『東洋法制史研究会通信』第21号(2012年8月)

《記事》

清末民国時期法制関係日本人顧問に関する基礎情報・補遺

(附:松岡義正・志田鉀太郎著作目録)

西  英昭



 筆者は以前「清末民国時期法制関係日本人顧問に関する基礎情報」(法史学研究会会報12・2008、以下「旧稿」)を発表し、清末民国時期に法律顧問・各地法政学堂講師として活躍した日本人についてその人物情報を整理・公表したことがある。人物情報についてはその後も継続的に調査を行い、「岡田朝太郎について(附・著作目録)」(法史学研究会会報15・2011)や「村上貞吉とその周辺―人物情報紹介」(東洋法制史研究会通信19・2011)として発表しておいた。その過程でその他の人物情報についても細々と手がかりを得ることはあったが、一本の論文としてまとめるほどの分量でもなかったためそのままに留め置いていたが、今回これら個々の追加情報を補遺としてまとめることとした。旧稿と合わせてご参照頂ければ幸いである。

●岡田朝太郎

 旧稿及び拙稿「岡田朝太郎について(附・著作目録)」(法史学研究会会報15・2011)を参照されたい。その後新たに探し得た岡田の著作は以下の通りである。

≪岡田朝太郎著作目録・補遺≫

【刑事法関連の著作】
 「罪科学」(明法誌叢2~3・1892)
 「数度の犯罪に付き」(明法誌叢9・1892)
 「ヌーシャテル州新刑法法典に付き」(明法誌叢10~12、14~15・1892~93)
 「礦坑内に於て囚徒を使役する可否」(明法志叢23・1894)
 「第六十二号問題」(明法志叢28・1894)
 「刑法第二編第二章第二節に就て」(明法志叢33・1894)
 「「ベルチョン」氏式人身測定法」(警察協会雑誌5・1900)
 「「ベルチョン」氏式個人測定法」(警察協会雑誌6~10、12・1900~01)
 「刑法上に於ける人の生産及成熟時期に就て」(済生学舎医事新報95・1900)
 「改正刑法草案の評論に就て」(警察協会雑誌11・1901)
 「独逸諸国刑の執行猶予の成績」(警察協会雑誌15・1901)
 「巡査の姿勢竝用語と警察の外助」(警察協会雑誌17・1901)
 「刑法非改正論の一節に就て岸本法律学士に質す」「刑法非改正論を評す」「岡松君に」(東京法論社編輯局編『日本法律大家論集』(青木嵩山堂・1901))
 「都市の道路取締」(警察協会雑誌29・1902)
 「集翠 刑法改正案に就て」(法学針誌5~7・1902)
 「一罪と数罪との区別に就て」「承諾と犯罪成立との関係」(氏家寅治編『法律名家纂論』(清水書店・1902))
 「刑法」(明治法学60・1903)
 「国津罪と利未記」(法治国33・1917)
 「姦非に関する判決例」(性論2-1・1928)

【講義録】
 『刑法総則』(日本法律学校本科明治28年度講義録)(日本法律学校・1895)
 『刑法総則講義案:漢文』(有斐閣・1906)
 『刑法総論』(明治大学大正五年度法律科第一学年講義録)(明治大学出版部・?)
 『刑法総論』(明治大学大正六年度法律科第一学年講義録)(明治大学出版部・?)
 『刑法総論』(明治大学大正七年度法律科第一学年講義録)(明治大学出版部・?)
 『刑法各論』(明治大学大正八年度法律科第二学年講義録)(明治大学出版部・1919)
 「条件付裁判即ち刑の執行猶予の制度に就き」(『日本法律学校正科講義録 参考書目』(日本法律学校・?)

【川柳関連の著作】
 「探してゐるもの 川柳の古本を」(東京朝日新聞1924年12月5日)
 「川柳の趣味」(東洋哲学32-3・1925)
 「川柳と時代思潮」(文明協会ニューズ5・1930)
 「廻文」(東京朝日新聞1931年8月11日、趣味講座案内の短文)
 「日蓮上人と川柳」(東京朝日新聞1932年10月12日、趣味講座案内の短文)
 「川柳と俳句」(『俳句講座 第七巻』(改造社・1933))
 「忠臣蔵の川柳狂句」(東京朝日新聞1934年12月14日、趣味講座案内の短文)
 「川柳史」(『日本文学講座 第八巻』(改造社・1935))

【その他の著作】
 「祝辞」(倫理界1・1901)
 「教育雑感」(曽根松太郎『教育論集』(金港堂・1902)所収)
 「害の予防」(山本利喜雄『戦後経営』(早稲田大学出版部・1905))
 「(無題)」(新仏教徒同志会編『来世之有無』(井冽堂・1905)
 「分限令之解釋與教授之言論」(美濃部達吉他『活學』(奎文館・1906))
 「公園の雀」(福田滋次郎『詩言學言』(晴光館・1905))
 「唐土や花は咲かねど冬の月」(手紙雑誌6-1・1908)
 「公園の雀」(菅谷与吉『学生趣味』(日吉堂・1911)所収)
 「支那各省独立」(伊東忠太・杉村広太郎『阿修羅帳 第三巻』(国粋出版社・1921))
 「共匪漫談」(文芸春秋10-12・1932)
 「硯友社時代を思ひ出す」(文芸春秋12-8・1934)
 「法制」(日本商業学会編『商業実務講義 第三巻』(誠文堂・1934))
 「癌」(文芸春秋13-3・1935)
 「社会人より医師へ 私と医師」(週刊医界展望30・1935)

上記以外にまた
 訃報「岡田朝太郎博士」(東京朝日新聞1936年11月14日)
があり、岡田自身に関する文献として
 「法学博士 岡田朝太郎氏」(堀川鷺陽『初対面』(明文館・1916))
 「岡田朝太郎博士」(『他山百家言』上巻3(中国実業雑誌社・1917))
 「岡田朝太郎先生」(牧野英一『理屈物語』(日本評論社・1940))
があり、さらに清朝での法典編纂の状況を伝える談話として
 「岡田博士の赴任期」(東京朝日新聞1906年9月24日)
 「刑法草案奏上」(東京朝日新聞1907年10月10日)
 「清國法典談 岡田博士の歸朝」(東京朝日新聞1910年2月4日)
 「支那新刑法實施」(東京朝日新聞1913年7月3日)
 「岡田博士歸朝(神戸)」(東京朝日新聞1914年7月12日)
を確認できた。

●松岡義正

 旧稿発表後、熊達雲「清末における中国法律の近代化と日本人法律顧問の寄与について~松岡義正と民事関係法律の編纂事業を中心にして~」(JFE21世紀財団アジア歴史法学研究報告書(2009年度助成)http://www.jfe-21st-cf.or.jp/jpn/hokoku_pdf_2011/a02.pdf)が発表され、さらに詳細な状況が明らかとなった。

 旧稿で筆者は松岡の赴任期間について、当初の契約とその延長分が終了する明治44年4月の段階での帰国の可能性、また明治41年9月の大審院判事就任時での帰国の可能性と2つの可能性を提示しておいたが、熊氏は関連する諸資料の分析から松岡が中国滞在中に大審院判事に昇格したことを明らかにし、また「松岡が中国に赴任したのは明治39年11月13日で、満期解聘されたのは明治44年4月15日であった。これについては日本の『官報』に明確に記録されている」と指摘した。岡田朝太郎についてはたびたび一時帰国したことが新聞報道にも登場するが、松岡についてはそうした報道も管見の限り見当たらないことから、松岡の赴任期間については熊氏の分析によってほぼ解明されたとして良いのではないかと思われる。結果的に熊氏には筆者の疑問につき教示頂く形となり、感謝の意を表したい。熊氏の同論考は助成金の報告書ということもあり、後日本格的な論考を発表される予定とのことである。期して待ちたいと思う。

 その後の捜索では松岡の人となりを窺うことのできる興味深い新聞記事にふれることができた。引用して故人を偲ぶ縁としたい。

    「一日必ず三時間 原稿紙十枚を書かないと寝なかった松岡博士」
 思ひ起しても恐ろしいあの大震火災の劫火の中に、辛くも燒け殘った一冊の古いスクラップブックがあった、明治四十二三年頃のものらしいが、其中程のページに貼られた木版の版下こそは前後廿年の日子を費した苦心の大著で法學博士の當時は法學士松岡義正著強制執行法論(上中下三巻完結菊版通計千八百ページ)のタイトルページの原稿でこの大著の成るには極めて面白い一場の挿話がある。始め松岡學士にこの著の出版を引受けたいと申出たのは今から十八年前清水書店の主人葉多野氏であった。學士は之を承諾したが、しかし當方から脱稿の通知を出さない限り必ず書店の方から原稿の催促をしてはいけないと云ふ條件が附せられた。爾來、博士は中華民國政府の法制顧問として久しく任地に止まりそこに幾春秋かを經た。しかし博士は決して出版の事ををくびにも出さず葉多野氏亦緘黙して歸朝後も久しくこの状態が續けられたのである。それが突然大正十一年初秋博士邸から電話で脱稿の通知があって起稿十八年後にして始めて世に出ようとしたのである。しかるに、滿一年やっと全部の組版が終って正に印刷に着手しようとした時、かの震災は襲ひ來って、十八年の成果を挙げて一握の灰と化し去った。しかし、博士は何も云はずに、博士邸と一校正部員の家とに殘ったゲラ刷を拾ひ集め、爾來見當らぬ部分の補綴に、晝夜兼行で筆を取り十三年十月最後の一節が書き上ったのである。此當時博士は必ず一日に三時間づゝ原稿紙十枚を書上ねば寝に就かなかったと云ふ。
  〔読売新聞1925年4月11日朝刊4面〕

 このほか読売新聞ではハーグ国際司法会議への出席に関する記事(1)や、時折体調不良に陥った様子を報じる記事(2)が散見される。松岡に関する人物評や訃報には以下のものがある。
 「東京控訴院民事部長松岡義正君評判記」(法律日日177・1912)
 福井蓉峯「第一次試験委員長松岡義正氏を訪れて」(法学界1-6・1922)
 「松岡義正博士」(読売新聞1939年8月27日夕刊2面)
 「松岡義正博士が死去」(朝日新聞1939年8月27日夕刊2面)

 また、松岡の著作についての一覧を以下に掲げる。

≪松岡義正 著作目録≫

【論文】
 (校閲)「羅馬法言論(一~十一)」((白耳義ガン大學教授)ベー・バン・ウエツテル著・田能邨梅士譯・明治法學1~7、10~13・1899~1900)
 「訴の原因論」(日本法政新誌21・1899)
 「不可分債權と相殺との關係」(日本法政新誌28・1899)
 (質疑)「民事訴訟法問題解答――差押債權者と債務者と通謀して競賣期日を再三延期するときは他の配當要求債權者は共通謀の事實を證明すること能はさる限は其延期の不利益を甘受せさる可からさるや將た他に取るへき方法ありや」(明治法學10・1900)
 (質疑)「家資分散法問題解答――家資分散法第一條第三項の抗告は如何なる場合に爲し得へき性質のものなるや且其効果如何」(明治法學10・1900)
 「強制競賣の性質」(日本法政新誌36・1900)
 「破産宣告の渉外的效力」(法学志林6・1900)
 「不可分債權と相殺との關係」(東京法論社編輯局編『日本法律大家論集』(青木嵩山堂・1901)所収)
 (質疑)「民事訴訟法質疑―係官か競賣手續を誤りたるときは債務者は損害賠償を訴求することを得るか」(明治法學31・1902)
 「監査委員の性質を論ず」(明治法學46・1902)
 「受訴裁判所の裁判長か人事訴訟法の規定に從ひ無能力者の爲に選任したる代理人の性質を論す」(法學志林38・1902)
 「訴の原因論」(氏家寅治編『法律名家纂論』(清水書店・1902))
 「破産の原因」(早稲田學報91・1903)
 「上訴に關して終局判決と看做すへき確定の中間判決に對する再審の許否を論す」(日本法政新誌7-8・1903)
 「民事訴訟法に於ける判決の客觀的確定力の本質及其範圍を論す」(法令審議録(法令審議会会報)3・1903)
 「民事訴訟法に於ける上告の性質を論す」(日本法政新誌7-1・1903)
 「法人の名誉權に就て」(日本法政新誌9-5・1905)
 「訴權の性質」(日本法政新誌9-8・1905)
 「商號權を論ず」(法曹記事21-11・1911)
 「民事法與檢察制度」(鄭言筆述・蒋士立編『檢察制度』(中國圖書公司・1911))
 「民事訴訟政策」(法律日日169・1912)
 「民法上の留置權を論す」(法曹記事22-10・1912)
 「形式的眞實と實體的眞實」(法律評論10-8・1921)
 「民事訴訟法五百十條第二項に規定せる被告の返還請求權を論す」(『横田博士還暦教授二十五年祝賀記念論文集』(清水書店・1921)所収)
 「當事者本人の尋問を論す」(法曹會雜誌1-1・1923)
 「民事訴訟法の改正の趣旨」(法曹會雜誌8-12・1930)

【著書・講義録】
 『民法債權編講義 第一章一‐三節』(明治法律學校明治31年度第二學年講義録、田代律雄)(明治法律學校・1898)
 『物權法』(日本法律學校第四期講義録、中山成太郎)(日本法律學校・1900)
 『民事訴訟法』(松岡義正述、和佛法律學校・1901(6-8編、34年度乙種講習科用))
 『民事訴訟法』(岩田一郎講述、和佛法律學校・1902(6-8編を松岡が講述:明治35年度講義録))
 『人事訴訟手續法』(和佛法律學校明治36年度特別法講義録)(和佛法律學校・1903)
 『民事訴訟法講義』(明治法律學校明治36年度第三學年講義録)(明治法律學校講法會・1903)
 『破産法』(松岡義正講述、法政大學・1904)
 『破産法』(松岡義正講述、早稲田大學出版部・1904、刊年不明の版本もあり)
 『破産法講義』(松岡義正講述、明治大學出版部・1904(?))
 『民事訴訟法』(仁井田益太郎講述、法政大學・1904(6-8編を松岡が講述:明治37年度講義録))
 『民事訴訟法講義』(横田五郎講述、明治大學出版部・1904(3-5編を松岡が講述))
 『民事訴訟法』(松岡義正講述、法政大學・1905(3-5編:明治38年度講義録、6-8編:明治37年度講義録))
 『民事訴訟法』(板倉松太郎・松岡義正講述、法政大學・1905(7-8編を松岡が講述))
 『破産法』(法政大學明治39年度第三年級講義録)(法政大學・1906)
 『破産法』(早稲田大學明治39年度法律科第二學年講義録)(早稲田大學出版部・1906)
 『民事訴訟法』(横田五郎講述、法政大學・1907(3-5編を松岡が講述))
 『民事訴訟法』(日本大學明治40年度法科第二學年講義録)(日本大學・1907)
 『民法論 總則』(清水書店・1907)
 『民法論 物權法』(清水書店・1908(上巻)、1931)
 『人事訴訟手續法』(法政大學、審法學館・1908、刊年不明の版本もあり)
 『特別民事訴訟論』(巌松堂書店・1916(前編)、1918、1919(訂補再版)、1925(訂正5版))
 『破産法』(轡国太郎・1922)
 『民事訴訟法』(石田正七・1923)
 『強制執行要論』上中下巻(清水書店・1924-25、訂正第2版:1925))
 『民事證據論』(巖松堂書店・1925)
 『保全訴訟(假差押及假處分)要論』(清水書店・1926、第3版:1929、第6版:1936)
 『民事訴訟法』(文信社・1927)
 『新民事訴訟法註釋』第1~6巻(清水書店・1929-39、第3版:1929-39)
 『破産法論』(巌松堂書店・1929)
 『民事證據論』(張知本譯:上海法學編譯社・1937)
 (出版年不明分)
 『民事訴訟法第六編以下』(松岡義正講述、中央大學)
 『民事訴訟法第六編以下』(松岡義正講述、東京法學院)
 『民事訴訟法講義』(松岡義正講述、明治法律學校出版部講法會)
 『民事訴訟法講義』(松岡義正講述、明治大學出版部)
 『民事訴訟法』(松岡義正講義、早稲田大學出版部)
 『民事訴訟法』(松岡義正講述、日本大學)
 『民事訴訟法』(横田五郎講述、日本大學(6編以下を松岡が講述、明治38年日本大學講義録))
 『破産法講義』(松岡義正講述、明治大學出版部講法會)
 『破産法:完』(松岡義正講述、日本法律學校)
 『破産法』(松岡義正講述、日本大學)
 『破産法』(松岡義正講述、和佛法律學校)

●志田鉀太郎

 『志田博士喜寿記念保険論文集』(損害保険事業研究所・1944)に「志田先生略歴」及び「志田先生著述目録」があり、また同書末尾の寺田四郎による跋文でも志田の業績が細かに紹介されている。記念の論文集には三浦義道編『玉木・粟津・志田三氏記念祝賀 保険論文集』(波多野重太郎・1923)もあるが、同書では冒頭8行の略歴紹介があるのみで著作目録等はない。別にごく簡単な紹介として『千葉県の先覚』(千葉県企画部県民課・1973)にも2頁ほどの紹介がある。さらに春日井薫・印南博吉「商學部設立の功労者志田鉀太郎先生を偲ぶ」(明治大學商學研究所『創立六十年記念論文集』(明大商學論叢46-1/2/3、4/5/6・1962))も参照されたい。また最近では新たに村上一博「志田鉀太郎」(明治大学史資料センター編『明治大学小史 人物編』(学文社・2011)42~43頁)、朱大明「「志田鉀太郎」と中国商法の発展」(一橋研究35-3・2010)を得た。

 以下、志田の著作目録を掲げる。これは『志田博士喜寿記念保険論文集』にある著述目録を基礎としながら、筆者において補充したものである。

≪志田鉀太郎・著作目録≫

【論文】
 「偶感」(青春會文學雜誌5・1889)
 「保險に就きて」(明法志叢32・1894)
 「保險の刑罰法的觀察」(保險雜誌1・1895)
 「火災保險の歴史」(保險雜誌1~6・1895)
 「英國海上保險判決例」(保險雜誌4・1895)
 「英國生命保險會社法」(保險雜誌5~7・1896)
 「保險に關する國家の監督」(保險雜誌16・1896)
 「(討論)民法修正案第百九條は第三者に對して他人に代理權を與ふるの意思を表示したるときは正當に代理權を生ずるものとしたるか將た代理權は之を生ぜざれども第三者を保護する爲め恰も代理權を生じたるが如く看做すに過ぎざるか」(富井政章、仁井田益太郎、梅謙次郎、志田鉀太郎・法學協會雜誌14-6~11・1896)
 「問答」(警察眼4-7、9・1896)
 「開陳責任に就て」(保險雜誌25・1897)
 「生命保險最初の詐欺」(保險雜誌25・1897)
 「幣制改革と新民法」(早稲田學報1・1897)
 「(筆記)占有に関する羅馬法の規則(戸水寛人講述)」(早稲田學報2~4・1897)
 「(論説)財産權の目的は金錢に見積ることを得るものに限るや否や」(志田鉀太郎、山田三良、仁保龜松、仁井田益太郎・法學協會雜誌15-8~11・1897)
 「新旧商法の比較」(龍門雜誌118、119、122・1898)
 「保險會社法」(保險雜誌37・1898)
 「外國會社」(法學志林3-38・1901)
 「Etat actuel de la Législation au Japon en matière d’assurances sur la vie.」(Troisième Congrès International d’Actuaires, Paris 1901 p.652)
 「生命保險契約論」(内外論叢1-4・1902)
 「簡易生命保險」(保險雜誌79・1902)
 「簡易生命保險餘談」(法學新報12-4・1902)
 「生命保險の再保險を論ず」(保險雜誌82・法學新報12-8・1902)
 「私法の研究と社會法」(法學志林4-36・1902)
 「商號權」(日本法政新誌6-64・1902)
 「私法上所謂責任の意義」(明治法學47・1902)
 「商法の將來」(日本法政新誌7-10~11・1903)
 「私法制度に於ける内外表裏の觀察」(法學新報13-6~7・1903)
 「會社法論」(法學協會雜誌21-1~3・1903)
 「假拂金の法律上の性質に就て」(保險雜誌92・1903)
 「外國保險會社に對する供託命令」(内外論叢2-4・1903)
 「供託金に關する意見」(中央新聞1903年8月28日~9月5日)
 「再保險に就て」(法律新聞174~177・1903)
 「保險法に就て」(法律新聞174~177・1903)
 「(批評)法學士粟津清亮君の新著保險法を評す」(内外論叢2-3、3-4、3-5・1903、04)
 「條件及期限」(日本法政新誌8-3~5・1904)
 「クンツエ氏の「ゲザンムトアクト」論に就て」(法學協會雜誌21-6・1904)
 「北清事變と生命保險」(保險雜誌98・1904)
 「日清戰爭危險率」(保險雜誌98・1904)
 「相互保險會社に於ける基金醵出者の法律上の性質を論ず」(保險雜誌100・1904)
 「第三者の利益の爲にする保險」(保險銀行時報200・1904)
 「相互保險」(保險銀行時報200・1904)
 「催眠術と民法との關係」(法學協會雜誌22-8、9・1904)
 「催眠術と民法の關係」(中外醫事新報594・1904)
 「意思表示の觀察方法を論じて明示及默示の區別に及ぶ」(明治法學69・1904)
 「權利の新種類に就ての研究」(法學志林6-59~61・1904)
 「The Risk-Rate of the Late Chino-Japanese War.」(Proceedings of the fourth international congress of actuaries, N.Y. 1904, Vol. I. p75)
 「復代理人の性質及復任權」(日本法政新誌8-7・1904)
 「物權の性質に關する新學説」(法學志林63~64・1904)
 「(校閲)<資料>獨逸保險契約法草案批評(一)(二・完)」((ゲツチンゲン大學敎授)エーレンベルヒ、(法科大學)佐竹三吉譯、明治法學68、69・1904)
 「(校閲)<資料>生命保險契約の法律的性質に關する學説を批評す(一)~(六・完)」(ルードウ井ヒ・ベンヂツクス著、(法科大學生)佐竹三吾譯、明治學報78、79、82~86・1904、05)
 「留置權の要件としての聯關を論ず」(法學協會雜誌23-7~9・1905)
 「民法第一九二篠及第一九三篠の沿革竝法制比較」(法學新報15-1~5・1905)
 「明治三十八年以後の生命保險界」(保險銀行時報215・1905)
 「日本に於ける私法研究の方針」(慶應義塾學報90・1905)
 「催眠術と民法との關係」(催眠學界5・1905)
 「奨進醫會總會」(中外醫事新報596・1905)
 「醫術と民法との關係」(醫談98、99・1905、06)
 「(校閲)<資料>職業上の災害に關する比較法制(一)(二・完)―私法上責任の原則と勞働者保護の程度―」((佛國法學博士)アレキサンドロ・ルーロ著、(法科大學生)篠崎昇譯述、明治學報87、88・1905)
 「南満洲鐵道株式會社法」(法學協會雜誌24-7~10・1906)
 「民事會社の名稱」(國民經濟雜誌1-4・1906)
 「商業と商業以外の營業とを併せて目的とする會社」(國民經濟雜誌1-4・1906)
 「營業保險に於ける保險契約者」(日本法政新誌10-2・1906)
 「他人の爲にする生命保險契約の保險金額を受取るべき者の權利の發生期」(内外論叢5-6・1906)
 「社會的暗示と教育」(東京市教育會雜誌17・1906)
 「法人は疑制に基くものに非ざる所以を論ず」(法學新報16-4・1906)
 「帝國大學教授之地位」(美濃部達吉他『活學』(奎文館・1906)
 「株主名簿に記載なき株主と株主總會招集の通知」(國民經濟雜誌2-4・1907)
 「法人の署名方法」(國民經濟雜誌3-2・1907)
 「人の通稱雅號を記載せる手形の效力」(國民經濟雜誌3-2・1907)
 「「一時に株金の金額を拂込むへき場合に限り株式の金額を二十圓までに下すことを得」との條文の意義」(國民經濟雜誌3-2・1907)
 「合資會社に於ける有限責任社員の責任」(法學志林9-11・1907)
 「請求權の本質」(法學協會雜誌25-9・1907)
 「「カード」式記帳と商業帳簿」(國家學會雜誌21-1・1907)
 「生命保險料の集金慣習」(國家學會雜誌22-1・1908)
 「株式會社か事業に着手したる後其設立の無效を發見したる場合になすへき清算を論す」(法學協會雜誌26-4・1908)
 「政黨と名づくる團體」(明治學報124・1908)
 「清國へ赴任するに就て」(保險雜誌149・1908)
 「滞清雜話」(保險雜誌158・1909)
 「保險業は清國に於て有望なりや」(保險銀行通信6・1910)
 「保險界の諸問題」(保險銀行時報491・1910)
 「生命保險證券の法律上の性質を論ず」(保險銀行時報495・1910)
 「清國の保險業」(保險銀行通信6・1910)
 「小口保險に就て」(保險銀行時報499・1911)
 「小口保險官營問題と社會政策」(保險評論4-3・1911)
 「淸國法律談」(岡田朝太郎と共著、法學協會雜誌29-3・1911)
 「犠牲の精神」(學生2-1・1911)
 「支那の經濟的地位」(財界16-2・1911)
 「檢察制度與對外關係」(鄭言筆述・蒋士立編『檢察制度』(中國圖書公司・1911))
 「憂ふべき保險會社の増設」(保險銀行時報499・1912)
 「支那の現在並に將來」(東京經濟雜誌66・1912)
 「保險會社の濫設を戒む」(財界16-6・1912)
 「保險の意義に關する新説」(保險評論6-10・1913)
 「商業の複数主體」(國民經濟雜誌14-1・1913)
 「今日の急務は田舎を着實に改良するに在り」(國家及國家學1-2・1913)
 「商法の世界統一」(國家及國家學1-8・1913)
 「商法の統一」(法律日日191・1913)
 「支那時局私論」(支那04(02)・1913)
 「支那開發の先登舞臺」(支那と日本3・1913)
 「所謂被保險者團體を論ず」(生命保險會社協會會報3-3・1914)
 「商人の意義に就て」(法律評論2-19・1914)
 「商法第一九六條第一項に所謂開業の意義を論す」(法曹記事24-2・1914)
 「社會病理學に就いて」(日本社會學院年報3-1~2・1915)
 「我商法上損害保險契約と生命保險契約とを綜合する保險契約の統一觀念を認むるや」(法律評論4-17・1915)
 「所謂簡易保險に付て」(國家學會雜誌29-3~5・1915)
 「所謂簡易保險に付て」(法學協會雜誌33-4・1915)
 「所謂簡易保險に付て」(生命保險會社協會會報4-4、5-1・1915)
 「簡易保險官營理由の批評」(保險銀行時報701・1915)
 「吾國に適當なる疾病保險法如何」(法律新聞1016・保險銀行時報725・1915)
 「我邦に最も適當する疾病保險制度は如何なるものなりや」(救濟5-6・1915)
 「我邦に最も適當する疾病保險制度」(刀圭新報6-12・1915)
 「契約の統一觀念を認むるや」(法學評論4-17・1915)
 「航路は正確に測量して置け」(冒險世界8-6・1915)
 「病氣に罹れる現代日本」(世界之日本6-6・1915)
 「宗教に就いての所感」(法華1915年7月号・1915)
 「支那に對する希望」(大陸22・1915)
 「官營簡易保險の七大奇蹟」(保險銀行時報750・1916)
 「我商法上損害保險契約と生命保險契約とを綜合する保險契約の統一観念を認むるや」(保險評論9-1・1916)
 「鮮滿及北支那視察談」(『戰時經濟財政調査報告 第18回』(東京交換所・1916))
 「朝鮮及北支那の現況」(保險銀行時報770・1916)
 「生命保險業者に望む」(保險銀行時報772・1916)
 「歳首進言」(保險銀行時報804・1917)
 「偶感偶語」(保險銀行時報825・1917)
 「創業費を資産としての貸借対照表に計上する慣例を論ず」(法律新聞1257・會計1-1・1917)
 「暖簾(Goodwill)に就きて」(會計1-2・1917)
 「資本なる語の商法上の意義を論ず」(會計2-4・1917)
 「大人格者としての日蓮上人」(黒潮2-11・1917)
 「海外に輸出せる我国物品の粗製濫造に対する非難並に其の実例と之が救濟策」(太陽23-4・1917)
 「商法第三百九十九條の二及び第四百二十九條の解釋に付ての争議」(生命保險會社協會會報6-3・1917)
 「小商人の意義」(法治国37・1917)
 「創業費と資本」(日本經濟新誌23-3・1918)
 「貸借対照表に於ける創業費」(會計3-2・1918)
 「粗製濫造の日本」(財政經濟時報5-8・1918)
 「新種保險の創始を促す」(保險銀行時報857・1918)
 「事業經營學に就て」(保險評論11-4・1918)
 「滿鮮視察談」(保險評論11-4・1918)
 「如何にして會社を取締るべき乎」(日本一4-3・1918)
 「世界の征服」(實業公論第4年10月号・1918)
 「犠牲的精神」(大町桂月『日本研究 美点弱点長所短所』(日本書院・1918))
 「ソリダリテソシアールに就て」(法學協會雜誌37-4・1919)
 「社會連帶に就きて」(法學協會雜誌37-8、10・1919)
 「經濟組織上より見たる生命保險業者の報酬に就て」(保險銀行時報908・1919)
 「武力的帝國主義と經濟的帝國主義」(實業公論5-1・1919)
 「大正九年を迎へて」(保險銀行時報958・1920)
 「保險用語としての「危險」」(保險銀行通信256・1920)
 「貧富兩階級の自覺」(財政と經濟4-6・1920)
 「歳晩雜感」(保險銀行時報1008・1920)
 「社會連帶と保險」(保險銀行時報1009・1921)
 「論壇 雜感」(保險銀行時報1011・1921)
 「簡易保險最高額引上説根據薄弱」(保險銀行時報1023・1921)
 「簡易保險限度引上反對」(東京經濟雜誌2086、2087・1921)
 「保險の貯蓄性に就て」(保險銀行時報1059・1922)
 「他人の所有物を保管する者の締結する火災保險契約」(經濟及商業1-2・1922)
 「勞使協調の急處」(工業界13-2・1922)
 「保險課長代理時代の回顧」(保險銀行時報1110・1923)
 「投資の本領と調査機關」(保險銀行時報1130・1923)
 「投資調査機關の設置に就て」(保險銀行時報1133・1923)
 「社會連帯の思想」(保險評論16-4・1923)
 「地震に因る火災に關して」(復興叢書第4輯・1924)
 「震災保險と其實行難」(エコノミスト2-2・1924)
 「將來の保險監督」(保險銀行時報1153・1924)
 「序文」(大住達雄『倉庫證券に関する學説及判例』(巌松堂・1924))
 「大震災に際して我邦會計學者の健在を祝す」(會計13-6・1925)
 「抽籤の不履行か償還の不履行か」(インヴエストメント2-2・1925)
 「保險の基本精神を論ず」(明大商學論叢1-1・1926)
 「保險の基本精神に關する純理的批判(一、二)」(保險評論19-8、9・1926)
 「保險學の研究方法に就きて」(保險銀行時報1254・1926)
 「嗚呼穂積陳重先生」(龍門雜誌452・1926)
 「穂積陳重先生の學恩」(『故穂積男爵追悼録』(學士會・1926)所収)
 「所謂抽籤義務なるものの不履行に就て」(板橋菊松『社債法十講』(清水書店・1926))
 「犠牲的精神」(大町桂月『日本国民性の解剖』(日本書院・1926))
 「火災保險助成金棒引論」(法律春秋1-4・1926)
 「「アクチュアリー學」の意義に就て」(明大商學論叢2-1・1927)
 「我邦に於ける保險教育の既往及び將來」(明大商學論叢2-4・1927)
 「保險の根本精神」(『財政經濟生命保險講演集』(日本生命保險・1927))
 「生命保險思想」(『保険パンフレット』(1927))
 「傳統の光榮と責任」(植民6-9・1927)
 「我邦に於ける保險學説としての財産入用説の現情」(明大商學論叢3-5・1928)
 「生命保險の改善と諸問題」(保險評論21-12・1928)
 「生命保險業の改善と諸問題」(エコノミスト6-21・1928)
 「生命保險の思想(一、二)」(保險銀行通信491、493・1928)
 「社會問題と保險」(社研6-9・1928)
 「支那留學生教育時代」(『法學博士寺尾亨氏三周年追悼會紀要』(故法學博士寺尾亨氏追悼會残務所・1928))
 「序文」(岩瀬茂夫『生命保險代理店讀本 : 完』(明治大學出版部・1928))
 「共濟組合の基本精神を論ず」(明大商學論叢5-4・1929)
 「日本商法典の編纂と其改正」(『明治大學創立滿五十年記念論文集』(明大商學論叢10-5、6)・1931)
 「今後の生命保險事業經營に就て」(保險經濟123・1931)
 「日本保険法論跋文」(『粟津博士論集7』(粟津博士論集刊行会・1931))
 「歡迎の辭」(日本經營學會『經營學論集第五輯 中小商工業問題』(同文館・1931))
 「序文」(水島芳静『日蓮上人の御一生』(日蓮上人六百五十遠忌奉賛會・1931))
 「保險の金融的使命」(保險毎日新聞第5年204号・1932)
 「徳川期に於ける民衆的音曲と武士道」(國漢研究1932年4月号・1932)
 「立憲政治と政黨」(公民教育會『公民教育講演集』(宣揚社・1933))
 「序文」(水島芳静『新しく説いた日蓮上人の御一生』(富文館書店・1934))
 「講評」(『生命保險契約高百億円達成記念懸賞論文集』(生命保險會社協會・1935))
 「難路克服の眞劍味」(保險銀行時報1809・1937)
 「序文」(『創立六十周年記念論文集』(明治大學・1940))
 「保險精神と共濟精神」(『蒼梧矢野恒太郎君保險關係五十年記念文集』(矢野恒太君保険関係五十年記念會・1941)所収)
 「學界及び業界の回顧」(生命保險協會會報33-1・1950)

【著書・講義録】
 『代理法』(東京専門學校行政科第8回1年級講義録)(東京専門學校・1897)
 『商法總論』(1899)
 『志田氏商法要義』(和佛法律學校・1899)
 『株式會社法』(東京専門學校・1899)
 『商法要論會社法』(東京専門學校出版部・1899)
 『日本商法論 巻之一 總論 第一編商業』(1899、訂正3版:1900、訂正4・5版:1901、訂正7版:1902、訂正8版:1903、訂正9版:1904)
 『株式會社法』(東京専門學校法律科第11回第三部講義録)(東京専門學校・1900)
 『日本商法論 巻之二 會社』(1900、3・4版:1901、6・7版:1902、8版:1903、9版:1906)
 『日本商法論 巻之三 商行爲』(1901、3版:1901、訂正6版:1902、7版:1903、8版:1904)
 『日本商法論 巻之四 手形』(1902、4版:1903、5版:1904、6版:1906)
 『商法論』(日本法律學校法學明治35年度2部講義録)(日本法律學校・1902)
 『保險判例集』(粟津清亮と共著、有斐閣書房・1903)
 『商法商行爲編講義』(明治法律學校明治36年度2學年講義録)(明治法律學校講法會・1903)
 『商法要義』(和佛法律學校・1903)
 『商法會社』(和佛法律學校・1903(?))
 『商法講義案:緒論總論商業』(有斐閣書房・1904)
 『會社法』(早稲田大學明治37年度法律科第二學年講義録)(早稲田大學出版部・1904)
 『民法債權各論講義案』(有斐閣書房・1905)
 『會社法』(日本大學明治38年度第二學年講義録)(日本大學・1905)
 『民法債權編講義 第一章』(明治大學明治38年度法學科第二學年講義録)(明治大學出版部・1905)
 『保險法講義』(明治大學明治39年度法學科第三學年講義録)(明治大學出版部・1906)
 『民法總則編講義』(明治大學法律科明治39年度第一學年講義録)(明治大學出版部・1906)
 『法律大辞典』(校閲、渡部万蔵著、郁文舎・1907、1908年版、訂正第四版:1909)
 『民法總則』(東亞編譯社譯・1907)
 『民法總則編講義』(明治大學法律科明治40年度第一學年講義録)(明治大學出版部・1907)
 『民法總則編講義』(明治大學法律科明治41年度第一學年講義録)(明治大學出版部・1908)
 『民法總論』(日本大學改明治41年度法科第一學年講義録)(日本大學・1908)
 『民法總論 私權得喪論以下』(日本大學改明治41年度法科第一學年講義録)(日本大學・1908)
 『商法總論』(巌松堂書店・1916(5版:1922、6版:1924、7版:1925、訂正10版:1931))
 『官營民營生命保險撰擇の栞』(1916)
 『保險學 總論』(北光社・1922)
 『保險總論』(1925)
 『保險學講義案』(明治大學出版部・1927)
 『會社法講義案』(明治大學出版部・1928)
 『商行爲法』(明治大學出版部・1931)
 『保險學講義案』(明治大學出版部・1933)
 『日本商法典の編纂と其改正』(明治大學出版部・1933)
 『ヴョルネル氏保險總論』(印南博吉と共訳、明治大學出版部・1933)
 『改正商法總論』(巖松堂書店・1941)
 (出版年不明)
 『民法債權講義』(明治大學出版部)
 『民法總論 完』
 『民法總則』
 『保險總論』(東京高等商業學會)
 『商法保險法講義 完』(明治大學出版部)
 『民法總則編講義』(明治大學出版部)
 『保險法 完』(中央大學)
 『債權法 總則』(東京専門學校)
 『保險法』(日本大學)
 『商法總則』(東京高等商業學會)
 『商法總則』(日本大學)
 『經濟の話』(不明)
 『會社法』(日本大學)
 『會社法』(東京専門學校)
 『商法總則』(東京専門學校)
 『商法通論』(明治大學出版部)
 『保險法』(東京法學院大學)
 『商法總則』(法政大學)

●小河滋次郎

 新たに小野修三『監獄行政官僚と明治日本 小河滋次郎研究』(慶應義塾大学出版会・2012)が出版されたが、清朝での活躍の様子についてはあまり触れられていない。

●巖谷孫蔵

 石井良一『武雄史』(非売品、石井義彦発行・1956)に「岩谷竜一と岩谷孫蔵の父子(昭和八、六、一二稿)」(同書669~673頁)が収録されており、うち約1頁分程度が巌谷孫蔵の紹介に充てられている。履歴について新たな情報はないが、非常に興味深いエピソードが紹介されているので、その部分を引用しておこう。

   孫蔵の独逸留学中、大審院検事総長三好退蔵は欧州出張を命ぜられ、独乙に来って曠世の英傑「ビスマルク」公に面会の希望あり、然し公は既に閑地に就き駐独公使の紹介を以ても到底其目的を達することができまいと苦悶せらるるや、孫蔵は直に一書を認め直接公へ発遣し日本の大審院検事総長が拝謁の希望ある旨を通じた。時に孫蔵は「ハルン」大学の学生にして二、三回其風丯に接したことがあるのみであった。三好退蔵は父岩谷竜一と深交があったため接触したのである。然るに其文が如何に巧みであったのか、其主意が如何に徹底したのか、意外にも某月某日郊外野墅に於て面会すべしとの電報に接した。三好総長は雀躍して喜び孫蔵を帯同し指定の時刻、指定の場所に至り、会見することを得たるのみならず、馬車を同じくして庭内を散策し家族一同と仝席の晩餐を饗応せられ、遂に二泊した。別るゝに臨み公は自己の写真に署名し両人に与へた。該写真は今尚ほ家宝として、三好、岩谷の両家に保有せられる。〔『武雄史』672-673頁〕

 巌谷孫蔵の招聘契約については、 国立公文書館所蔵の公文雑纂に写しが収録されている(3)。国立公文書館のホームページにて画像を閲覧できるので参照されたい。この写しには明治35年10月9日の日付がある。清国への赴任については読売新聞が1902年9月16日の出発と報じており(4)、また任免裁可書中の資料(在職年限調)(5)では「明治三十五年十月十八日清國政府應聘」とある。9月16日に出発し、翌10月9日に契約調印、18日から正式に開始、という段取りであったものかと推測される。その後顧問としての貢献に対してか、清国皇帝より二等第二寶星を授与(光緒34年3月25日(1908年4月25日)奉旨)されている(6)。なお彼の帰国については、読売新聞が1917年7月15日の解約・廃官を報じており(7)、旧稿で紹介した外務省史料において「大正六年病を以て辞職帰国」とある箇所とも符合する。

●板倉松太郎及び岩田一郎

 旧稿にて岩田一郎の没年月日を1921年10月22日としていたが、1923年10月22日の誤りであった。お詫びして訂正したい(8)。板倉・岩田の招聘契約書の写しが外務省記録の中にあることについては旧稿で指摘したが、国立公文書館の公文雑纂の中にも同じ写しが存在する(9)。契約書については両者とも1919年5月1日付になっている。読売新聞は同年5月15日の報道で「本月十日支那政府に聘用せられし旨發表ありたり」と報じている(10)

 うち岩田一郎については契約の延長を行っている。彼は当初の2年契約が切れる大正10年5月1日より翌11年4月30日までの契約継続を願い出てこれを許可されている(11)。継続して中国での任務にあたったものと思われる。その労に報いるためか、中華民国より二等大綬嘉禾章を授与(民国10年12月30日令行、民国11年2月24日頒発)されている(12)。岩田は後に大審院部長に補す旨上奏(大正12年9月15日付)されたが(13)、ほどなく同26日には退職していることが報じられている(14)。10月22日逝去の際には脳溢血による突然の逝去と報じられているが、既に体調がすぐれなかったものかもしれない。

 なお岩田は1922年3月に『支那司法制度視察報告書』として75頁にわたる詳細な報告書を外務省へ提出している。折からの領事裁判権撤廃問題の発生に関連して駐支特命全権公使からの嘱託を受け執筆されたものである。板倉と異なって中国法制に関する論考が見られない岩田が残した貴重な資料といえよう。板倉については旧稿で紹介したものに加え、中国法一般を論じたものにさらに
 「燕京に於ける住家の賃貸借」(法学志林21-12・1919)
 「北京の拍賣」(法学志林22-3・1920)
 「支那に於ける法律思想の変化」(法曹記事30-7、11・1920)
がある。

 以上、補遺という性質から散漫なものたらざるを得なかったが、少しでも各位のご参考になれば幸いである。なお著作目録については戦前期の諸目録からの情報整理であるため、タイトルや刊行年について元の目録の情報が誤っているものについては、それらを継承している可能性がある。筆者が気づいた範囲で訂正してあるが、引用等の際には再度現物にあたって確認されることをお願いしたい。人物情報については今回言及できなかった人物についても今後も継続して情報収集に努めていくこととしたい。


(1)「暑休明けの定例閣議 決定事項と人事」(読売新聞1925年9月3日朝刊2面)に「決定事項 一、來る十月ヘーグル開催の國際司法會議に出席す可き帝國政府委員(松岡義正博士)に對する帝國政府の態度訓令の件」との報道がある。
(2)「松岡大審院一部長卒倒」(読売新聞1928年3月1日朝刊7面)に「大審院民事部第一部長法學博士松岡義正氏はかねて肥満性腎臓病に悩んでゐたが去月廿九日大審院へ登廳し急性脳溢血を發して卒倒し目下本郷森川町の自宅に於いて静養中であるが同博士は有力なる大審院長候補者である。」との報道がある。
(3)「京都帝国大学法科大学教授法学博士巌谷孫蔵以下五名外国政府応聘中在職者ニ関スル規程適用ノ件」(公文雑纂・明治三十七年・第七十二巻・文部省・農商務省(一)(2A-13 纂850))参照。
(4)「巌谷博士の清國行」(読売新聞1902年9月19日朝刊1面)が「京都帝國大學教授法學博士巌谷孫蔵氏ハ六千圓の年俸を以て清國政府の招聘に應じ去る十六日渡清の途に上りしが博士着清の上ハ更に本邦より法學者數名を増聘するに至るならんと尚將來諸般の法律ハ日本を經て輸入することに決定し居る趣きなれバ我國の法學者にして清國政府より招聘せらるゝもの頗る多からんとの見込にて其招に應ぜんと今より運動せる法學者も随分多き模様なりと云ふ」と報道している。
(5)「京都帝国大学法科大学教授法学博士巌谷孫蔵外二名官等陞叙ノ件」(任免裁可書・明治三十九年・任免巻二十九)参照。
(6)「京都帝国大学教授法学博士巌谷孫蔵外四十名外国勲章記章受領及佩用ノ件」(JACAR (アジア歴史資料センター) Ref.A10112665400、叙勲裁可書・明治四十一年・叙勲巻十五・外国勲章受領及佩用八(国立公文書館)」
(7)「巌谷博士廢官」(読売新聞1917年8月4日朝刊3面)が「支那共和國政府應聘中の京都帝國大學法科大學教授法學博士巌谷孫蔵氏は去月十五日解約につき廢官となりたりと」と報道している。
(8)訃報に「岩田博士逝く」(読売新聞1923年10月24日朝刊5面)がある。
(9)「検事法学博士板倉松太郎外一名支那政府ノ招聘ニ応シ俸給ヲ受ケ並在職者ニ関スル規定適用ノ件」(公文雑纂・大正八年・第十二巻・司法省~請願陳情(2A-14 纂1460))参照。
(10)「判檢事支那應聘」(読売新聞1919年5月15日朝刊2面)参照。
(11)「判事岩田一郎支那政府聘用契約継続届通報ノ件」(公文雑纂・大正十年・第十九之一巻・司法省~府県(2A-14 纂01581100))参照。なお同史料の付箋には「大正八年五月十日招聘ニ應ズ」とあり、先の読売新聞の報道と符合する。
(12)「判事岩田一郎外三十三名外国勲章受領及佩用ノ件」(JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.A10112959900、叙勲裁可書・大正十一年・叙勲巻六・外国勲章記章受領及佩用一(国立公文書館))参照。
(13)「大審院判事判事岩田一郎ヲ大審院部長ニ補スルノ件」(任免裁可書・大正十二年・任免巻六十一)参照。
(14)「司法官更迭」(読売新聞1923年9月27日朝刊1面)では9月26日付での岩田の退職が報じられている。

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