風習や、髪の毛が必要な理由を説明し、建築家や僧・道士が最初に疑われた理由を分析する。また、身分登録のない見習い僧や俗人乞食が、「危険なよそもの」として妖術と結びつけられたことをも指摘する。

 第6章では、奏摺システムによる皇帝と高級官僚との連絡について述べる。総督・巡撫は最初、できるかぎり事件を隠そうとし、情報のコントロールをめぐって皇帝と官僚たちとの間に競争が生じた。皇帝が江南の事件について正式に報告を受けたのは8月に入ってからであった。また8月には妖術が直隷省にも入ってきており、妖術の効果を免れるためには残った弁髪を根元から切ってしまわなくてほならないという噂が省内で広がっているとの報告ももたらされた。

 第7章では、各地で妖術の被害が報告され、妖術使いが逮捕されたが、調べてみると嘘だったということが多かったこと、皇帝が対抗妖術(弁髪を根元から切ってしまうこと)を禁止するとともに、厳しい取調べが民衆の恨みをかうのを恐れて慎重な捜査を命じたことについて述べる。

 第8章では、まず、妖術の被害者を装って誰かをおとしいれたり、利益を得たりしようという事件が相次いで、官僚の間に一種の懐疑論がみられるようになったことについて述べる。次いで、初期に逮捕された「犯人」たちの証言が拷問によって強制されたものであったことがだんだん明らかになり、ついに、官僚の代表が皇帝に捜査中止を迫るに至る過程を描写する。11月 3日に皇帝は捜査の中止を発表した。

 第9章では、独裁的な力と官僚的慣例との関係について考察する。著者はマックス・ウェーバーの分析以来、歴史的に専制君主は官僚に譲歩してきたといわれているが、中国のシステムにおいてはそれらは両立し得たと主張する。そして、皇帝の独裁的力や、成文化された慣例の存在を示す資料を利用できなかったために、ウェーバーの分析では皇帝も成文化された慣例も影のような存在になったと述べる。(ウェーバーと似た傾向のものとして、プロイセンに関するハンス・ローーゼンベルクの分析を紹介。)著者の考えをまとめてみると、以下のようになると思われる。@皇帝は独裁的力を持っており、それは官僚との個人的関係という形で現れた。A官僚は規律にしぼられ、違反すれば弾劾された。しかし規律によって責任の範囲が決められていることは救いでもあった。B官僚は互いにかばいあい、文書には慣例的語句を羅列して、皇帝に弾劾のための資料をあたえなかった。C「政治犯罪」がおきると皇帝と官僚との個人的関係が表面に出てきて、皇帝に情報を提供しないことや職権の限界を責任のがれの口実にすることは、皇帝に対する個人的な裏切り行為とみなされた。

 第10章は、まず、その後、1810年と1876年に起きたSoulstealing事件を紹介する。次いで、皇帝が反妖術キャンぺーンで本当に解消しようとしたものは、官僚のことなかれ主義へのいらだち、反乱と同化作用への恐れ、江南=漢人文化の中心地への警戒であったと分析する。そして、反妖術キャンペーンが、ごく普通の人たちに、誰かに仕返しをしたり、金儲けをしたりする機会を与えたことについて述べる。誰かを「妖術使いだ」と名指しすることによって、社会的に力を持たない人々がいきなり「力」を持ったような気になってしまう(力の幻想)現象である。さらに、当時の社会と現代アメリカの「ゼロ−サム」社会との比較を試み、主たる問題が生産の増加による問題解決ではなく「損害の割当て」であるという点で似通っているが、発展史観の有無という点で異なっているとしている。最後に、著者は、「旧中国の官僚組織はよいものではなかったが、良きにつけ悪しきにつけ、あらゆる種類の熱狂を妨げたという点で、重要な碇の役割を果たしていた。」と述べ、それを失った今日、指導者たちはほしいままに群衆を煽動して「異端者」を攻撃していると締めくくっている。

 本書は、表面的には妖術恐慌が起こってやがて静まるまでの経過をさまざまな資料を用いて再構成したものであるが、その裏では、皇帝と官僚との勢力争い、満人と漢人の対立という2つの異なったドラマが進行している。

 妖術事件そのものは中国史において珍しいことではない。(澤田瑞穂『中国の現法』などを読むと、登場する妖術の数と種類の多さは驚くべきものである。)これを「1768年」という時点で鮮やかに切って見せたところに著者の手腕を見ることができよう。最終章の、「碇」を持たなくなった指導者たちが群衆を煽って「異端者」を攻撃するという部分は、「文革」などを思わせ、頁を閉じた後もしばらく物思いに耽らずにはいられなかった。 最後に1つだけわがままを言わせてもらうとすれば、もう少し漢字表記を増やしてほしかった。たとえば人名だと、満人にしか漢字表記が付いていない。英語圏の読者には関係ないのだろうが、読んでいて大変不便であった。

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